千華・2021-10-06
ピーチ・ハート
パラレル三国志
創作文
Bar.ピーチ・ハート 【Episode1】
「スプリングバンク15年 ブック・セラミック」
*******
都会(まち)の喧騒を離れた裏通りに、その店はある。
バー「ピーチ・ハート」。
気配り抜群でしっかり者の美形マスター趙雲氏と、ちょっぴり気の弱い天然癒し系のアルバイト姜維くんが切り盛りする、小さなカウンターバー。
今夜も、ちょっと疲れた男たちが羽根を安めにやってくる……。
*******
「ああ、遅くなった」
地下鉄の出口から猛ダッシュしているぼくの名前は、姜維。21歳独身。大学で考古学を学んでいる。
ぼくが全力疾走で向かっている先は、去年からアルバイトをしている「ピーチ・ハート」というバーだ。
――マスター怒ってるかな。
金曜の夜は、いつも閑古鳥が鳴いているこの店にしてはめずらしく、お客がたくさん来ることがある(ほんとに、たまにだけどね)。
だから、金曜日だけは少し早めに店に出るようにしているのだが、今日は思いがけない用事で学校に足止めされてしまったのだ。
時計の針は、もう7時半をまわっている。
ぼくは、とても優しそうな、でも本当は凄みのあるマスターの笑顔を思い浮かべて、ちょっぴり緊張した。
「マスター、すみません。遅くなっちゃって……」
できるだけ申し訳なさそうな声を作って、そっとドアを開けると、カウンターの向こうにはマスターのにこやかな笑顔(――この笑顔がとても怖い)。
磨きこまれたカウンターのいつもの席に、常連客が二人。
ここまでは、毎夜同じ光景だ。
ほっとして店内に入ったぼくは、奥のテーブル席に、見慣れない客が座っているのに気づいた。
「いらっしゃいませ」
思いっきり商売用の愛想笑いであいさつしたが、客はちらっと視線を動かしただけでにこりともしない。
(ちぇっ……。いやな感じ)
出勤早々肩透かしをくわされて、少々へこんでしまった気分を取り返そうと、わざと元気よく身支度を整える。
マスターは黙々と(来週のための)ビーフシチューを仕込んでいた。
「姜維くん、どうしたの今日は? 遅刻なんてめずらしいわね」
常連客のひとり、孔明さんは、もうすでにかなり出来上がっているらしい。
オカマである孔明さんは、毎晩8時半になるとお店に出る。
それまでの時間つぶしに、いつもここに寄ってくれるのだが、仕事に行く前にお酒なんて飲んで大丈夫なんだろうか。
「ちょっと学校でいろいろありまして……。
あ、マスター、本当にすみませんでした。連絡も入れられなくて」
「いいですよ、別に。これくらいのお客さまなら、私ひとりで十分お相手できますからね」
(わっ、やべえ。ほんとに怒ってるよ、マスター)
マスターがこういう丁寧な物言いをするときは、注意したほうがいい。
「ピーチ・ハート」のマスター趙雲さんは、いつも穏やかに微笑んでいて、滅多なことでは怒ったりしない。
けれど、縁なし眼鏡の奥の切れ長の目が、いつも表情ほどには笑っているわけじゃないのを、ぼくは知っている。
みんな、そのていねいな物腰と温かい雰囲気にだまされて?いるけれど、マスターは本当は、かなり熱くてシビアなひとなのだ。
ぼくは首をすくめて、タイミングよく空になっていた、もうひとりの常連であるフリーライターの張飛さんのグラスを取った。
「おかわりしましょうか?」
「んー、同じヤツ」
「まったくもう、どうしていつもウイスキーのウーロン茶割りばっかりなのよ!」
孔明さんが、柳眉をひきつらせて張飛さんをつつく。たわいない夫婦喧嘩を見ているようで、ぼくはこっそり笑ってしまった。
「あ、姜維くん。あちらのお客さまにも注文お聞きしてきて。もう、グラス空になってるはずだから」
マスターに言われたぼくは、ほんの少し顔を引きつらせて、くだんの客の前に立った。
年の頃は30代後半だろうか。隙のない服装といい、背筋を伸ばして座っている姿勢といい、よほどきっちりした人なのだろう。
「お客さま、何かお作りいたしましょうか」
聞いたとたん、帰ってきた言葉が、
「……バカめが!」
「はい?(ああ、びっくりした)」
「バカめが!バカめがっ!いったい私を何だと思っているのだ?」
「あの……お客さま?」
「私は教授だぞ」
「はあ(トホホ……)」
「それを何だ!まったく近頃の学生はなっておらん」
男性客は、手にしたグラスを乱暴にテーブルの上に叩きつけた。
マスターの目がキラリと光ったのを背中で感じて、ぼくは首筋の毛を逆立てた。
「はあ……申し訳ありません(って、なんでぼくが謝らなくちゃならないんだ?)」
注文も取れず、すごすごとカウンターに戻ってきたぼくは、マスターに泣きついた。
「マスター、ダメですよぉ。あのお客さま、こっちの言うことなんか全然耳に入ってませんよ」
「大学の先生? 初めてじゃないんでしょ」
孔明さんが頬杖をついたまま、夢見るような瞳で言う。
「東西大学の司馬懿先生。以前に同僚の方と二、三度お見えになったことがあります」
さすがにマスターだ。一度来た客の顔は、絶対に忘れない。
それにしても東西大学って、金持ちばっかりが通ってるので有名な「お坊っちゃま校」じゃないか。
「学校で嫌なことでもあったのかしらん。あんな仏頂面してたんじゃ、せっかくのいい男が台無しじゃない?」
「孔明さんは、誰を見てもいい男って言うよな」
ウイスキーのウーロン茶割りをちびりちびり舐めていた張飛さんが、にやりと笑う。
「ま、失礼ね! 少なくとも張さんには、言ったことないわよ」
何を思ったのか、張飛さんは急に立ち上がると、奥の客に声をかけた。
「ねえ、そちらの先生。こっちへきて一緒に飲りませんか」
「けっこうだ」
「取り付く島もないたあ、このことだね。……まあまあ、そう言わずに、酒は楽しく飲まなくちゃ」
そう言うと、張飛さんはウーロン茶割のグラスを持って、奥のテーブルに向かった。
「あわわ……張飛さんってば」
相手が堅苦しい大学教授でも、いっこうに物怖じしないところは、さすがにフリーライターである。
司馬懿先生の真向かいに座った張飛さんは、インタビューをするかのような口ぶりで尋ねた。
「何をそんなに怒ってるんです?」
「どうもこうもないわ! おとなしく授業を聞いているかと思えば、メールなんぞにうつつを抜かしおって!」
「あー、まあ今の若い連中は、スマホが三度の飯より好きですからなあ」
(あんたの授業が面白くないから、学生が遊ぶんだろーが!)
張飛さんの相づちを聞きながら、ぼくは思い切り心の中でツッコミを入れていた。
「いつもは代返ばかりで、まともに出てきておらん奴らが、今日はえらくまじめに出席しておると思っておれば……」
思い出すと余計に腹がたってくるのだろう。先生はこぶしを握り締めたまま、黙り込んでしまった。
そのとき。
「いいじゃないですか、先生。あなたには、教えるべき相手が前にいるんですから」
マスターがそっと、本の形をしたボトルと代わりのグラスをテーブルに置いた。
「先生のお好きなスプリングバンク15年、私からのサービスです。どうかご機嫌を直してください。ブックのボトルは、大学の先生にふさわしいでしょう?」
マスターがブックの中身をグラスに注ぐ。
琥珀色の液体がゆったりとただよい、芳醇な香りが立ち上る。
司馬懿先生は、驚いたようにだまってマスターの顔を眺めていたが、やがてにっこり笑うと、グラスを取り上げて口に含んだ。
「ああ、うまい」
先生はすっかり穏やかな表情になっている。
ぼくは時々、マスターが本当は魔法使いなんじゃないかと、真剣に思ってしまうのだ。
「マスター、ありがとう。やっぱり酒は楽しく飲まねばいかんな」
「そう、そして生身の学生を相手にするのも、楽しんでしまうことです」
マスターの言葉に、先生がはっと顔を上げた。
「そのうち授業も何もかも、パソコンの画面を通して――なんてことになりかねませんよ。そうなれば、学生に怒ることさえできなくなりますからね」
「………」
何となく、みんながしんみりしたところへ、勢いよくドアが開いて、ひとりの若い男性が入ってきた。
「あ、いたいた! やっぱりここか」
「キミは――、曹丕くんじゃないか」
司馬懿先生が驚いて立ち上がる。
曹丕と呼ばれた男性は、ぼくと同じくらいの年頃だろうか。学生だろうに、ブランドものの時計やネックレスをちゃらちゃらさせ、いかにも「いいところのお坊っちゃん」風だ。
彼はわき目もふらずまっすぐ先生のテーブルの横に進むと、小さく頭を下げた。
「先生、今日はすみませんでした」
「わざわざそんな事を言うために、こんなところまで来たのかね」
――ははあ、さてはこいつが、司馬懿先生の癇癪のタネだったんだな。
さすがに先生も、わざとしかつめらしい顔をしてみせたが、実際はもう、機嫌はすっかりよくなっているはずだ。
「今日は司馬懿先生の誕生日でしょう?今日、授業中にメールを回していたのは、そのことで友だちと相談していたからなんです」
「相談?」
「みんなで、先生の誕生日をお祝いしようって」
「何――?」
先生は、ぽかんとした顔で教え子を眺めた。
「さあ、先生、行きましょう! 別の店でちゃんと用意してあるんです。うちの親父が贔屓にしている高級クラブなんですよ。みんな待ってますから。こんな辛気臭いところはさっさと出ましょう」
「曹丕くん……」
突然の展開に、司馬懿先生は言葉も出ない。ただ、厳しそうな目元がうるんでいるのが、チラリと見えた。
「さあ、先生、早く早く」
勘定もそこそこに、司馬懿先生は曹丕という学生に引っ張られるようにして席を立った。
二人がそそくさと出て行き、ドアが閉まったところで、趙雲さんがつぶやいた。
「こんなところで……悪かったですね」
(きゃ~~っ! 怖いよ~~~)
ぼくはしばらく、マスターの顔をまともに見られなかった。
「いったい、何だったんだろうね、今のは」
「さあ」
嵐のように二人が去った後で、ぼくと張飛さんは、呆然と顔を見合わせていた。
カウンターでは、孔明さんがひどく酔っ払っている。
「口では難しいこと言ってても、中身はただのオヤジよね。ちょこっとでもいい男なんて思った自分が悔しいっ」
「孔明さんったら……(汗)」
今夜もこれからお勤めのはずなのだが、こんな状態で大丈夫なんだろうか。
「ま、いいわ。やっぱり私は今までどおり、マスター一筋で行くから」
「はあっ?」(←趙雲)
🥃了(初出 2005/9/3)
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拙サイトの2000ヒット自爆記念に、初めて書いたパラレル小説。
NOTEで時折架空出店している「Bar.ピーチハート」の記念すべき第1作です。
久々に、近々開店しようか…なんて考えているうちに、元の小説を読んでいただきたくなって、アップしてみました。
毎度長くて申し訳ありません。
登場人物の名前だけは三国志からの借り物ですが、元ネタは古谷三敏さんのマンガ「Bar.レモン・ハート」です。
張飛さんのキャラなんて「松田さん」まんまのパクリでごめんなさい。
孔明さんをオカマにしちゃってごめんなさい。
色々すみませんm(__)m
🥃スプリングバンク15年 ブック・セラミック
我が家にある「ザ・ウイスキー」という文庫本には、濃い藍色のブック型容器に入ったスプリングバンクの15年ものが掲載されているのですが、実はこの本かなり古くて、現在ではスプリングバンク15年は製造されていないようです。……すみません。
ほかのお酒に差し替えようかとも思ったのですが、ジェントルマン司馬懿先生には、やはり正統派スコッチウイスキーのシングルモルトが、一番ぴったりな気がしますし。
スプリングバンク8年は、昔よく飲みましたが、口当たりがよくてとても飲みやすいお酒でした。
🥃
Bar.ピーチ・ハート 【Episode8】
「花 束」
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都会(まち)の喧騒を離れた裏通りに、その店はある。
バー「ピーチ・ハート」。
気配り抜群でしっかり者の美形マスター趙雲氏と、ちょっぴり気の弱い天然癒し系のアルバイト姜維くんが切り盛りする、小さなカウンターバー。
