【蒼の空と灰の雲(過去)第一話 出逢い】
あれは、サクラサク新学期。
小学三年生の春だった。
「ぼっちゃん、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃなくたってお父様がそういうんだからやらなきゃいけないんだろ」
「私は心配です」
「もう行くよ行ってきます」
「ぼ、ぼっちゃんっ」
ぼっちゃん
みんなが僕をそう呼ぶものだから
僕は少し前まで
自分の名前は
一条ぼっちゃんなのかと
本気で思っていた。
高台の一等地に立つ
エスカレーター式の小学校。
いつも同じ顔ぶれ。
大抵の奴が
ピアノをやっていたから
指先を痛めると
大変なことだ。
休み時間も
外で遊ぼうなんて奴は
少なかった。
僕も例に漏れない、
「御坊ちゃん」だから
休み時間はもっぱら
読書に勤しんだ。
大人に、そう
仕向けられているんだろう。
僕達は
「自分」がなかった。
敷かれたレールの上を
歩く事しか出来ない。
まるでロボットだ。
この暮らしに疑問なんて
感じないけれど
ただ
たださ
教室の窓から
下界の小学校を見る時
キャーキャー
ワァーワァー言いながら
校庭で遊ぶ下界のこどもたちは
なんだかすごく
楽しそうで、羨ましかった。
今まで世話役の松加瀬が
学校の校門前に
ベッタリと車をつけて
送り迎えしていたけれど
お父様の教育方針で
この小学三年生の春から
僕ははじめて徒歩で
登下校させられることになった。
不安もあるけれど
お父様の言う事は絶対。
逆らうなんて
馬鹿馬鹿しい。
あらかじめ
学校までの道順を
マーカーペンで指示された
地図を渡され
順路を頭の中に
叩き込まされた。
僕はその通り
レールに沿って
学校までの道のりを歩む。
朝の空気は
こんなにも
清々しいものなのか。
ちゅんちゅんと鳴く、
あれはなんて言う鳥なのか
朝からジャージに着替えて
走っているおじさんは
何をしているのか
「おはよう」
馴れ馴れしく
声をかけてくる老人に
戸惑いながら
小さく会釈を返した。
全てが初めてのことだらけ。
最初の不安は
屋敷を一歩出た瞬間に
跡形もなくなり
興味が深々と湧いてきて
僕は、はじめて
敷かれたレールを
飛び越えた。
地図のマーカーを
外れた道へと入り込む。
小さな路地を抜けると
そこは桜が満開の
公園だった。
公園といっても
僕が小さな頃
松加瀬に連れられて
遊んでいた公園とは
訳が違う。
遊具は鉄製で
ところどころ錆び付いているし
地面はただの土だ。
僕は堅い地面を
何度か踏みつけながら
呟いた。
「……転んだら痛そ」
清潔で、整った環境を
与えられて育った僕には
その景色は
汚らしくも新鮮だった。
その時、
僕は気配に気がつき
肩を震わせる。
そちらを見ると
砂場の上に
誰かが倒れていた。
驚いて息を飲んだけれど
よくよく見ると
もぞもぞと動いている様だ。
胸を撫で下ろして
僕は更にそれを
注意深く観察する。
薄汚れたランドセルが
投げ出されていて
髪の毛が砂まみれになる事も
厭わずに砂場の上に
寝そべっている。
「何……してるんだ」
呟いた独白は
静寂を醸す朝の空気を震わせて
そいつの耳に届いたらしい。
男の子だった。
突然、勢いをつけて
半身を起こすと
ぐるりと
首だけを僕に向け言う。
「……桜を、見てた」
汚れた黄色いトレーナー
その肘は擦り切れていた。
もさもさの髪の毛のサイドは
遠くからでも分かるくらい
だまになって、絡み合っている。
顔も洗っていないのかもしれない。
ところどころ粉がふき
黒く汚れたところも見受けられる。
そして、鼻水が
鼻の周りにこびりついていた。
「なんで、寝ながら?」
「だって、ほら」
僕の疑問に
彼は砂だらけの
頭をかきながら
笑顔で空を見上げた。
「下から見る桜って綺麗でさ」
その幸せそうな笑顔が
脳裏に焼き付くと
むくむくと
好奇心がそそられた。
お世辞にも
裕福な暮らしをしているとは
決して思えない彼が
庶民の遊ぶただの公園で
見上げるものに
どんな幸せが隠されているのか。
「そんなに…?」
僕の問いかけに
きょとんと僕を見つめた彼は
鼻水だらけの顔を
手のひらで拭って
笑いかけた。
「お前もやってみる?」
やってみたい。
心から、そう思った。
でも……
僕は、自らが着込んだ、
服を見つめ直す。
お父様が買ってくれた
アルマーニの服。
あんなところに
寝転んだら
砂だらけになって
汚れもついて
学校に行ったら
大騒ぎになるだろう。
僕が躊躇っていると
彼は「ざーんねん、気持ちいいのに」
そう、唇を尖らせ
また砂場に横たわった。
僕には、あの場所に
寝転ぶことは出来ないけれど
「ねえ」
勝手に口をついた呼びかけ。
「なぁーにぃ?」
寝転がった先の
桜の花を見たまま
僕の言葉に応えた。
「毎朝ここにいる?」
「だいたいは、いる」
「明日も来ていい?」
「俺に聞かなくてもいいよ」
笑み声を響かせた彼に
ほっと胸を撫で下ろした僕は
学校へ向かおうと
歩みはじめた。
ふと微笑んでる自分に
気がつく。
思えば
自分から声をかけて
誰かとお喋りしたのは
はじめてかもしれない。
公園を出ようとした時
「あ、なあ!」
いつの間にか
遊具の上に立っていた彼に
声をかけられた。
「え、何?」
「お前、名前はー?」
「一条、蒼志」
「へえ、あおし!俺、灰厘」
「はいり」
「うん!またな!」
またな。
その言葉に心が震えた。
同じような家庭環境の
死んだような目で生きる、
学校の友達より
「またな」その言葉一つで
友達になれた気がしたんだ。
大きな声なんて
出したことがなかった。
寡黙にあれと
お父様に教えられていたからだ。
でも、
大きく声を張った。
「またな、灰厘!」
少し遠くの彼に届くように。
そして踵を返して
僕はマーカーされた
地図の道へと戻っていく。
頭の中は
灰厘のことでいっぱいだった。
明日は
古い服を着てこよう。
汚れても
何も言われないように。
そして灰厘と一緒に
砂場に寝転んで
桜を見上げよう、
そう、微笑んで
通学鞄を背負い直した。