【さあ、笑え。】
つまらない。
゛生きている心地゛
というものが
いつの間にかしなくなっていた。
仲の良かった友達に
突然無視をされても
物凄く好きな子に
思わせぶりな態度を取られても
それが今では全部全部
どうでもよく、嫌いになった。
一体、いつ誰が僕を救ってくれる。
僕だって橘愛優夢という映画の
主人公を務めている。
だというのに、一向に
ヒーローが現れない。
冷たい風が吹いた。
背筋を芯から凍らすような風で、
心は正常な状態を保ってはいられない。
消えたくなったのだ。
どうしよもないクソ人間の癖に
プライドが高いナルシスト。
そんな奴を誰が救う?
そうしてまた、マイナスになる。
校舎裏の錆びた非常階段で
毎日恒例の゛ぼっち飯゛を済ませ
居心地の悪い
ましてや居場所など無い教室に
重い足を引きずりながら入る。
座って本を読んでいる
クラスメイトBや
窓の傍でふざけ合っている
嫌いな奴CとDが
一斉に僕に視線を集めた。
僕はイライラして、
「こっち見んなよ。」と
喉まで来た言葉を必死で止める。
次の授業の持ち物を
机に乱暴に置き
ストンと座って黒板を眺める。
数学の時の消し跡が残った
少し汚いその黒板には
嫌いな奴F当たりが描いたと思われる
落書きが残っていた。
黒板を眺めるのでさえ、憂鬱だ。
と、思っていた時
僕の机の前に1枚の紙が飛んでくる。
そこには
「茉夜の友達作り大作戦」
とだけ書いてあった。
如何にも胡散臭い。
くだらない。
見たことも会ったこともない人間に
もうそんなことを思ってしまった。
先生の所へ届けようと
教室を出てみる。
生徒指導室に学年主任の小川が
居たのを目撃した僕は
真っ直ぐにそこへ向かう。
「小川先生、
これ、落ちてたんですけど
このー。まや?って人に
渡しといてください。」
人に頼む態度じゃないだろ
色んな人にそう言われるけど
これが今の僕の素である。
小川は数秒固まって、
漸く口を開ける。
「ああ!
松根だな。松根茉夜。
三組の子だよ。すまんね、
俺は今、四組の奴の生徒指導だから
今もこのあとも予定があってさ。
松根なら今は保健室にいると思うから
橘、お前が持って行ってくれ。」
嘘だろ。クソだるいじゃねえか。
と、言いたくてたまらなかったが
さすがにそれも抑え、
「うい。」とだけ残して
保健室へ向かった。
階段を下り、
北校舎に入り、
検診ぐらいしか
足を踏み入れない
保健室を探す。
面倒臭かった僕は
保健室を見つけて直ぐに
ドアを勢い良く開けて入る。
奥のベッドに座っている
松根茉夜 と思われる女が
目を丸くして俺を見る。
どうやら今は養護教諭が居ないみたいだ。
「アンタ、松根茉夜か?」
こうなったら誰でも渡してしまえ と
思ったりもしたが
もっと面倒臭くなるのは御免だからと
一応名前を確認した。
「そう、です、けど。
私に何か用ですか!?」
五月蝿。
行成、大声を出されると
初対面でもなんでも
心の底から嫌いたくなる。
「これ、僕のとこに飛んできたんだよ。
松根茉夜。ここに同じ字が書いてある。
この紙、アンタのだろ?」
「あーっ!!
そうそう!慌てて保健室に
行ったものだから
うっかり落としちゃったんだ!
ごめんなさい!」
「はいはい、マジで感謝してね。」
「はい!
えっと、名前聞いてもいいですか?
もしかしたら、私。
知ってる人かも、なんて。」
笑いながら言ったその言葉だが
嘘のようには思えなかった。
「橘愛優夢。」
たかが漢字四文字 平仮名七文字だが、
これは俺にとってこ大きな大きな
架け橋となる。
「あーっ!
やっぱり知ってる人だった!
愛優夢くんさぁ!
あの、絵がすっごく上手い人!」
確かに俺は絵が上手い。
コンクールの入賞なんて
当たり前だし、
将来は美大に行け、と
名も知らない絵画教室の先生に
言われる程だ。
だが、何故此奴が俺のことを
知っているのかなんて
分かりやしなかった。
「愛優夢くんは
忘れちゃったかなあ。
ほら、小学校のときに通っていた
お絵描き教室で。
私たち二人で、いつも勝負してたな。」
それを言われた瞬間、直ぐに思い出した。
松根茉夜は、俺が通っていた
絵画教室に居た
俺を抜いて唯一、
トップの成績だった奴。
其奴はいつも同じような顔の
人間を描けるだけ描いて
描き終える度に入賞していた。
「思い出した。」
咄嗟にそう、口に出す。
そして松根茉夜は
嬉しそうに眉と口角を上げる。
聞きたいことが沢山あった。
また絵を描いているのかとか
描いているとしたら
小学生の時と同じように
同じ顔をいくつもいくつも
それも笑顔を描いているのかとか。
順番に聞こうと思った。
だがその時、
松根茉夜はベッドに座ったまま
頭を横にし倒れたのだ。
「このタイミングで昼寝?」
んな馬鹿なことで
現実から避けようと
していたのかもしれない。
けれど昼寝なんてものじゃなかった。
此奴、意識を失っている。
「おい!坂野!」
と、養護教諭の名前を連呼する。
そうすると直ぐに坂野は来て
ポケットからスマートフォンをだし
どこかに電話していた。
きっと救急車だろう。
「教えてくれてありがとうね、
橘くん。
松根さんは持病があって
ココ
毎日保健室に休みに来てるのよ。」
身内でも親戚でも仲のいい親友でも
ない俺に、んな情報
軽々言って大丈夫かよ。
と、思ったあと
俺は「そっすか。」と言い
保健室を出て行った。
次の日、いつも通り
゛あの゛教室に行って
席に着く。
黒板は綺麗であったため、
僕はずっと黒板を眺める。
ダダダダダ。と、
まるで学年一足の速い四組の近藤が
思いっきり廊下を
ダッシュするかのような音が聞こえた。
「愛優夢くん!!」
お前かよ、速。
と、うっかり言ってしまいそうになる。
そう、其処には
元気いっぱいの松根茉夜が居た。
「愛優夢くんってば!