3月年度末は、出会いと別れ、そして旅立ちの季節。
さて、今夜のお客様は……。
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「静かな夜ですね」
カウンターに座った上品な中年女性が、ぽつりとつぶやく。
時折、同僚と一緒に飲みに来ていた記憶があるけれど、目立つ感じの人でもなかったので、あまり印象に残っていなかった。
その女性が「静かな夜」と言ったのも道理で、今夜はめずらしく常連客の姿がない。
孔明さんは、今日から勤め先の慰安旅行(オカマさんばっかりの団体旅行って、ぼくには想像つかないんだけど;;)。
張飛さんは、季節遅れのインフルエンザにかかったとかで、しばらくの間、趙雲マスターから出入り差し止めになっていた。
どこか艶めいた春の気配がただよう店内には、趙雲マスターとぼく(アルバイトの姜維)、そしてその女性の3人だけだった。
「今日、30年間勤めた職場を退職してきたんです」
女性は、グレンフィディックのロックが入ったグラスをカウンターに置くと、ほっとため息をついた。
「そうですか。司馬さま、長い間お疲れ様でした」
マスターの言葉を聞いて、ぼくはようやく、その女性が司馬遼子さんという名前だったことに気づいた。
「定年っていうわけじゃないのよ。同期の人たちがみんなまだがんばってる中で、私だけ先に『一抜けた』しちゃって、申し訳ない気もするんだけど……」
「皆さんそれぞれに、事情もおありでしょうから」
「優しいんですね、マスター」
遼子さんの顔に、ほんの少し寂しそうな笑顔が浮かぶ。
「ああ、でもなんだかほっとしたわ。肩の荷が下りたっていうか――。そうしたら急にお酒が飲みたくなって、気がついたらここに来てしまってたの」
「大切な日に、うちの店を思い出していただいて、光栄です」
「ほんと。家に帰るより先にお酒を飲みに来るなんて、私って不良主婦ね」
「姜維くん、ちょっと」
マスターに呼ばれて、ぼくは奥のストックへ入っていった。
「向かいの花屋さんへ行って、花束を買ってきてくれませんか」
「花束……ですか?」
「今の時間ならまだ開いてるはずですから。女性の退職祝いだと言えば、適当に見繕ってくれるでしょう」
マスターの意図に気づいたぼくは、さっそく花屋へ行き、小さな花束を調達してきた。花の選択はお店の人に任せたので、マスターの気にいるかどうか自信はなかったけど。
店に戻ってくると、遼子さんはマスターと小説の話で盛り上がっていた。
「それじゃ、マスターはハードボイルドが好きなのね?」
「レイモンド・チャンドラーは、私の学生時代からのバイブルですよ」
「やっぱりね、っていう感じだけど、似合いすぎてて意外性がないわ」
酔いも手伝ってか、遼子さんの笑顔がしだいに華やいでいく。
「司馬さまは歴史小説がお好きでしたね」
「ふふ、マスターったら、つまらないことをよく覚えてるんだから」
「うちの常連客の張飛さんを相手に、幕末の話題で盛り上がっておられたでしょう」
「きゃあ、恥ずかしい;;」
大仰に照れつつも、まんざらでもないような……。(^_^;)
「以前、自分でも、小説のまねごとのようなものを書いているとおっしゃってましたね。お仕事を辞められたのは、それもあるんですか?」
マスターの言葉に、遼子さんの頬が赤く染まった。
「恥ずかしいから、周りにはずっと内緒にしてたんだけど、小説家になるのが子どもの頃からの夢だったの。ほんとに今さらだけど、夢を見るのに遅すぎることもないよねって思うと、がまんしきれなくなっちゃった」
――まあ、しばらくは大人しく専業主婦してるつもりだけど、と笑いながら、彼女はグレンフィディックを飲み干した。
「私のわがままを聞いてくれた主人や子どもたちには感謝してるのよ」
春の夜に交錯するのは、少しの寂しさと、遥かな希望と。
新たな出発(たびだち)へとけじめをつけた遼子さんの笑顔が、いっそすがすがしい――。
「では、私から司馬さまの前途を祝って、一杯おごらせていただきましょう」
マスターが、とっておきの一杯を遼子さんの前に置いた。
「司馬さまのシンデレラ・ドリームの実現を願って。どうぞ、『シンデレラ』です。ノンアルコールのカクテルなので、お口に合うとよいのですが」
「まあ、美味しい!目が覚めるわ。これって、飲みすぎるな、ってことかしら、マスター?」
一口飲んだ遼子さんは、いたずらっぽく片目をつぶってみせた。
「たまに羽目をはずすのは良いことだと思いますよ。ただ、お酒も過ぎると体をこわします。特にお一人のときは、ほどほどになさってくださいね」
「魔法が解けないうちに、家に帰りなさい、ってことね」
馬車がかぼちゃに変わるまでには、まだもう少し時間があったのだけれど。
遼子さんは、マスターの心づくしの花束に感激して家路についた。
いつか、彼女の書いた本が書店に並ぶ日がくるかもしれない。
新しい春に、乾杯。
🥃 了(初出2011/3/31)
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この小品の初出は2011年3月31日。
私事ですが、この日、30年間勤めた職場を退職しました。不況の折り、もったいないと人にも言われ、自分でもそう思う気持ちもあったのですが、いろいろ考えた末に決断しました。
といっても、このお話の遼子さんのように、大きな夢にチャレンジするなどという気概はさらさらなく、ただずっと憧れていた専業主婦になるというのが、当時の私の選択肢でした。
自分自身を励ます意味で書いたのが、このSSです。
ちょっと寂しいような、すがすがしいような。
定年退職なら、それなりに感慨もあり、寂しさもあるのでしょうが、私の場合はむしろ開放感の方がまさっていましたね。
新しい春に乾杯!
🥃 カクテル シンデレラ
ノンアルコールカクテルの一つ。サンドリヨン、もしくはサンドリオンという別名もある。
オレンジジュース 60ml、レモンジュース 60ml、パイナップルジュース 60ml をシェイカーに入れてシェイクし、丸底のカクテルグラスに注ぐ。氷を入れ、パイン・スライス、オレンジ・スライス、レモン・スライスを飾る。ソーダで割ってロングカクテルのスタイルにする場合もある。
🥃
Bar.ピーチ・ハート 【Episode2】
「水曜日の客」
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都会(まち)の喧騒を離れた裏通りに、その店はある。
バー「ピーチ・ハート」。
気配り抜群でしっかり者の美形マスター趙雲氏と、ちょっぴり気の弱い天然癒し系のアルバイト姜維くんが切り盛りする、小さなカウンターバー。
今夜も、ちょっと疲れた男たちが羽根を安めにやってくる……。
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今日は水曜日。
時刻は夜の8時50分を過ぎたところだ。
バー「ピーチ・ハート」のマスター趙雲さんは、黙々とオン・ザ・ロック用の丸い氷を削っている。
ぼく(姜維)はというと、棚のグラスを一つずつ取ってはきれいに磨く、という少々退屈な仕事を繰り返していた。
BOZEのスピーカーから低く流れるジャズだけが、時を刻んでいる。
水曜日のこの時間の、いつもの光景――。
「マスター、腹減っちゃった。何か作ってくんない?」
突然、カウンターでいつものようにウイスキーのウーロン茶割りを飲んでいた張飛さんのだみ声が、静寂を破った。
「トマトソースのスパゲティがいいなあ。大盛りで」
「張飛さん、すまないんだけど――」
と、マスターはちょっと翳のある声で言った。
「もう少し待ってくれませんか。もうすぐ9時なので」
「あん? 9時? ああ、そうか、徐庶さんね。分かった、後でいいよ」
「すみませんね」
マスターは、本当にすまなさそうに頭を下げると、再び氷を削り始めた。
毎週水曜日だけ、9時きっかりに店に現れる客がいる。
その客は、必ず最初にワイルド・ターキーをロックで一杯だけ飲む。
ぼくがこの店でアルバイトをするようになってから、その習慣は一度も破られたことがない。
その一杯目のグラスに入れるための、丸くて大きな氷を、マスターは削っているのだ。
もうすぐいつもの客が、ドアを開けて入ってくるだろう。
タイミングを見計らったように、マスターの手元で、地球のように丸い氷が出来上がる……。
「いらっしゃいませ」
いつも通り、9時ちょうどにドアが開いた。
入り口に立っているのは、「水曜日の客」徐庶さんだ。
トレンチコートに中折れ帽子、おまけにサングラスという、とんでもなく時代錯誤ないでたちなのに、不思議と浮いて見えないのはなぜだろう。
コートも帽子も、徐庶さんの身体にしっくりなじんでいて、そこだけが、まるでハンフリー・ボガート主演のモノクロ映画のようなたたずまいなのだ。
「お待ちしてましたよ。さあ、こちらへどうぞ」
カウンターの上に、ロックグラスとワイルド・ターキーのボトルを置こうとしたマスターに、徐庶さんはあわてて声をかけた。
「あ、マスター。すまない、今日はいいんだ」
「え?」
「ちょいと野暮用があってね。先にそいつを片付けてくる。ターキーは、それが済んでから、ゆっくりと楽しませてもらうよ」
そう言うと、徐庶さんは、入ってきたときと同じように静かに店の外に出た。
「絶対に寄ってくださいね。何時まででも、お待ちしてますから」
マスターの呼びかけに、徐庶さんは、背中のまま右手を軽く挙げて答え、夜の街に消えていった。
それから――。
趙雲さんは、30分おきに氷を削っている。
徐庶さんが、いつ店に戻ってきてもいいように。
あいかわらず、客は張飛さんひとりだけ。
徐庶さんが出ていってからというもの、ますます無口になってしまったマスターに、とうとう張飛さんは痺れをきらしたらしい。
「ねえ、マスター。腹減ったんだけど」
「………」
「ねえ、お願い、何か食わして。バカ盛りのトマトスパゲティとかさ」
「………」
「黙ってないで、何とか言ってよ。気配りの趙雲マスターだろ」
「姜維くん、そのうるさい客に、トマトソース大盛りでぶっ掛けてくれる?」
珍しくきつい冗談に振り返ると、案の定、縁なし眼鏡の奥の目は、笑ってはいなかった。
「え? 掛けていいんですかぁ」
「冗談ですよ。冷凍庫からソース出して、スパゲティ茹でかけて」
「はーい」
三個目の氷が見事な球形に仕上がったところで、マスターはようやくいつもの穏やかな笑顔に戻り、トマトソースの仕上げにかかり始めた。
「ねえ。徐庶さんてさあ、なんでいつもワイルド・ターキーの、しかもオン・ザ・ロックなの? バーボンは最初の一杯だけでしょ。後はジンとかウオッカとか、スピリッツ派じゃない? 徐庶さんて」
たっぷり二人前はあるスパゲティを平らげながら、張飛さんがマスターにしつこく質問している。
フリーライターという職業柄、何でも聞かないと気がすまないというのは分かるけどね……。
「徐庶さんが昔お世話になった方が、いつもターキーをロックで飲んでおられたんだそうですよ」
「ふ~~ん。お世話になった方ねえ。でも、それってちっとも答えになってないよ。……でさ、実際のとこ、どういう関係だったの? その人とは」
あんまりしつこいと、マスターに嫌われるよ、とぼくは余計な心配をしている。
「………」
「だいたいさあ、徐庶さんてふだん何してるの? ここではしょっちゅう顔を合わせてるけど、仕事とか家庭のこととか、全く謎の人なんだよね。なにか、やばい事でもやってるんだろうか。結婚は……まさか、してないよね?」
ハラハラしながら二人のやりとりを見守っていたぼくは、趙雲さんの眼鏡がきらりと光ったような気がして、思わず姿勢を正してしまった。
「張飛さん。それ以上何か尋ねたら、椅子ごと外へ放り出しますよ! そういうことは、本人に直接聞けばいいでしょう」
ほーら、言わんこっちゃない。
趙雲さんの迫力に、さすがの張飛さんもたじたじだ。
「あー、そう、そうだったね。マスターが言うと冗談には聞こえないから、怖いんだよ。はいはい、分かりました。そう睨みなさんなって。もう聞かないから」
「分かっていただければ結構です」
