[ハッピーエンドを知ってるかい]
ー前編ー
「きっとなれるよ」
そう言ってくれた母はしんだ。
「好きにしろ」
そう言った父はしななかった。
それが答えだと
この世界は唐突に残酷に
案外早く僕を大人へ導いた。
『英雄とは、悲劇の象徴である。
英雄の前には"悪"など存在せず、
ただ救いのない信念があるのみであり
だからこそ、』
「___俺は英雄であろう、か」
パタンと本を閉じる。
随分と皮肉れたものだ。
「ん?ああ、…切れたか」
ふと手元を見れば引っ掛けたのか
切れかけてしまった帯をそっと外す。
"期待の新人!新人賞受賞作品!!"
大きく描かれた文字を横目に
少しホコリの掛かってしまった写真を
左手でそっと叩いた。
「あの頃は、俺もお前も
同じだった筈なのにな。」
無邪気に笑うかつての友人に
そっと目を伏せる。
微かに晴れていた空も
分厚い雲が流れてきたのか
部屋から明かりが失われていく。
晴れなければいいのに。
暗くなった部屋の中
そう独りごちた。
"あれ"からもう10年。
俺達は面倒くさいガキから
つまらない大人へと変わり
あれほど嫌っていた筈の
『正しさ』の下で息をしている。
変わったものと
変わらなかったものは
確かにあの頃が過去のものだと
ただ示し続けていて。
「なあ、トモ。
お前が英雄を語るのは、まだあの頃を
引きずっているからなのか?」
無意識に口から出た問に
写真の中の彼が応える筈も無く、
寂寥感に満ちた時間に
無機質なアラームが終わりを告げた。
「…時間だな」
本を棚へ戻し
この時期には少し薄いコートを羽織る。
空は少しずつ白んで
太陽がその姿を徐々に現していく。
ふと部屋を見渡した。
いつもと変わらない其処に
いつもと同じ景色。
学生時代の友人の欠片に
触れたからだろうか。
いつもより少し、
君を強く感じた。
「…いってきます」
本格的に晴れてきた空に背を向け、
今日もあの子に会いに行く。
拝啓、あの日の君
あの日君が飛んでから10年。
俺は今でも、
前に進めずにいます。
*
「せんせ」
「悪い、待ったか?」
「うん」
「悪いな」
いいよ。そう言って笑うのは
かつての君ではない。
すまんな。そう言って笑うのも
かつての俺ではない。
英雄を夢見て、
英雄になれなかった少年は
中途半端に歩み続け、
教師という名の『正しさ』の
肩書きを手に入れた。
「ココアで良かったか」
「紅茶が良かった」
「おいおい」
「嘘。ココアが良い」
「あのなあ」
家に居たくないのだと
そう打ち明けてくれた教え子と
休日に会うようになったのは
もう数ヶ月も前の事になる。
教師というのは
圧倒的正義のように見えて
実を言うと凄く曖昧な立場にあった。
個人への過干渉は依怙贔屓とされ
平等である為には
表面的な指導しかする事が出来ない。
簡単に例を挙げるとするなら
よく聞く"いじめ"というのも
それに当てはまってくる。
もどかしいと言えばそうだが、
心の何処かでほっとしてしまった
自分にも気付いていた。
それでも綺麗な皮を被ろうとするのは
あの頃夢見た"英雄"を
未だ忘れられないからだろうか。
だからこそ、こんな風に
職務時間外に時間を重ねている訳だが…。
これすらもバレた時には
俺の首は飛ぶだろう。
それでも良いと思っているのか、
はたまた、いっそそうなればと
望んでいるのか。
年度末を目前にした今でも
答えは出せずに居る。
「ねえせんせ」
「何だ?」
「来年さ、先生
担任じゃ無くなっちゃうのかな」
「嗚呼、」
「もう後1ヶ月も無い」
此方を見上げた瞳が
不安そうにユラユラと揺れる。
「すまんな、…まだ分からないんだ」
「…そっか」
「……嗚呼。」
風が耳を撫でる。
息苦しくも感じる静寂を前に
彼女が啜るココアの音に耳を傾けた。
「ねえ、せんせ」
互いに目線を下げたまま話す。
「…何だ」
「先生は、___」
「……何?」
「…ううん、何でもない」
風に攫われた少し茶髪がかった髪が
冬の空に広がっていくのが見えた。
俺は何も言わなかった。
彼女も何も言わなかった。
日が傾いてくると
互いに何も言わずに手を握る。
少し冷えた手が
ゆっくりと温まっていくのが分かった。
これもいつからかやり出した
ルーティーンのひとつ。
傍目から見れば
この距離感は可笑しいと思うだろうけど
付き合っているのかと問われれば
俺達は揃って否だと答えた。
これは恋ではない。
けれど愛ではあった。
その日もいつもと同じように
暗くなるまで手を繋いで
いつも通り家まで送る。
帰り道の商店街でコロッケを食べて
静かに立ち並ぶ住宅街へと足を進める。
家の少し前、
家からは見えない曲がり角で別れ
また明日と手を振って、
彼女は今日もありがとうと笑った。
*
ふと目を開ければ、
日は完全に地平線の下へ潜り
部屋を暗闇が包む。
重い瞼に逆らうこと無く下ろせば
視界に赤が広がった。
英雄ごっこは唐突に終わりを告げ、
世界は変わらず俺を置いていく。
何も変わらなかった。
何も出来なかった。
所詮俺がやっていた事は
浅ましい自己満足であって
俺は俺しか見えていなかった。
分かりやすく告げた答えに
今更逆らう気も起きない。
重い体を起こすと、
散らかった部屋の中
ふといつかの本が目に付いた。
『英雄のいない町』
「…英雄は、悲劇の象徴。
だから俺は、」
終わりにしようと思った。
この命と、馬鹿げた理想に。
ぽつりぽつりと、吐き出す
同じ現実を見た友人の英雄論。
皮肉れた文章は
今ならすんなりと理解出来る。
「俺は、英雄になどなれない」
そうして俺は空へ飛んだ。
世界はいつも通り進む中で
勝手に幕を下ろした。
英雄を求めた。
英雄に憧れた。
だが今はそれよりも
彼女達と話したかった。
迎えてくれるだろうか。
笑ってくれるだろうか。
こんなにも愚かな俺を。
ああでも、もし許されるなら、
罪で塗りたくられた人生で
罪悪感に突き動かされた心で
まだ君と生きていたかった。
続く