話したいからちょっとこっち来てよ。」
俺は如何にもだるそうに
足を引きずらせ、
如何にもだるそうな顔で
彼女の元に行く。
「何。」
「私ね、痙攣重積型急性脳症。」
「は?」
その言葉の長さに
俺は゛けいれん゛の部分しか
理解することが出来なかった。
「だから!痙攣重積型急性脳症!」
「んあー、うんうん。
で。それが何。」
俺は松根茉夜の病名と思われるものを
聞き取るのを諦め
話を進めようとする。
「この病気の人ってね、
症状はとっても辛いけど!
死ぬ人はたった1%しか居ないの!」
「へー、そう。」
死ぬほど重い病気なんて
思ってもいなかったし
大して喜んだり悲しんだりはしなかった。
「だけどね、
私はその1%になったんだ。」
…は?
馬鹿な僕でもこれは理解出来た。
多分、此奴は死ぬ。
そういうことだろう。
「凄いよね。
百分の一が私に当たったって事だよ。
もうビックリだよ。
アイスの棒が当たったこと
なんてなかったし、
小学校のときにずっと好きだった
男の子と席が隣になることもなかった。
なのに、なのにこれだけってね。」
松根は笑いながら言った。
今此奴がどれだけ生きたいのか
今此奴がどんな思いで言ったのか
全く読み取れない
表情と口調。
「私はまた、明日から入院。
○○市の○○○病院だから
はいコレ、お馬鹿な
愛優夢の為に、地図を持ってきた。
お見舞い待ってるよ、なんて。」
またしても、笑っていた。
なんだろうな。
昨日会ったばかりの
というか、
昨日再会したばかりの知りあいに
こんなにも言い表せない
切なくて儚い感情と
それに加えて少し捨てがたい思いを
抱くのは初めてなのかもしれない。
そんな気持ちに取り憑かれた僕は
結局毎日、病院に通った。
醜い映画の主人公に
たった一人、
死と隣り合わせで
戦うヒーローが
やっと現れたのだ。
辛いことは
変わらず起きた。
もちろん、ヒーローが現れてからも。
死にたいと思うことも
たくさんあった。
もちろんヒーローが現れてからも。
その度に、松根茉夜は
「笑え。笑っちゃえば怖くない。
ただ、嫌な奴の前では笑わないで。
それはきっと゛笑顔゛じゃないから。」
と、言う。
だから僕は
松根の前では感情のままに笑うし
嫌いな奴の前では
感情のままに冷たい目をした。
「なあ、松根。
お前はいつ、死ぬ。」
「さーあ、いつでしょう。
きっとあと、もう少し。
不思議だよね。
自分の身体なのに
ちっともなんとも
分からない。」
僕は
僕は怖かった。
折角現れた
「橘愛優夢」という映画の
ヒーローが
消えるのだ。
たった一人、
頭の中で
グルグルと考えさせられる。
゛松根が死んだら゛
とか、
゛松根がもし助かったら゛
とか。
現実から避けまくってきた俺には
現実との向き合い方が
全く体に身についていない。
冬が終わりかけて
寒い風が
段々と暖かくなった。
今日もまた同じように
同じ病院に向かう。
病室に入る瞬間、
春の初めのくせに
背筋を芯から凍らすような風が吹いて
やけにイラつきながら
ドアを開けた。
荒ぶる息が
病室の壁まで届いていて
「苦しい」と涙を零す松根の姿。
人生で一番、凍りついた瞬間だ。
周りには初めて見るであろう
松根の母親と父親と思われる
夫婦が松根の手を握って泣いていた。
俺は過去最大に
死にたくなって。
共に着いて行きたくなって。
それでも抑えて
松根の方に走った。
「おい!茉夜!!大丈夫か!」
必死になって
゛届け゛
゛届け゛
って。
思いながら大声を出した。
父親と母親はびっくりして
俺の方を見る。
「愛優夢くん。
ありがとう。
ありがとう。
私はね、ずぅっと上から
見てるから。
ずっと、
ずっと、
愛優夢くんに穴があくまで
見てるから。
そしたら私は
黄泉の絵を描いて
上から見る愛優夢くんの絵を描いて
それを絶対
愛優夢くんに見せるよ。
さあ、笑って。
無理にじゃない。
本当の笑顔と一緒に
私の分を精一杯。
楽しんで。
お願い。」
荒ぶる息と
震える声。
それだけで僕は
泣くに泣いて泣きまくったけど、
最期に笑った。
茉夜が言った
本当の笑顔で。
何ヶ月か経って
席に座って
黒板を眺めていた。
そしたら僕の机の上に1枚の紙が飛んでくる。
それは今みると
ただの真っ白い紙だ。
けれど当時の僕には
一面に花が咲く美しい世界と
余りにも美化された僕が見えた。
僕はそれを
保健室には届けずに
ずっとずっと
握りしめていたと思う。