趙雲さんのえらいところは、このままでは終わらないところだ。
子どものように叱られっぱなしでは、張飛さんだって気まずいだろう。
まず、張飛さんのためにとっておきのジェラートをデザートに出すと、趙雲さんは、静かに語り始めた。
「私も、それほど詳しいことを知っているわけじゃありません。何しろ、めったなことではプライベートなことなど話す人じゃないですからね。ただ、この店に初めて来られたときからずっと、一杯目はワイルドターキーのロックですから、さすがに気になりましてね。あるとき遠慮がちに尋ねてみたんです」
「なあんだ。マスターだって知りたかったんじゃない」
間髪を入れずに、突っ込む張飛さんに、
「張飛さんみたいに、単なる好奇心じゃありません!」
と、マスターはぴしゃりと言った。
「私は、酒を人様に飲ませる商売をしているものとして、お客さまの嗜好や好き嫌いをきちんと把握しておきたいんですよ」
うん、うん、とジェラートのスプーンをなめながら、張飛さんは気のない相槌をうった。
「それで、徐庶さんは話してくれたの?」
「ええ、まあ」
一呼吸置いて、
「――聞きたいですか?」
趙雲さんの顔が、いたずらっ子のように輝いた気がした。
「聞きた~~~い! フリーライター魂が騒ぎますよ」
張飛さんと一緒に、ぼくも心の中で「聞きたい!」と叫んでいた。
その後の、趙雲さんの話によると。
徐庶さんは、幼い頃に両親をなくし、施設で育ったらしい。
お決まりの転落人生で、若い頃は、かなりアブナイ事もやっていたようだ。
そんな彼を手元に引き取り、やくざな世界から足を洗わせてくれた人がいた。
その人の助力で、徐庶さんはアメリカの大学を卒業し、ひとかどの事業を起こすことができたのだという。
その恩人が、いつも飲んでいたのがワイルド・ターキー。ロックグラスに丸い氷を入れて、ゆっくりと溶けていくのを楽しんでいたそうだ。
徐庶さん自身は、ウイスキーよりもジンやウオッカなどのスピリッツ系が好きなのだが、恩人に敬意を表して、いつも一杯目はワイルド・ターキーのオン・ザ・ロックを飲むことにしている、というのだった。
「ふーん、なかなかいい話だねえ」
「ぼく、今までどことなく徐庶さんって怖い感じがしてたんですけど、本当はすごくいい方なんですね」
ぼくは、強面の徐庶さんの外見を思い浮かべた。
あのサングラスの下には、案外涼しげで、優しそうな眼が隠されているのかもしれない。
「フリーライター魂は満足しましたか?」
「えーえー、十分満足しましたよ。でも、マスター、まだ話してないことがあるんじゃないの?」
「たとえば?」
「んー。徐庶さんって、やっぱり今もアブナイ仕事やってるんじゃないか、とかさ」
「どうしてそう思うんです?」
「いやあ、マスターがあんまり心配しすぎだからさ。つい、ね」
上目づかいに見つめる張飛さんに、マスターはふっと謎めいた微笑を浮かべた。
「ま、後はご想像におまかせしましょう」
ワイワイ盛り上がっているうちに、マスターの手元では五個目の氷が出来上がっていた。
そのとき。
ドアが静かに開いて、「水曜日の客」が顔をのぞかせた。
「遅くなってすまない。まだ、いいかい?」
「もちろんですとも。まだ、水曜日ですから」
マスターは、徐庶さんのための席に、ワイルド・ターキーのボトルとロックグラスを置くと、今仕上げたばかりの氷を入れた。
「どうぞ、こちらへ。お待ちしておりました――」
🥃了(初出 2005/10/13)
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「ピーチ・ハート」シリーズ第2弾をお届けします。
今夜は「水曜日の客」徐庶さんがゲスト。
というかこの人、本当は常連客のつもりのキャラだったんですけど。
今回は、ちょっと姜維くんの影が薄かったですね。
どこのお店だったか忘れましたが、オン・ザ・ロックを注文すると、バーテンさんが丸く削った氷をグラスに入れてくれて、それだけで感激した記憶があります。
普通の氷と違って、表面積が小さい分、なかなか溶けないから、酒が薄まりにくく、ゆっくりと楽しめるというわけ。
そういえば長い間、バーなんて行ってないなあ。
昔よく行った店は、ピアノが置いてあって、興の乗ったお客さんが勝手に弾いたりしていました。
カウンターに座って、まず一杯目を何にしようか、と考えるのが楽しかったものです。
🥃ワイルド・ターキー
アメリカン・ウイスキーは、原料・製法によりタイプが異なる。
アルコール分80度未満で蒸留し、内側を焦がした新しいオーク樽で熟成させた場合、原料にとうもろこしを51%以上含んでいればバーボン・ウイスキーとなり、ライ麦を51%以上含んでいればライ・ウイスキーとなる。
ただし、とうもろこしを80%以上含み、樽熟成させないか、熟成させるにしても内側を焦がしていない新樽か、内側を焦がしたオークの古樽を使ったものは、コーン・ウイスキーとなる。
七面鳥の絵柄のラベルで有名なワイルド・ターキーは、代表的なライ・ウイスキーである。
アルコール度数50.5度の非常に強い酒だが、口当たりはなめらかで、独特のまろやかさがある。
🥃
フレンドの皆さんの温かい言葉の贈り物を読ませていただいていると、なかなかここを去り難くて困ります(笑)。
そんな私からの置き土産をひとつ。
例によって三国志です。
但し、登場人物の名前だけを三国志から借りたパラレル小説「Bar.ピーチ・ハートシリーズ」の一作。
書いたのは遥か昔なので、昨今のコロナ禍のご時世にはそぐわない内容ですが💦
ご笑納ください。
Bar.ピーチ・ハート (年越し編)
都会(まち)の喧騒を離れた裏通りに、その店はある。バー「ピーチ・ハート」。
気配り抜群でしっかり者の美形マスター趙雲氏と、ちょっぴり気の弱い天然癒し系のアルバイト姜維くんが切り盛りする、小さなカウンターバー。
さて今夜は、どんな客が訪れるのだろうか……。
「ゆく年くる年」
あわただしい年の瀬。今日はもう十二月三十日。
毎年毎年この時期はうんざりする。
友人たちの中には、すでに仕事納めで、もうのんびりお正月の準備をしていたり、海外旅行に出かけたりしている人もいるっていうのに……。
私の職場はサービス業なので、クリスマスもお正月も関係ない。
それでも三年ほど前までは、元日だけはお休みだったのだが、今は年中無休だ。なにしろ、世間様がのんびりしている時の方がかえって忙しいというのが、この業界の常なのだもの。
そんな年末年始にももう慣れっこになってしまったが、やっぱり少し寂しい。
「ねえ、帰りにちょっと寄っていかない? この間偶然、いいお店見つけたんだ」
ロッカールームで一緒になった同僚のクミコが、グラスを空けるジェスチャーをした。
「年末年始の修羅場を乗り切るためには、充電も必要だよ」
「そうねえ。じゃ、行こうか」
身体はくたくただったけれど、今夜くらいはちょっぴり羽目をはずしたい気分。
ばっちり化粧直しもして、クミコと二人、夜の街に繰り出した。
行きつけのイタリアンレストランで、軽く食事をした後、お目当ての「店」に向かう。
その店は、ちょっとさびれた裏通りにあった。
地下鉄の駅を降りてから、十分くらいしか歩いていないのに、師走の都会(まち)の喧騒とはまるで別世界。「Bar.ピーチ・ハート」の看板も、少々うらぶれて見える。
「ねえ、ほんとにここなの?」
「そうよ。すごく感じのいいマスターと、かわいいウエイターくんがいるの」
「ふうん……。でも、何気に入りにくい雰囲気だけど」
「平気、平気。ささ、キョウコお姉さま、どうぞ」
クミコはちょっとおどけてドアを開けた。
「いらっしゃいませ!」
お店の中は、思ったより広くて明るい。
私たちは、笑顔のかわいいウエイターくんにコートを預け、カウンターの隅っこの方に遠慮がちに腰を下ろした。
「お客さま、よろしければ、もっとこちらへいらっしゃいませんか」
カウンターの中に立っていた男性が、おしぼりを準備しながら声をかけてくれた。
ふむふむ、これがクミコの言ってた「感じのいいマスター」ね。
「そんなに遠くては、お客さまのすてきなお顔がよく見えませんし」
マスターのさわやかな笑顔につられて、私たちも思わず笑ってしまった。
お客に対するリップサービスだとわかっていても、悪い気はしない。
勧められるままにカウンターの真ん中に移動してから、あらためて店内を見回してみた。
飾り気はないけれど、趣味のいい調度品。
磨きこまれた一枚板のカウンター。
ピカピカに光っているグラス。
そして、壁いっぱいに作り付けられた棚には、聞いたこともないようなめずらしいお酒がずらりと並んでいる。
心地よいジャズが静かに流れる店内は、私たちのほかはお客さんが一人いるだけだ。
目の前には、生真面目で優しそうなマスターと、ジャニーズ系のハンサムなウエイターくん。
私もクミコも、仕事の疲れもどこへやら、これから何かとてもステキなことが起こりそうで、なんだかウキウキしてきた。
「ね? いいお店でしょ」
クミコが自慢げにささやいた。
「うん。いいね」
「ピーチ・ハート」かぁ。こんなにステキなお店が会社の近くにあるなんて、知らなかった――。
「お客さま。何にいたしましょう?」
注文を聞くマスターの、縁無し眼鏡の奥の目が笑っている。
「え~~、クミコ、何にする?」
「ここまで来てビールなんて言えないよね。憤死だわ」
「ワインっていっても、よくわかんないし。どうしよう?」
たいしてお酒の知識もない私たちは、こんな時、最初に何を注文したらいいのかわからない。不用意にとんでもない注文をして、かっこいいマスターやかわいいウエイターくんに笑われたらいやだし。
「お客さま、もし悩んでいらっしゃるなら、一杯目は私がお選びしましょう。よろしいですか?」
「……あ、ええ。お願いします」
なんて絶妙のタイミングの助け舟だろう! しかも、客に恥をかかせないようにという心遣いがよくわかる。私はマスターのさりげない気配りに感激してしまった。
自分たちだってお客さま相手の仕事をしているんだもの。ほんとに見習わなくっちゃ。
マスターが私たちに選んでくれたのは、きれいな色をした二種類のカクテルだった。
「こちらはクミコさまに。ミモザです」
「そしてこちらはキョウコさまに。キールロワイヤルです」
ミモザはオレンジ色、キールロワイヤルはカシス色。
マスターによると、どちらもシャンパンをベースにした飲みやすいカクテルで、クリスマスやお正月などのお祝いの席にふさわしい華やかなお酒なんだって。
細長いシャンパングラスが優雅で、女性の魅力を引き立ててくれる効果もあるそうだ(笑)。
「デートのときに注文されるといいですよ。そう、キスするように、優しく唇を当てて飲んでくださいね」
マスターの冗談に、思わず頬がゆるんでしまう。
「いかがですか?」
「おいし~~い!」
ほんとに美味しかった。すっきりと上品な甘みとさわやかな飲み口で、これなら何杯でもいけそうだ。
それから私たちは思いっきり飲んで食べて、めずらしいお酒を教えてもらったり、アルバイトのイケメンウエイターくんをくどいたりして(笑)、楽しい夜を過ごしたのだった。
「きゃあ、もうこんな時間!」
「大変。明日も朝早いのに」
大慌てでお勘定を済ませた私たちに、マスターがお土産をくれた。
「年末年始もお仕事ご苦労さまです。これはささやかですが、今年最後のお客さまに私からのプレゼントです。どうぞお受け取りください」
それは、ピンクのハートがついたマドラーだった。透明の袋に入り、ピンクのリボンが結んである。お店で使っているものを、急遽ラッピングしてくれたのだろう。
「ありがとうございます。マスター、来年もちょくちょく来させてもらっていいですか?」
「もちろんですよ。今年の営業は今日で終わりですが、新年は五日からやっておりますので、またいつでもいらしてください。お待ちしております」
今年最後のお客さまかぁ。そう言ってもらえると、なんだかうれしい。
マスターにとって私たちは「いい客」だったんだろうか。
急ごしらえのプレゼントもおしゃれで、一足早いお年玉をもらった気分。
店の外に出ると、冴え冴えとした空にオリオンが輝いていた。
今夜はいい夢が見られそうだ。
fin.
先ほどアップした
ピーチ・ハートシリーズ
「春はすぐそこに」は
自分ではすごく好きな作品です。
(手前みそですみません)
書き上げた直後に
東日本大震災が起き
色々な思いが交錯した時期でもあり
タイトルに込めた願いが
より鮮明になったとも言えます。
長いばかりの駄文ですが
読んでいただければ幸いです。
Bar.ピーチ・ハート 【Episode3-1】
「孔明さんの憂鬱」 前編
*******
都会(まち)の喧騒を離れた裏通りに、その店はある。
バー「ピーチ・ハート」。
気配り抜群でしっかり者の美形マスター趙雲氏と、ちょっぴり気の弱い天然癒し系のアルバイト姜維くんが切り盛りする、小さなカウンターバー。
今夜も、ちょっと疲れた男たちが羽根を安めにやってくる……。
*******
その日は、12月半ばとは思えないくらい暖かくて、穏やかな夜だった。
月曜日の7時過ぎ。
ピーチ・ハートのカウンターには、いつものように常連客の孔明さん。そして一番奥のテーブルでは、初めての二人連れの男性客が、黙ってビールを飲んでいる。
この時期、街にはイルミネーションやクリスマスソングがあふれていたが、ここはそんな世間の喧騒とは別世界だ。
静かな店内にはボサノバのメロディーが低く流れ、カウンターの上に飾られた小さなツリーだけが、季節を主張していた。
「ねえマスター、一度くらい付き合ってくれてもいいじゃない?」
カウンターに頬杖をついて、ブランデーのグラスを揺らしていた孔明さんが、出し抜けに言った。
今日は、まだそれほど酔っていないはずなのに……。
趙雲マスターを見つめる孔明さんの目がいつになく真剣で、ぼく(姜維)は柄にもなくドキドキしてしまった。
だけど、孔明さんの情熱的な視線を真正面から浴びながらも、趙雲さんは落ち着いたものだ。
「毎日こうやって、親しくお付き合いしてるじゃありませんか、差し向かいで」
(ひょえ~~。さすがだよな~~)
こんなふうに、どんな場面もさらっとあしらえるようにならなきゃ、プロのバーテンダーとはいえないんだろう。
「だから、そうじゃなくて――」
孔明さんが、もう我慢できない、というふうに身を乗り出しかけたその時。
狙いすましたようにドアが開いて、もう一人の常連客 張飛さんが入ってきた。
「よっ。孔明ちゃん、またまたマスターを口説いてるね。そして、今日もあえなく撃沈?」
「ちょっと、張さん。せっかくいいところだったのに、じゃましないでよ」
孔明さんは、ほうっとため息をつくと、椅子に腰を落とした。
「やっぱりなあ。その様子じゃ、ずいぶん駄々をこねてたんだろ? さしずめ俺は、マスターの救世主ってわけだね」
大げさにピースマークを作って、孔明さんの隣に座った張飛さんに、ぼくは、あいまいな笑みを浮かべながらおしぼりを差し出した。
ほんの少し――。
孔明さんが気の毒に思えたんだ。
「だいたい、お酒の弱い張さんが、どうして毎日ここへ通ってるわけ? まさかあなたもマスターを狙ってるんじゃないでしょうね」
思いもかけない突っ込みに、張飛さんは、口に含んだウイスキーのウーロン茶割りを噴き出しかけた。
「げふっ。ちょっ……冗談は、よしなさいよ」
それでも孔明さんはしつこく食い下がる。
まるで、さっきの仕返しといわんばかりに。
「――もしかして姜維くん狙い?」
(おいおい……)
孔明さんのウインク攻撃に、今度は僕がずっこけそうになった。
「そんなわけないでしょ。俺はノーマルだよ、ノーマル」
「どうだか」
「マスター、この酔っ払い何とかしてくれよ」
さすがに辟易したのか、張飛さんはマスターに、助けを求めるかのように目配せした。
マスターは、そんな二人のやり取りを眺めながら、相変わらずニコニコしている。
「張飛さんは、私の高校の先輩なんですよ」
「あら、初耳よ、そんなこと」
大げさに驚く孔明さんに、張飛さんが得意げに言った。
「つまりさ、かわいい後輩の店がつぶれないようにだね、毎日サクラで来てあげてるのよ。ボランティアってやつだね」
「そうそう。ウーロン茶割り一杯でねばっていただいてますから」
「かーっ! いつもながらキツイね、マスターは」
張飛さんが趙雲マスターの先輩だというのは、ぼくも聞いたことがある。
高校時代同じ山岳部で、生死をともにした仲だっていうのが張飛さんの自慢だった。ちょっと大げさすぎる気はするけどね。
「ま、ほんとのところは、一人でマンションにいてもつまんないからさ。ここだとエアコンもきいてるしね。腹減ったっていえば、何か食わしてくれるし」
「どうせそんなことだろうと思った」
もう一度グラスを揺らして、孔明さんはほうっと小さく息をついた。
そのとき、何気なく腕時計に目を落とした張飛さんが、孔明さんをつついた。
「孔明ちゃん、もうそろそろ時間じゃないの?」
「やだ、もうこんな時間? 大変、遅れたらママに叱られちゃう」
孔明さんの出勤時間は8時半。ここからお店までは20分かかる。時刻は8時を少しまわっていた。
孔明さんは少しあわてて荷物をまとめ、毛皮のコートを羽織った。
「どうやら今年も、マスターを落とすのは無理みたいね」
カウンターの上のツリーをそっと手に取ると、孔明さんは、独り言のようにつぶやいた。
赤茶色に染めたロングのストレートヘアが、寂しげに揺れる。髪を掻き揚げるしぐさが妙に色っぽい。
「あーあ。今年のイブもひとりかあ。クリスマスもお正月も来なけりゃいいのに」
すねたようにうつむく孔明さんに、マスターが優しい笑顔を向けた。
「イブの夜もピーチ・ハートは営業してますよ。どうぞいらしてください」
「んー、もう、マスターのいじわる! こうなったら、イブの夜は私だけの貸し切りにしちゃおうかな。姜維くんも、その日は休んじゃっていいわよ」
「………」
突然矛先を向けられたぼくは、ただ笑っているしかなかった。
「それじゃ、マスター。イブの夜を楽しみにしてるわ~~」
孔明さんが出て行った後も、ぼくはしばらく茫然とその場に固まっていた。
(おいおい、どうしちゃったんだ、今日のぼくは。何でこんなに孔明さんが寂しげに見えるんだよ?)
――マスターも冷たいよな。
なんて、いつもなら思いつきもしない感情が頭の隅っこに引っ掛かっているのも、孔明さんの毒気にあてられたせいだろうか。
「すんません。そっちに移っていいですか?」
孔明さんが出ていってしばらくして、奥のテーブルに陣取っていた二人の客が、カウンターに移ってきた。
年は四十前後だろうか。
二人ともどことなく胡散臭い。いわゆるちょっと違う世界の人、っていう匂いがするのだ。
一人は見るからに強面のサングラス。もう一人は、無精ひげを伸ばした、ほんの少しだけ愛想のよさそうな男だった。
そんな二人を前にして、ぼくはかなり緊張したけれど、マスターの態度は普段とまったく変わらない。
「今の人、孔明っていう名前ですよね?」
無精ひげの男が、おもむろに尋ねてきた。
「え? ええ、そうですが、何か?」
「新宿のゲイ・バー『成都』に勤めてるとか。けっこう売れっ子らしいじゃないですか」
「………」
「ところで彼、どこに住んでるか知ってます?」
「――お客さま」
趙雲さんの声に心なしか緊張が走った。
ぼくもカウンターの奥で、思わず耳をそばだてる。
「そういうことは、ご本人に直接お尋ねになったらいかがです? もし知っていたとしても、私は、自分の店のお客さまのことを他の方に話すような失礼なまねはいたしませんから」
「ああ、すまねえ。誤解させちまったようだな。実は、俺たちは興信所……っていうか、探偵なんだ」
サングラスをかけた方の客が、初めて口を開いた。外見通りの、凄みのある声だ。
「探偵さん……ですか?」
男が胸ポケットから取り出した名刺を受け取ったマスターの手元を、ぼくはしげしげとのぞき込んだ。
差し出された名刺には「夏侯探偵社 惇&淵 どんな難問も解決!」とあり、しかもごていねいに、にっこり笑った二人の男の似顔絵が添えられている。
(うへ~~、悪趣味)
ふざけた名刺だ。ぼくもマスターも、なんとなく拍子抜けしてしまった。
「俺が惇、そっちが淵だ。調べてほしいことがあったら、いつでもどうぞ。何でも引き受けるぜ」
「依頼料も、ご相談に応じますよ」
淵と呼ばれた男が、無精ひげの伸びた口元に、満面の営業用愛想笑いを浮かべて付け加えた。
「――いえ、間に合ってます」と、マスター。
「お、俺も……」
張飛さんも、呆気にとられながら、こくこくと頷いた。
それから、二人の探偵が聞かしてくれた話は、ぼくたちを驚愕させるのに十分な、とんでもない内容だった。
「ある女性に、3年前に失踪したご主人を捜してほしいと依頼されまして」
無精ひげの男(淵)が切り出した話を、サングラスの男(惇)が引き取った。
「そのダンナによく似た人を『成都』で見かけた、っていう情報を手に入れたのはいいが、どうも決め手がなくてね。しかもオカマだってんで、見た目も全然違うしな。で、そのダンナがこの店によく通ってるって聞いて、押しかけてきたってわけさ」
「どうぞ、気を悪くなさらないでくださいよ」
無精ひげの愛想笑いとは裏腹に、ぼくたちはあっけにとられていた。
「そのいなくなったダンナっていうのが――孔明ちゃんだっていうのかい?」と、椅子から転げ落ちそうになる張飛さん。
「お、奥さんって(爆)!……孔明さんって、結婚してたんですかあっ?」
ぼくも、あまりの衝撃に、自分でも何を叫んだのか覚えていない。
あの孔明さんが……。
女性と結婚していたなんて。
そんなことって。
――これは、きっと悪夢だ。
「そりゃ俺も初耳だあ。何かの間違いじゃないの?」
張飛さんも、興奮冷めやらず、という顔で二人の探偵の顔を見つめた。
タイミングよくマスターが、その場のみんなに「これは私のおごりですから」と、よく冷えた生ビールをサービスしてくれた。そう、ぼくにも♪
そして、自分もぐっと一気にグラスを空けると、落ち着いた声で無精ひげの男に向かって言った。
「クラブ成都の売れっ子ダンサー、孔明さん。本名は確か諸葛亮さんだったと思います。ちがいますか、探偵さん?」
「お、その通りですよ。ってことは、やっぱり本物だな。惇兄、こいつは大当たりだぜ」
「確かに。間違いなさそうだ」
サングラスの男は、ビールを飲み干し、口元だけでにやりと笑った。
「で、どうするんです?さっそく奥さんに連絡して引き渡しますか?」
「いやあ、それがだなあ」
男は、何となくはっきりしない口調で言いよどむと、らしくない照れ笑いを浮かべた。
「奥さんは月英って名前なんだが、これがいい女でさあ。とりわけ美人ってんじゃねえが、年のわりにしっかりしてるし、何ていうかこう、こっちが恥ずかしくなるくらい気持ちがまっすぐで……」
「惇兄!」
「おっと、すまねえ、脱線しちまったな。いえね、月英さんは、自分のダンナがオカマだなんて、これっぽちも思っちゃいねえんだよ。なにか事情があって、姿を消したんだって信じてる。ただ、無事でいてくれればいい、それだけを確かめたい、っていうわけさ」
「それが、オカマバーで働いてて、こんなところでマスター口説いてるなんて……」
と、探偵の話に注釈をつけたのは張飛さんだった。
「ほんとのこと知ったら、ショックだわなあ」
ため息まじりに出した結論に、探偵たちも顔を見合わせてうなずく。
「だから、俺たちも悩んでるんだよ、どうしたもんかってね」
🥃 続きます
Bar.ピーチ・ハート 【Episode6-2】
「クリスマスソングなんて聞こえない」 後編
*******
都会(まち)の喧騒を離れた裏通りに、その店はある。
バー「ピーチ・ハート」。
気配り抜群でしっかり者の美形マスター趙雲氏と、ちょっぴり気の弱い天然癒し系のアルバイト姜維くんが切り盛りする、小さなカウンターバー。
姜維くんにまさかの恋の予感…。
はてさて、クリスマスドリームの行方は?
*******
そろそろ腰を上げなくちゃ、と思いかけた頃、改まった顔つきで大喬さんがぼくに言った。
「姜維さん。24日の夜、空いてますか?」
「はい?」
「もしよかったら……」
――おおお、これはもしかして、デートのお誘いかぁ? キタ━(´∀`)━!!
心臓がどくん、と音をたてる。
「――会ってほしい人がいるんです」
「え?」
意味が分からない。
茫然と大喬さんの顔を見つめるぼくの顔は、ずいぶんと間抜けに見えたことだろう。
「実は、私の兄が、ぜひあなたに会いたいって……」
「お兄さん……ですか?」
どういうことだ? お兄さんって?
なんでだよぉ? なんで、ここで突然、兄貴が出てくるんだよ?
ぼくに会いたいっていうのは、あなたじゃなくて兄さんだったの?
それって、いったい――?
ぼくは、頭が真っ白になり、ふらふらとその場を離れた。
大喬さんが大声で何かを叫んでいたようだったけど、ぼくの耳には何も届かなかった。
どうやってカウンターまでたどり着いただろう。
孔明さんや張飛さんの視線がやけに痛い。
二人とも押し黙ったまま何も言ってくれないのが、かえって辛かった。
「すみません、マスター。今日はこれで早引けさせてください」
やっとの思いでそれだけ言うと、ぼくはそそくさと裏へ入り、着替えもせずに上着を引っ掛けた。
マスターが心配そうにぼくの顔を覗き込む。
「早引けはいいけど、姜維くん、大丈夫ですか?」
「そんなに心配してくださらなくても、大丈夫ですよ」
我ながら説得力のない返事だなあと思いつつ、他にいい言葉も見つからない。
「俺、送っていってやろうか」
やけに優しい張飛さんの声が聞こえる。
猫なで声はやめてよ。よけいみじめな気持ちになってしまうから。
「平気です。ちゃんと帰れますから」
足早に店を出ようとするぼくに、大喬さんが駆け寄った。
「ごめんなさい。私、そんなつもりじゃ……」
今にも泣き出しそうな顔をして――。
(冗談じゃないよ。だったら、どんなつもりだったんだ?)
ぼくは小さく頭を下げると、黙ってドアを開け、一度も振り返らずに店を後にした。
◆◇◆
その後、姜維がどこで何をしていたのかは誰にも分からない。ただ、携帯電話は一晩中不通になっていたようだ。
そして。
姜維が飛び出していった後の店内では――。
大喬が、血の気の引いた顔でおろおろしている。
「わっ、どうしよう。私、ひどく誤解させちゃったみたい」
「そりゃまあ、姜維くんにすればショックだわよ~。彼、ああ見えて純情なんだから」
それまで黙ってカウンターに頬杖をついていた孔明が、大喬にあからさまな非難の目を向けた。
「ここでさんざん孔明さんを見てるのに、まだそっちに対して免疫ないのな?」
「バ~カ。張飛さんはいつだって一言多いんだから」
相変わらず茶化してばかりいる張飛に、孔明は柳眉を逆立てる。
二人とも、大喬の兄というのが「そっち系」で、姜維のことを見初めた彼が、妹に橋渡しを頼んだのだと思い込んでいた。
「いえ、そうじゃなくて……。兄のこと、最初からもっとはっきり言えばよかったのに……」
しどろもどろになっている大喬の言葉を引き取ったのは、小喬だった。
「大喬お姉さまの兄貴って、毎朝テレビのディレクターやってんのよ」
「はあ?」
「その兄が作ってる番組で、街で見かけたイケメンの男のコを紹介するコーナーがあるんですけど……」
「あ、それ知ってる。あたし、毎週見てるわよ」
「もしかして、姜維に白羽の矢が立ったのか!」
思いがけない話の展開に、張飛も孔明もあっけにとられた。
「いえ、まだきちんと決まったわけじゃなくて――」
「ここのお店にかっこいいコがいる、っていう視聴者からの情報があったんだって」
「本当なら兄が正式に取材を申し込まなくちゃいけないんですけど。今すごく忙しくて時間が取れないから、代わりに見てきてくれないか、って頼まれたんです」
「なあんだ、そうだったんだ~~」
分かってみれば、驚くほど単純な話ではないか。
「じゃ、最初から、姜維の品定めをするだけのつもりで来たってことだな」
「ええ。それなのに私ったら、妙に思わせぶりな態度を取ってしまって……。姜維さん、びっくりされたでしょうね」
大喬は、本当にすまなそうに肩を落とした。
「びっくりしたっていうより、相当ショックだったみたいね。期待が大きかった分、落胆も激しかったのねえ」
(ほんとのこと言うと、私もちょっぴりショックだったのよ。姜維くんがノーマルなのは分かってたけど、ああもロコツに拒絶されちゃうとねえ……おネエさまはガックリだわ)
孔明は、ほうっと深いため息をついた。
「さあ、お客さま方。そんなところに立っていないで、こちらにお座りください」
趙雲マスターに勧められるまま、大喬と小喬はカウンターに腰を下ろした。
「これをどうぞ。気持ちが落ち着きますよ」
趙雲がタイミングよく二人の前に置いたのは、ホカホカと湯気を立てているグラスだった。
「これって、お酒?」
「ええ。『ホット・ラム・カウ』という名前の温かいカクテルです。身体が温まりますし、牛乳が入っているので胃にも優しいし、寒い夜にはぴったりでしょう?」
ふーん、と不思議そうな表情でグラスに口をつけた小喬が、弾けるような声を上げた。
「うん、おいしい! 大喬お姉さまも飲んでごらんなさいな」
「ええ、ほんとに。優しくて、ちょっと懐かしい味……」
心が癒されていくような温かい味わいに、大喬はいつしか涙ぐんでいた。
「大喬さん。さあ、もう気を取り直して――。きれいなお嬢様には、悲しい顔は似合いませんよ」
趙雲は、何とか大喬の気持ちを引き立てようとするのだが、彼女の顔は晴れなかった。
「でも、彼のこと、傷つけちゃいましたよね」
「大丈夫。ああ見えても、彼は打たれ強いですから(←マスターってば、それってどういう意味?)。それに、あなたが気に病むことじゃありませんよ」
「でも……」
「誤解なら、いつかは解けますから」
「そうだといいんだけど。誤解を解くチャンスがあるかしら」
「チャンスは作ればいいんです」
そう、誤解ならいつかは解ける。
そして、機会はいつか訪れる。このまま離れ離れになってしまうのでなければ。
さらには、きっかけが何であれ、二人の出会いがこれからどう進展していくか、それはまだ誰にも分からないのだから。
「イブの夜、もしよかったら、ここへお兄さまをお連れしていただく、というのはいかがでしょう? もちろん、大喬さん、小喬さんもご一緒してくださいね。こちらは姜維くんと私、それに張飛さんと孔明さんの四人で、貸切ということにしておきますから」
「え? そんな……いいんですか? クリスマス・イブなのに?」
「もちろんですよ」
趙雲の大胆な発言に、張飛と孔明は思わず顔を見合わせた。
「また始まったぜ」
「マスター、太っ腹~~♪」
ここ何年か、クリスマス・イブの「ピーチ・ハート」は貸切ばかりだ。
去年は馬超組のロックコンサート。
その前の年は孔明ひとりのために。
趙雲マスターが本当に太っ腹なのか、それとも全く商売っ気がないだけなのか、二十年付き合っても未だに分からない張飛だった。
🥃了(初出 2007/12/27)
*******
サイト運営していた当時、なぜかクリスマスになると「ピーチ・ハート」の話が書きたくなって、12月orお正月前の更新の定番になっていました。
それにしても、ここ3年、クリスマス・イブはいつも貸切の「ピーチ・ハート」。こんなんで商売の方は大丈夫なんでしょうか?
張飛さんならずとも心配になってしまいますね。
🥃 ホット・ラム・カウ
ホワイトラム30ml、牛乳120ml、砂糖茶さじ1杯を厚手鍋に入れ、木杓子で混ぜながら弱火で温める。65~70℃くらいが適温。
耐熱グラスに注ぎ、シナモンスティックを添える。
🥃 『BAR レモン・ハート』の作者
古谷三敏さんのご冥福を
心よりお祈り申し上げます。
Bar.ピーチ・ハート 【Episode7-1】
「春はすぐそこに」 前編
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都会(まち)の喧騒を離れた裏通りに、その店はある。
バー「ピーチ・ハート」。
気配り抜群でしっかり者の美形マスター趙雲氏と、ちょっぴり気の弱い天然癒し系のアルバイト姜維くんが切り盛りする、小さなカウンターバー。
暦の上では立春とはいえ、まだまだ寒さ厳しい毎日。
さて、今夜のお客様は……。
*******
ああ、またバレンタインデーの季節か――。
デパートのショーウインドーに並ぶきらびやかなチョコレートのディスプレイを眺めて、ぼく(姜維)は小さなため息をつく。
あちこちでおしゃれなイベントが盛りだくさんなこの時期だけど、ぼくみたいに「恋人いない歴生まれてからずっと」という人種にとっては、何とも言えない寂しい思いにとらわれる季節だったりする。
去年の暮れに知り合った大喬さんとは、あれ以上何の進展もなく終わってしまった。
今思えば、ぼくの中に、相手が社会人であることに対する気おくれみたいなものがあったのかもしれない。
結局、今年もまた一人寂しく(もしくはピーチ・ハートでのアルバイトで)過ごすバレンタインデー、ということになりそうだった。
ちょっと沈んだ気持ちを抱えて、ピーチ・ハートのドアを開ける。
ここだけは、街を彩るイルミネーションや喧騒とは無縁の、いつもどおりの空間だ。
ジャズが流れる静かな店内には、すでに常連客である孔明さん、張飛さんの姿があった。
「お二人とも、毎日ご精勤ですね」
「そうでしょ~。だって、私たちがいないと、閑古鳥なんだもの」
「そうそう、閑古鳥だよな。春もすぐそこだっていうのに、客がいなくちゃマスターも寂しいだろ」
ぼくとしては精一杯の皮肉のつもりだったのだが、二人にさらりと受け流されて、何となく気が抜けてしまった。
二人は閑古鳥なんて言うけれど、週末ともなれば、ピーチ・ハートみたいに繁華街から離れた場所にある小さなバーといえども、それなりに賑わう。
けれど今日は週の真ん中の水曜日、しかも、まだ6時半をまわったところだ。
こんな時間からバーの止まり木で時間をつぶしているなんて、よっぽどの暇人しかいないだろう。
「姜維くん、おしゃべりはそれくらいにして。閑古鳥の店でも、やるべき仕事はあるんですよ」
趙雲マスターの厳しい声に、思わず背筋が伸びる。
どうやら『閑古鳥』という言葉がマスターの気に障ったらしい。
ぼくはあわてて奥に入り、店の制服に着替えた。
「あらためて、いらっしゃいませ。張飛さん、孔明さん、いつもありがとうございます」
「お、バーテンダーの顔になったね」
ウーロン茶割のグラスをもてあそびながら、張飛さんがにんまりと笑う。
ぼくは、たぶん「恋人いない歴生まれてからずっと」の大先輩である(と思う)張飛さんの無精ひげをながめながら、ちょっと哀しい気持ちになった。
ぼくよりずっと長い間、寂しいバレンタインデーを過ごしているにちがいないからだ。
「ところで姜維ちゃん、今3回生よね?」
孔明さんが、ちょっと酔いのまわった妖艶な眸子でぼくに微笑みかける。
「そうですけど?」
「就活、大変なんじゃないの?」
「ええ、まあ」
なぜ急にそんな話題になったのか分からないまま、ぼくは曖昧に言葉を濁した。
「どうしても行く所がなかったら、うちへこない? 店長には私から紹介するわよ」
「へ?」
孔明さんの勤め先といえば、その筋では有名なオカマバー『成都』だ。ということは、ぼくにもオカマになれってことなのか?
言葉をなくしたぼくは、(オカマとは思えない)美しすぎるその笑顔を、呆然と見つめるしかなかった。
「姜維くんなら女装してもバッチリだし、売れっ子になれると思うわよぉ」
「じょ、冗談……」
一瞬、背中に冷たいものが走る。
ほんとに冗談じゃないよ。たとえ「彼女いない歴生まれてからずっと」のぼくでも、正真正銘の日本男児なんだから(ノーマルという意味で)。
「いっそのこと、ここの正社員になっちゃえば? なあ、マスター。一人くらい雇っても大丈夫なんだろ?」
「ご冗談を、張飛さん。何しろ閑古鳥ですからね、正式に人を雇うなんて、そんな余裕はとてもありません」
張飛さんにすれば、固まってしまったぼくに助け舟を出したつもりなのだろうが、マスターにぴしゃりと釘をさされてしまった。
「あ? もしかして、まだ怒ってるの? 『閑古鳥』は、俺としては最大級の賛辞なんだけどなあ」
あの、張飛さん、全く意味が分からないんですが……。
孔明さんのお誘いは速攻お断りだが、実際、就職がとんでもなく難しいのは事実だった。
ここ数年、理系でも、大手からの求人は少なくなっている。
ましてぼくのように「考古学」専攻の学生ではつぶしがきかない上に、専門知識や資格を活かして就職するなんていうのは絶望的だ。
同級生の多くは、秋口から会社訪問したりしてせっせと就職活動をしているようだが、全くと言っていいほど景気のいい話は聞こえてこなかった。
(本当に、このままこの店で雇ってほしいくらいだよ……)
張飛さんの言葉に、つい心が揺らいでしまう自分が情けない。
そんなぼくの気持ちを見透かしたように、趙雲マスターがまじめな顔つきで張飛さんに言った。
「うちのような小さな店は、私一人でも十分切り盛りできるんです。従業員に払う給料があるのなら、その分をお客様へのサービスに回すべきじゃありませんか」
予想外の厳しい口調に、うーん、と張飛さんが唸る。
「趙雲マスターらしい立派な心がけだけど、ここはひとつ、就職難にあえぐ学生を助けると思ってだな――」
「もちろん、全く人を雇う余裕がないわけじゃありません。ただ、私の下で働く以上、本気でバーテンダーを目指したいと思う人でなければね」
マスターの言葉に、あっ、とぼくは胸を突かれた。
「姜維くんがここで働いているのは、将来バーテンダーとしてやっていくためじゃないでしょう? だから、一時的にアルバイトとして仕事を手伝ってもらっているんですよ。それ以上でも以下でもない」
そりゃあまあぼく自身、どうせアルバイトなんだし、という甘えがなかったといえば嘘になる。だけど、こうはっきり面と向かって言われると、ちょっと寂しい。
「そりゃあつまり、正式に雇うとなると、今以上に仕込みが厳しくなるってことかい?」
「もちろんです。酒も人間も仕込みが肝心ですからね。どこへ出しても恥ずかしくないバーテンダーになってもらうために、びしびし鍛えますよ」
「マスター。それって、従業員じゃなくて、江戸時代の徒弟制度なんじゃないのぉ」
孔明さんが酔いのまわった口でツッコミを入れる。
「徒弟制度」という古めかしい言葉が、静かに微笑むマスターの横顔にとてもしっくり似合う気がして、ぼくは思わず肩をすくめた。
(うへえ~~。(^_^;))
やっぱり生半可な気持ちでは、ここのバーテンダーはつとまらない。「楽して就活」なんて虫のいい話は、あきらめた方がよさそうだ。
そんな話をしているうちに、やがて時間は7時をまわった。孔明さんはそろそろ出勤の時間だ。
そのとき、遠慮がちに開いたドアから、見慣れない女性が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
ぼくは飛んで行って、入り口に佇んでいる女性からカシミヤの上品なコートを預かった。セミロングの髪が魅力的な、横顔の素敵なひとだ。
女性の年齢って正直よく分からないのだが、20代後半か30歳前後だろうか。
「カウンターへどうぞ」
「ありがとうございます」
その女性は店内を見渡してから、ほっとため息をつき、カウンターの端の席に遠慮がちに腰をおろした。
「いらっしゃいませ。お客様、どなたかお探しですか?」
「え? ええ。そうなんです。よくお分かりですね?」
マスターの言葉に、女性は驚いたように顔を上げた。
「ずっとこの商売をしていますと、お顔を拝見しただけでお客様の気持ちが分かることもあるんですよ」
まあ、と女性は鮮やかな笑みを浮かべた。
「私は春梅といいます。実は、このお店に、徐庶さんという人がよく来られると聞いてきたのですけど……」
春梅さんの口から出た「徐庶さん」という名前に、思わずぼくや張飛さん、帰り支度をしていた孔明さんまでが聞き耳をたてた。
この女性が、徐庶さんの知り合い……? どういう関係なんだろう?
「はい、ご贔屓にしていただいております」
ぼくたちの動揺をよそに、趙雲マスターは淡々と答える。
「水曜日にはいつも来られるんですよね?」
「ええ。ですが、お越しになるのはたいてい午後9時頃ですね」
「まあ、そうなんですか」
春梅さんの顔に、軽い失望が落ちた。
「それじゃ、今日も9時にならないとダメなんですね」
伏せた睫毛が、華やかな目元に影を落とす。
憂いに満ちた眸子を見ていると、こっちまで胸がきゅんとしてしまう。
「どうしても、お会いしたかったんだけど、やっぱり無理ね。なかなか自由にならなくて、ようやく時間を工面できたっていうのに、残念だわ。今夜9時発の飛行機で札幌に帰らなくちゃならないんです」
「札幌に――」
ここから空港までは、どんなに急いでも40分はかかる。搭乗手続きの時間を考えたら、1時間前には店を出なければ間に合わない。
どうして、徐庶さんはいつも9時にしかやってこないんだろう。
どうにかして、連絡を取ってあげられないものだろうか。マスターなら連絡先を知っているかもしれないのに……。
だけど、趙雲マスターは静かに彼女の顔を見守っているだけだ。
ぼくは、黙ってマスターの顔を見つめるしかなかった。
🥃 続きます✨
Bar.ピーチ・ハート 【Episode3-2】
「孔明さんの憂鬱」 後編
*******
都会(まち)の喧騒を離れた裏通りに、その店はある。
バー「ピーチ・ハート」。
気配り抜群でしっかり者の美形マスター趙雲氏と、ちょっぴり気の弱い天然癒し系のアルバイト姜維くんが切り盛りする、小さなカウンターバー。
今夜の客は、夏侯探偵社の二人。
胡散臭い探偵の依頼人は、何と孔明さんの妻(!?)だった。
*******
「いっそこのまま、見つからなかった、ってことにしておいた方が、奥さんのためかもな」
サングラスの探偵が呟いたその時。
入り口のドアのところで、何かが落ちたような音がした。
店の入り口の手前には衝立があって、カウンターからは直接、扉は見えないのだ。
マスターに目配せされて見に行ったぼくは、飛び上がらんばかりに驚いた。
「うわっ! 孔明さん! いつからそこにいたんですかっ?」
衝立の陰で蒼白な顔をして立ちすくんでいるのは、孔明さん当人だった。
「ケータイを忘れたの。途中で気がついて取りに戻ったら、私の名前が聞こえてきたから、入るに入れなくて……」
ガタガタ震えている孔明さんの足元には、口の開いたバッグの中身が散乱している。
さっきの音は、バッグが落ちた音だったのだ。
ぼくがそれらを拾い集めている間に、張飛さんが飛んできて、孔明さんを抱きかかえるえるようにして、カウンターに座らせた。
「俺たちの話、どの辺から聞いてたんだ?」
「月英は、ボクのことをオカマだなんて思っちゃいない……」
孔明さんは、こわばった手で、マスターが出した水の入ったグラスを口に運んだ。
「一番肝心なところは、ちゃんと聞いてたってわけだ」
突然、カウンターの下でケータイの着メロが鳴りだした。
孔明さんが忘れていったケータイだ。遅刻してしまった孔明さんに、お店のママからだった。
「ごめんなさい。ちょっと急用ができちゃって。今日はお休みさせてください。ええ、明日は大丈夫です。きちんと行きますから」
できるだけ平静を装おうとしたんだろうけれど、声が震えている。
ようやく少し落ち着いてきたところで、そんな孔明さんを痛ましげに見つめていた張飛さんが、探偵たちに鋭い視線を投げた。
「なあ、探偵さん。もうこうなっちまったら、しょうがないだろ。きちんと孔明さんに話してやれよ」
「そうですねえ。こうなった以上、逃げも隠れもできませんからね」と、無精ひげは頭をかいた。
「調べている相手に見つかるなんざ、探偵としちゃサイテーだがな」と、苦虫を噛み潰したような顔のサングラス。
そうして、二人の探偵は、一部始終を孔明さんに話して聞かせた。
「月英は、今でもボクのことを待ってくれてるんですか」
「何かやむにやまれぬ事情があって姿を消したんだろうが、いつかきっと自分のところへ帰ってきてくれる。自分はあの人を信じている。だから、いつまでも待っています、とさ」
「月英――」
グラスを持つ手に涙が落ちた。
「ごめん……。ボクはこんなひどい男なのに。きみに愛される資格なんてないのに……」
打ちひしがれた蝶のように、カウンターに突っ伏す孔明さんの、あでやかなドレスの赤が、とても悲しい色に見える。
ぼくは、不思議な気持ちで、そんな孔明さんを眺めていた。
なぜって、姿かたちはどこから見ても女なのに、奥さんの名前を呼ぶ時の孔明さんは、まちがいなく男性の顔をしていたからだ。
「どうしてボクが結婚なんて、と思っているでしょう?」
孔明さんは、バッグから取り出したタバコに火をつけた。
「彼女は、月英はすばらしい女性です。彼女となら、こんなボクでもうまくやっていけるかもしれない、そう思っていたんです」
タバコの煙を長く吐きだしながら、月英さんとの過去を、ポツリポツリとつぶやくように語り始めた。
若い頃から同性に興味はあったが、自分がゲイだという自覚はなかったそうだ。
それでも、女性に対してはまったく気持ちを動かされることがなく、いつしかそんな自分の将来に不安を抱くようになったという。
そんな時、大学で知り合った月英さんに、初めて異性として好意を持った。
彼女はいわゆる「男前」な性格で、側にいても窮屈じゃない。
それどころか、大きな懐に包まれているような安心感を覚えて、彼女となら結婚してもやっていけると思ったのだそうだ。
ところが、結婚してしばらくして、高校時代に憧れていた先輩に偶然出会った孔明さんは、誘われるままに彼と深い関係になってしまう。
ずるずるとそんな生活を続けていたが、妻を裏切る心苦しさに耐え切れず、ついに家を飛び出してしまったというのだった。
「月英は、ボクがゲイであることも、彼女を裏切っていたことも知りません。もし、ボクの本当の姿を知ったら――」
孔明さんの手に、また涙が落ちた。
「わかった」
黙って孔明さんの話を聞いていたサングラスが、決心したように立ち上がった。
「ここにいる孔明っていう野郎は、俺たちの探してる諸葛亮とはまったくの別人だったってことだ」
「惇兄――」
「それでいいな? 淵」
「惇兄がそれでいいっていうんなら、俺は文句ねえよ」
無精ひげも、さばさばとした表情でうなずく。
――そんなわけで、とサングラスの探偵はにこりともせず、マスターに言った。
「騒がせちまったな。どうやら、俺たちの早とちりだったようだ。無駄足踏んじまったが、おかげでうまい酒が飲めた。ありがとうよ」
「こちらこそ、いい話を聞かせていただきました」
「じゃあな」
それから、放心したように座っている孔明さんの肩にそっと手を置いて、その耳元に小声でささやいた。
「いつか必ず、奥さんのところへ帰ってやんなよ――」
サングラス越しに、優しい笑みが見えたような気がしたのは、ぼくの思い過ごしだったろうか。
探偵たちが出ていくと、店内は急にひっそりとした。
孔明さんは、あれきり黙ったまま。
ぼくも張飛さんも、何と声をかけたらいいのかわからない。
じっとりと湿った時間だけが過ぎていく。
「孔明さん」
趙雲さんが、孔明さんの前に1杯のカクテルを置いた。
「―――?」
「そんな顔は、孔明さんには似合いませんよ。さあ、これを飲んで、元気を出してください」
カクテルは、目にも鮮やかなマリンブルー。
「きれい……」
孔明さんは、うっとりとそのグラスを取り上げ、一口飲んだ。
「ああ、おいしい。胸のつかえが消えていく気分」
「マスター、それ、なんていうカクテル?」
知りたがり屋の張飛さんがたずねる。
「ブルー・マンデー。『憂鬱な月曜日』という名前のカクテルです」
「今日のあたしにぴったりすぎるお酒だわ」
孔明さんの顔に、寂しげな笑みが浮かんだ。
「いえ、本当はこのカクテルには、憂鬱な月曜日を吹き飛ばそう!っていう意味が込められているんですよ。そんなさわやかな味でしょう」
もう一口カクテルを飲んで、その余韻を楽しむように、孔明さんは目を閉じた。
「いつか……懐かしい場所に、帰れる日がくるといいですね」
「………」
「でもそれは、まだまだ先の話にしておきましょう。私も、常連のお客さまがひとり減るのは寂しいですから」
「マスターったら」
苦笑いする孔明さんの目蓋に、温かい涙があふれていく。
「あ、そうだ。さっきの話ですが、今度のクリスマス・イブ、孔明さんの貸切にしましょう。まあ、姜維くんと張飛さんは特別ゲストってことで。身内だけでささやかに過ごすイブもいいものですよ」
「ありがとう、マスター」
孔明さんは、手にしたおしぼりでそっと目じりをぬぐった。それから、
「わがままついでにもう一つお願いしてもいい?」
聞こえるか聞こえないかくらいの声で言った。
――ボクの月英ちゃんにも、何かすてきなカクテルを作ってあげて。
🥃了(初出 2005/12/20)
*******
ピーチ・ハート第3弾の主役(つーか、まな板の上のコイ)は、孔明さん。
オカマってことで、思いっきり壊してしまったキャラですが、孔明ファンのみなさま、どうかお許しを。
何しろ、ふだんあまりにも真面目な丞相なので、こういう場所ではうんと遊んでしまいたくなるんですね~。スミマセン。
作者としては、いつか孔明さんが、晴れて妻月英さんの待つ家に帰れる日がくることを願ってやまないのですが、その前に、趙雲マスターへの熱い想いを遂げることはできるんでしょうか。
……やっぱ、それは無理か。ここって、ノーマルサイトだし(爆)。
今回、ゲストで登場の探偵さんたち。
サイトの方では、一応ビジュアルも作っています。
決して二枚目じゃないけど(笑)、シチュエーションに応じていろんな顔を持っていそうで、私結構こういうキャラは好みです。
🥃 カクテル ブルー・マンデー
・ウォッカ 45ml ・コアントロー 15ml ・ブルー・キュラソー 1tsp(小さじ1杯)を、ミキシンググラスでステアしカクテルグラスへ。
マリンブルーが目にも鮮やかなこのカクテルは、美しい色あいには不似合いな「憂鬱な月曜日」という名前を持つ。
'87年10月19日の月曜日、ニューヨーク株式が史上最大の暴落をしたいわゆるブラックマンデー。その日、ウォール街の片隅のバーで、このカクテルが生まれたという。
「憂鬱な月曜日を吹き飛ばし、前向きに生きよう!」という願いを込めて。
🥃
Bar.ピーチ・ハート 【Episode7-2】
「春はすぐそこに」 後編
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徐庶さんに会うために「ピーチ・ハート」を訪ねてきた女性。
春梅さんは、その名前のとおり、寒さに耐えて凛然と咲く梅のような、美しさの中に強さを秘めた魅力的な女性だった。
だが、肝心の徐庶さんは、いつも午後9時にならないと来店しない。
一方、春梅さんは、9時発の飛行機で北海道に帰らなければならないという。
二人がどんな関係なのか、ぼく(姜維)には全く分からないけれど、せっかく訪ねてきた春梅さんのためにも、何とか二人を会わせてあげられないものだろうか――。
*******
「残念だけど、今日はあきらめて帰ります」
春梅さんは、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
手にしたバックをしばらく見つめていた彼女は、中から小さな紙袋を取り出してカウンターに置いた。
「マスター。お願いがあるの。これを、徐庶さんに渡していただけないかしら」
「わかりました。大切にお預かりします」
席を立とうとする彼女をそっと手で制して、マスターが明るく声をかけた。
「せっかくお越しいただいたのですから、私から春梅さんに、一杯おごらせてくださいませんか」
「……ありがとうございます」
皆が見守る中、あざやかな手さばきで、趙雲マスターは一杯のカクテルを仕上げていく。
梅酒と日本酒、グレナデンシロップをステアしてグラスに注ぎ、ソーダで満たし、最後に梅の実を添えたそれは、春の香りをいっぱいにただよわせたカクテルだった。
「どうぞ。『梅ごこち』という名前のカクテルです」
「まあ、きれいな色!」
春梅さんは、うっとりと目を細めた。
春らしい、はんなりとした温かみのある琥珀色が、春梅さんの雰囲気にぴったりだ。
「日本酒と梅酒のカクテルです。女性にも飲みやすいと思いますよ」
「ほんと、美味しい――」
彼女の顔に温かな笑みが浮かんだのを見て、なんだかぼくもほっとする。
「マスターのお酒をいただいたら、元気が出てきました。ありがとう、マスター。今日は残念だったけど、きっとまたいつか、お会いできる日もあるわね」
『梅ごこち』を飲み終えた春梅さんは、徐庶さんに心を残しながら、名残惜しそうに帰っていった。
◇◆◇
「徐庶さんにお預かりものがあります」
「ほう、私に? いったい何だろう?」
午後9時になって店に現れた徐庶さんに、まずいつものようにワイルドターキーをロックで提供すると、マスターはまじめな顔で切り出した。
「春梅さんという方から、これを渡してほしいと」
「――春梅!」
いつも冷静な徐庶さんの顔に、驚きと動揺が走る。
「ここに、来ていたのかね?」
「ええ。8時過ぎまで待っていらっしゃいましたが、今夜の飛行機で札幌に帰らなければならないから、とお帰りになりました。徐庶さんに会いたかったと、残念そうにおっしゃっていました」
「そうか、春梅さんが……。申し訳ないことをしてしまったな」
徐庶さんが開いた紙袋の中には、チョコレートと思しき包みと、淡い萌黄色の封筒が入っていた。
徐庶さんは、サングラスをはずして春梅さんからの手紙を読み終えると、頬杖をついて目を閉じ、ほうっと小さなため息をついた。
いつも強面な徐庶さんには似合わない優しい表情に、ぼくは小さな衝撃を受けた。
「ねえ、徐庶さん。聞かせてもらってもいいですか」
マスターの眉間にしわが寄る。怒鳴られるのを覚悟で、ぼくは続けた。
一度湧きあがった好奇心は、おさえられない。
「春梅さんとは、どんなご関係なんですか?」
店の中が、しんとした。
マスターが険しい目付きで口を開こうとしたそのとき、助け舟を出してくれたのは張飛さんだった。
「おいおい、姜維くん。野暮なことを言いなさんな。この季節、チョコレートと手紙とくれば、もう聞かずもがなだろう?」
「いやだなあ、張飛さん。そんな訳ありな仲じゃないよ」
意外に穏やかな口調で徐庶さんが答えてくれたので、緊張した店内の空気は一瞬でほぐれた。
「彼女はね、私が昔世話になった人の娘さんなんだ。まあ、妹みたいなものだ。結婚してアメリカで暮らしていたんだが、2年前に離婚して日本に帰ってきたと聞いている。もっとも、私はずっと会っていなかったんだがね」
妹みたいな……?
正直、ぼくが春梅さんから受けたのは、もっと切羽詰った感じだったのだけれど。
ぼくたちは、黙って徐庶さんの話に耳を傾けた。
「北海道は彼女の故郷だ。そして、私の故郷でもある」
もうずいぶん長い間帰っていないが、と徐庶さんはワイルドターキーを口に含み、遠い目をした。
「徐庶さんに、ぜひ味わっていただきたいカクテルがあるのですが」
「はて、何だろう?」
趙雲マスターが徐庶さんの前に置いたのは、カクテルグラスのふちをグラニュー糖で飾った白いカクテルだった。
「『雪国』です」
「ほう。山形県のバーテンダーが創作したというカクテルの名作だね」
「さすがに、よくご存じですね」
今から50年以上も前に、山形県酒田市のバーテンダー井山計一氏が創作した『雪国』は、日本を代表するカクテルのひとつなのだそうだ。(以下、趙雲マスターの受け売り)
ウオッカ、ホワイトキュラソー、ライムジュースをシェイクし、グラニュー糖でスノースタイルにしたカクテルグラスに注ぎ、そっとグリーンチェリーを沈める。
きらきらと輝く雪の結晶がグラスを飾り、白いカクテルに沈んだグリーンチェリーの緑が、雪に埋もれて春を待つ新芽を髣髴させる。
「日本の冬の情緒をカクテルの世界で描いた美しい作品である(HBAバーテンダーズオフィシャルブックより)」と言われる所以だ。
「北海道は、まだまだ雪が残っているんでしょうね」
「一面の銀世界だよ。春の訪れは、まだずっと先だね」
ぼくの問いに、徐庶さんは懐かしそうに目を細めた。
「春はまだ遠い……。だが、梅の花はそんな寒さの中で、馥郁とした香りを放つんだな」
あらためてサングラスをかけ、いつものハードボイルドな雰囲気に戻った徐庶さんに、マスターが声をかけた。
「久しぶりに故郷の景色を見に帰られたらどうですか」
「そうだねえ」
サングラスに隠れた眸子の色までは分からないが、温かい声音が返ってきた。
「マスターのカクテルを飲んだら、北海道の雪景色を見たくなったよ」
ホワイトスノーをまとったカクテルグラスが、徐庶さんの手の中できらきらと光る。
「来週あたり、札幌に行ってくるか。おやじさんの墓参りもしたいしな」
「それはいい里帰りになりますね」
マスターがにっこりと微笑む。
ぼくの目には、徐庶さんと再会した春梅さんのうれしそうな顔が浮かんでいた。
立春を過ぎたとはいえ、外はまだまだ真冬の風が吹いている。
だけど、ピーチ・ハートの店に集う人たちの胸はほっこりと温かい。
春は、もうすぐそこなのだから。
◇◆◇
仕事を終え、下宿に帰る道すがら、ぼくは今夜の出来事を思い出していた。
春梅さんと徐庶さん。
すれ違ってしまった二人の気持ちを結びつけたのは、趙雲マスターが作った2杯のカクテルだった。
二人とも、マスターの作るカクテルで元気づけられ、前向きな気持ちになれたのだ。
もしかして、バーテンダーってものすごい仕事なんじゃないか?
――私の下で働く以上、本気でバーテンダーを目指したいと思う人でなければね。
(やべえ。ぼく、今、本気で、バーテンダーを目指したい、と思ってる)
胸がドキドキして落ち着かない。
長い間ピーチ・ハートで働いてきたが、こんな気持ちになったのは初めてだ。
趙雲マスターのように、かっこいいバーテンダーになりたい。
「楽して就活」なんて、一瞬でも思った自分が恥ずかしくてたまらなくなった。
明日、マスターにきちんと謝ろう。そして、もう一度、あらためてマスターの下で働きたいと頼んでみよう。
春が来るまえに、自分の気持ちときちんと向き合わなければ、とその夜ぼくは、小さな決意をしたのだった。
🥃了(初出 2011/2/16・3/14)
*******
バレンタインデーにちなんだ話だったのに、遅れに遅れて、後半をアップできたのがホワイトデーという…(爆)。
そして、この後半を書き上げる直前に、東日本大震災が起きたのです。
10年以上経った今も、被災された方々の心の傷は癒えることがないでしょう。
それでも、どうぞ元気を出してください。いつか笑える日が来ることを願って。
寒い冬の後には、暖かい春がやってくる、春はもうすぐそこなのだ、と信じて。
🥃 カクテル 梅ごこち
酒造メーカー菊正宗が考案した、日本酒を楽しむためのオリジナル・カクテル。ほんのり梅の香りがするさわやかな味。
梅酒 80ml、日本酒(菊正宗)50ml、ガムシロップ 小さじ2、グレナデンシロップ 小さじ1をミキシンググラスに入れてステアする。グラスに注ぎ、ソーダ水 50mlで満たし、最後に梅の実を入れる。
🥃 カクテル 雪国
カクテルグラス(容量90ml程度)の縁をレモンの切れ端などで湿らせ、平らに敷いたグラニュー糖にふせて付け、スノースタイルとする。
ウォッカ 40ml、ホワイトキュラソー 10ml、ライムジュース(またはライム・コーディアル)10ml をシェイクし、スノースタイルにしたカクテルグラスに注ぐ。
グラスの底にミントチェリー(または、緑のマラスキーノチェリー)を沈める。
🥃
Bar.ピーチ・ハート 【Episode6-1】
「クリスマスソングなんて聞こえない」 前編
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都会(まち)の喧騒を離れた裏通りに、その店はある。
バー「ピーチ・ハート」。
気配り抜群でしっかり者の美形マスター趙雲氏と、ちょっぴり気の弱い天然癒し系のアルバイト姜維くんが切り盛りする、小さなカウンターバー。
さて、今夜のお客様は……。
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(ああ、今年も残り少なくなってきたなあ)
12月も半ばを過ぎたある日。
アルバイト先のバー・ピーチハートへ向かう途中の道で、ぼく(姜維)は、すっかり暗くなった空を見上げてほっとため息をついた。
街はクリスマスのイルミネーションに飾られ、いつもの喧騒も心なしか華やいで聞こえる。
すれちがう人たちの表情もどことなく楽しげだ。
ぼくはといえば、今年も取り立てて何ということもなく、また一年が過ぎようとしていた。
(結局今年も、カノジョできなかったしぃ)
ふだんはたいして気にもならないのに、毎年クリスマスが近づくこの時期になると、ちょっと寂しい感傷的な気分にとらわれてしまうのはなぜだろう。
その夜、ピーチ・ハートはめずらしく客が多かった。常連客の張飛さんや孔明さん、時々足を運んでくれる馴染み客、忘年会の流れらしい初めての客まで、狭い店内は大賑わいだ。
中でも、そこだけ花が咲いたかのように華やかなのは、一番奥のテーブル席に陣取った二人の女性だった。
近くに勤めるOLだろうか。
飲んで食べておしゃべりして、と思いっきり週末の夜を満喫している。
楽しそうにさんざめく彼女たちの様子を、ぼくは見るともなく眺めていた。
すると突然、二人のうち若い方のコが、ぼくに向かって手を上げた。
「すみませ~ん。生ビールお代わりお願いします」
「はいっ」
自分でも、ちょっとテンション高いなと思うほどの声が出てしまい、さっそくカウンターに座っていた張飛さんに突っ込まれた。
「おっ、姜維くん。いい返事だねえ」
「張飛さんってば、茶化さないでくださいよ」
ぼくがビールのジョッキを持っていくと、さっき手を上げたコがにっこりと笑った。
「ねえ、キミ、アルバイトくん? なんていう名前?」
「え? ぼくですか」
「そう。さっきからこっちの大喬お姉さまが、聞け聞けってうるさいの」
「ちょっと、小喬!」
大喬と呼ばれた女性は、真っ赤になって僕の方をちらりと見た。
――え? それって、どういうリアクション?
思いがけない展開に、ちょっとドギマギするぼく。
我ながら分かりやすい性格だよ、全く。
「はい。アルバイトの姜維です。どうぞよろしく」
「ふ~ん。姜維くんっていうんだ。ここのお店にはいつも出てるの?」
「ええ、まあ。テスト期間以外は」
「ですって。大喬お姉さま、これから毎晩通う?」
「ばか……」
恥ずかしそうに目を伏せるしぐさが、何ともいえずかわいらしい。
(かわいいひとだなあ。ぼくよりは年上みたいだけど)
何と答えたらいいのか、言葉に詰まって、そんなことをぼんやりと考えていたぼくに、趙雲マスターの厳しい声が飛んできた。
「姜維くん、2番テーブルのオーダー上がりましたよ」
「あっ、はい! すみません」
いけない、いけない。仕事中だぞ。
ぼくは、あわててカウンターに戻り、渡された料理をテーブルに運んだ。
他の客がいるときは、特定のお客さまとあまり馴れ馴れしく話したりしないように、とはいつもマスターに言われていることだ。
そんなことも忘れてしまうほど、ぼくはのぼせ上がっていたんだろうか。
確かに今だって、彼女の視線が気にならないといえば嘘になるけど。
けだるそうにカウンターに頬杖をついていた孔明さんが、料理を運び終えて戻ってきたぼくの顔を眺めて、にんまりと笑った。
「姜維ちゃんってば、過剰なサービスはだめよ~。ここはホストクラブじゃないんだから」
「ちょっ……孔明さん。何を言うんですか、いきなり」
「うふ。まあ、舞い上がるのもわかるけどねえぇ」
孔明さんは、ギムレットのグラスを一気に飲み干すと、何がおかしいのか、くっくっと喉を鳴らして笑った。
隣に座っていた張飛さんも、楽しそうにウーロン茶割りのグラスを傾ける。
「よかったな、姜維。今からがんばれば、今年のクリスマスに間に合うぜ。カノジョいない歴20年の俺としちゃ、青春真っ最中の姜維くんがうらやましい限りだよ」
「な……。張飛さんまで……」
「うふふ。ほらほら、顔がにやけてる~♪」
だめだ。孔明さんったら、今夜はお店が休みだからって、完全にまわっちゃってるよぉ。
「もう、やめてくださいよ、二人とも」
こんな会話、奥の女性たちに聞かれたくない。困り果てたぼくに、見かねた趙雲マスターが助け舟を出してくれた。
「はいはい、姜維くん。ここはいいから、裏へ行ってお水のボトルを2本持ってきて」
ぼくは、これ幸いと、逃げるようにその場を離れた。
「はあ……」
ストックヤードの冷蔵庫を開けて、「ごろごろ水」というラベルが貼られたペットボトルを2本取り出した僕は、何だかやり切れない思いでため息をついた。
――みんなしてあんなにからかうなんて、ひどいよ。まだ、何がどうなったっていうわけでもないのに。
何がどうなったどころか、まだ何も始まってすらいないのだ。
この調子だと、「ピーチ・ハート」で働いている限り、ぼくには恋愛なんてできないんじゃないだろうか。
(何言ってるんだ。それじゃまるで、「ピーチ・ハート」がぼくの生活のすべてみたいじゃないか)
ぼくにだって、大学生としての日常があるんだ。あんまり熱心に授業には出てないけど。
合コンや合ハイのお誘いだって来るかもしれない。まあ、部活もやってないし、サークルもうざくて半年でやめちゃったから、どこからもお呼びがかかりそうにはないけど。
――だめだ。やっぱりおれの毎日って、「ピーチ・ハート」オンリーじゃんか……。orz
あらためて気づいた。
なんて寂しい、ぼくの学生生活。
これじゃカノジョなんて、永久にできるわけないよ~。(T_T)
げんなりして店内に戻ったぼくに、趙雲マスターから次々と仕事の指示が飛んだ。まるで、わざと忙しくさせてるみたいに。
まあ、そのおかげで、余計な気を遣わなくてもよくなったんだけどね。
ぼくがせわしなく動いているものだから、張飛さんや孔明さんの冷やかしも来なくなったし。
そうこうしているうちに、客足が引き始め、12時をまわった頃には、常連の張飛さんと孔明さん、それに奥の女性二人組だけ、といういつもの静かな「ピーチ・ハート」の風景になった。
「さあて、もういいでしょう」
グラスを片付けていたマスターが、ぼくに目配せした。
「このカクテル、奥のテーブルに持っていって。私のおごりですから。あ、少しゆっくり話してきてもいいですよ」
「え?」
きょとんとするぼくに、マスターが軽くウインクする。
「張飛さんも孔明さんも身内みたいなものですから、もう気を遣わなくても大丈夫。それよりも、こんな時間まで待ってくださったお客さまに、しっかりサービスしてきてください」
「マスター……」
いつもながらあざやかな趙雲マスターの気配りに、じわっと胸が熱くなる。
なんでこの人は、こんなにかっこいいんだろう。やっぱりぼくとは格が違うんだ。(←いえいえ、単なる年の功:作者)
ぼくは、おずおずとマスターからカクテルを受け取り、ちょっとうきうきしながら奥のテーブルに運んだ。
「これ、マスターからのサービスです」
「きゃっ、うれしい~~」
ぼくがカクテルグラスとおつまみをテーブルに置くと、彼女たちは、黄色い歓声を上げた。
「それから、お客さまと少し話してきてもいいって、マスターのお許しが出ました」
「わっ、ほんと?」
「じゃ、どうぞ、ここに座ってくださいな」
大喬さんが、自分の座っている位置をずらして、ぼくに隣の席を勧めてくれた。
「失礼します」
律儀に断ってから、ぼくはソファの隅っこに腰を下ろした。
ここで働き始めてもう結構経つけれど、こんな風にお客さまの横に座るなんて初めてだ。
やたら体が緊張してる。
ぼくは、思い切って大喬さんに話しかけた。
「こんなに遅くなって、大丈夫なんですか?」
大喬さんは、びっくりしたように顔を上げると、ぼくを見てにっこりと笑った。でも、言葉で答えてくれたのは小喬さんの方だ。
「うん、平気よ。アタシも大喬お姉さまも、家近いから。タクシーで帰ってもすぐだし」
「そうですか。それじゃ、どうぞ今夜はゆっくりしていってくださいね」
ええっと、それから……。
一体、何を話せばいいんだろう?
ああ、何だか顔がにやけているのが自分でも分かる。
だって、思いがけず、幸福の女神が突然目の前に降りてきて、宝くじが当たったよと告げられたみたいなものなんだから。
それからも、いろいろ他愛のないことをしゃべった気がするのだが、話の内容は上の空で、全く覚えていない。
ただ、大喬さんの指が細くてきれいだなとか、目を伏せると睫毛がすごく長いんだなとか、そんなことばかり考えていた。
🥃 続きます✨
Bar.ピーチ・ハート 【Episode5】
「ロック・ユー!」
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都会(まち)の喧騒を離れた裏通りに、その店はある。
バー「ピーチ・ハート」。
気配り抜群でしっかり者の美形マスター趙雲氏と、ちょっぴり気の弱い天然癒し系のアルバイト姜維くんが切り盛りする、小さなカウンターバー。
今夜も、ちょっと疲れた男たちが羽根を安めにやってくる……。
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11月も半ばを過ぎると、さすがに朝晩はぐっと冷え込んでくる。
今年最初の木枯らしが吹いた金曜日の夜。
ぼく(姜維)がアルバイトをしているバー・ピーチハートは、外界の寒さから逃れてほっと一息つきたいという客たちで、めずらしくにぎわっていた。
9時をまわって、ようやく客がひき始めた頃、ひとりの若い男が入ってきた。
真っ赤な革ジャンにライダーブーツ。
赤く染めた短い髪をツンツンに立たせ、片方の耳には派手なピアス。
最初に見たときは、どこの暴走族が来たのかとびびってしまったぼくだったけど。
その正体が、実は近くにある西涼寺の跡継ぎで、この界隈でも有名なヤンキー坊主だと知って、もっとびっくりしたものだ。
「いらっしゃいませ、馬超さん」
「おう、姜維。今日もがんばってるか?」(←本人はシャレのつもりらしい)
「あはは……(汗)」
カウンターの真ん中に陣取った馬超さんは、人懐こそうな笑顔をぼくに向けると、
「いつものやつな」
と親指を立てた。
「姜維くん。奥の冷蔵庫から出してきて」
趙雲マスターに言われて、ぼくは裏の貯蔵庫へ馬超さんの『いつもの』を取りに行った。
お目当てのものを抱えて店内に戻ると、カウンターにはすでに、ちゃんと皿にのった枡が用意されている。
そう。馬超さんの「いつもの」は、飲みごろに冷えた日本酒なのだ。
『純米大吟醸 男山』
一升瓶に、豪快な文字が躍っている。
「そうそう、それそれ。日本男児なら、やっぱり日本酒だよな」
マスターは、黙って枡になみなみと男山をついだ。あふれた酒が皿にこぼれる。それを見て、馬超さんがにやりと笑う。
「いいねえ。この皿にこぼれたやつを先にすするのが、またうまいんだ」
「馬超さん、今夜はご機嫌ですね。何かいいことでもあったんですか?」
愛想のつもりで言ったぼくに、マスターが恐い顔で目配せした。
(あれ? 何かまずいこと言ったかなあ……?)
とたんに、馬超さんが暗い顔になって黙り込んでしまったものだから、ぼくはますます困惑してしまった。
「だめだろ、姜維くん」
とまどっているぼくに注意したのは、奥の席に座っていた張飛さんだ。
「馬超さんが必要以上におしゃべりになるのは、嫌なことがあって腹の中じゃムシャクシャしてる時だってのは、俺でも知ってるぜ」
「あ……!」
そうだった。
いつもはあまり余計なことは言わないのだ、この人は。何か胸につかえていることがある時だけ、饒舌になる。
ちょっと間が空いていたので、すっかり忘れてしまっていた。
「すみません。気がつかなくて」
あわてて頭を下げると、馬超さんは、かえってすまなさそうな顔になり、
「いいって、いいって。そういう素直な姜維が好きなんだ、オレは」
と、らしからぬ優しい目でぼくを見た。
(……やっぱり、いつもとは様子が違うんだけど)
「で、どうしたんだい? また檀家の年寄り連中に何か言われたのか?」
「………」
馬超さんは、張飛さんの質問にしばらくじっと考えていたが、思い切って口を開いた。
「実はさ、今度のクリスマスに、寺の本堂でロックコンサートやるって言ったら、檀家のお偉いさんたちが血相変えて飛んできやがってよぉ」
「ロックコンサート? 西涼寺の本堂で?」
「まったく、じじいは頭固えよなあ」
「あは……あはは……(汗)」
ぼくも張飛さんも、もう笑うしかない。
本堂でヘビメタなんてやられた日には、ご本尊の阿弥陀様だって腰を抜かしてしまうことだろう。
ましてクリスマスなんて、お寺さんには何の関係もないんだもの。
あわてふためいて、このヤンキー住職見習いを止めにきた人たちの様が見えるようだ。
「で、結局取り止めるのかい、ロックコンサートは?」
「まあ、しゃあないさ。親父の病気もこれ以上悪くしたくねえからな」
馬超さんは、苦虫を噛み潰したような顔で、男山の入った枡を口に運んだ。
その時、勢いよく店のドアが開いた。
顔をのぞかせたのは、馬超さんのバンド仲間の馬岱さんだった。
「あ、やっぱりここでしたね」
「おう、馬岱か。よく分かったな」
「寺の方へ顔を出したら、出かけたっていうもんだから。多分ここじゃないかと」
馬岱さんは、軽い足取りで馬超さんの横の席に腰を下ろした。
「マスター、俺にもその『男山』一杯!」
「承知しました」
注文を受けるより早く、馬岱さんの分の枡がカウンターに用意されている。さすが趙雲マスターだね。
「ところで――」
縁なし眼鏡の奥で、マスターの目がきらりと光った。
「馬岱さん、今日はバイクで来たりしておられないでしょうね?」
「もちろんさ。この前なんてチャリで来たのに、それでもマスターに大目玉喰っちまったんだから」
馬岱さんは、わざと渋い顔をしてみせたが、目が笑っている。
「自転車でも飲酒運転で捕まるんですかぁ?」
と間の抜けた声を出したぼくに、
「当たり前です」
マスターは恐ろしく冷静な口調で、ぴしゃりと言った。
「おいおい、姜維くん。マスターの前で、飲酒運転の話はタブーだぜ」
「あ……」
そうだった。
マスターのお父さんは、飲酒運転のトラックにはねられて亡くなったのだという話を、以前に張飛さんから聞いたことがある。
だから、こういう商売をしていながら、マスターはかたくなに飲酒運転を認めない。
たとえお客様と喧嘩になっても、これだけは絶対に譲らないのだ。
どうも今日のぼくは、自分でも嫌になるくらい気がまわらないなあ。
疲れているのか。気持ちがたるんでいるのか。こんなことではバーテンダー失格だ。
「親父さんが亡くなってから何年になるの?」
枡をなめながら馬岱さんが尋ねる。
「もう14年になります。一昨年、十三回忌を済ませましたから」
「おう、あの法事が俺の坊主デビューだったっけな」
「その節は、いろいろお世話をおかけしました」
あらたまって礼をいうマスターに向かって、馬超さんは、恥ずかしそうにツンツンに立った髪の毛をなぜた。
「よせやい。マスターにそんな風に言われると、冷や汗が出るぜ」
隣の馬岱さんが愉快そうに笑う。
「あはは。兄貴の武勇伝の第一号ですもんね」
「武勇伝か。確かにあれはびっくりしたな」
趙雲マスターのお父さんの法事のとき、脳溢血で倒れた先代に変わって、初めて馬超さんが急遽導師を務めることになったという話を、張飛さんが話していたっけ。
そのときの逸話がふるっていたらしい。
ナナハンに彼女と二人乗りで来たとか、サングラスをしたまま読経をしたとか、途中でお経を忘れてクイーンの歌になっていた(笑)とか……。
そんな思い出話で盛り上がっているうちに、馬超さんも馬岱さんもすっかり出来上がってきたようだ。
空になった枡に『男山』を注ぎながら、マスターがぽつりと言った。
「お父さんを大事にしてあげてくださいね」
「ああ?」
「親孝行は、できるときにやっておかなきゃ」
「うん、そうだな……」
マスターの言葉に、しばらくじっと考え込んでいた馬超さんが、ふと顔を上げた。
「なあ、馬岱。例のコンサートの話なんだけどよぉ……」
言いよどむ馬超さんに、馬岱さんは軽くウインクしてみせた。
「また周りからこっぴどく叱られたんでしょ。分かってますよ。そうでなきゃ、ここで一人男山なんか飲んでやしないもの」
「やっぱり、無茶だったかなあ。我ながらいいアイデアだと思ったんだけどよ」
馬超さんは、ため息と同時に所在なさげに頬杖をついた。
強面の印象がちょっとだけ緩んで、ぼくより少し年上(だと思う)の若者の素顔がのぞく。
「だいたい兄貴の発想はユニークすぎるんですよ」
「西涼寺の本堂くらい思うようにできなくてどうするんだ。俺の夢は、東京ドームをいっぱいにすることなんだぜ!」
「はいはい。分かってますって」
馬超さんに合わせるようにうなずいてから、馬岱さんは少しほろ苦い笑顔で、枡に残っていた男山を飲み干した。
「残念だけど、今年のクリスマスはあきらめて、また来年考えましょ」
黙り込んでしまった二人に、趙雲マスターが思い切った提案をした。
「ねえ、馬超さん。相談なんですが」
「あん?」
「そのコンサート、ここでやるっていうのはどうですか」
マスターったら、突然、何を言い出すかと思えば。
張飛さんもぼくも、思わず耳をそばだてる。
「ちょっと狭いですけど……。防音はしっかりしてますから、どんな大きな音で演奏しても、近所から苦情がくることはありませんし」
「マスター、ほんとにいいの? クリスマスっていやあ、かき入れどきだろ」
「大丈夫ですよ。去年のイブは孔明さんの貸切だったし(笑)。まあうちは、クリスマスといってもそんなものですから」
確かに……。
イブの夜に、たった一人の常連客のために店を貸切にすることぐらい、このマスターは何とも思っちゃいないのだ。
「場所代はいりません。皆さんが飲んだり食べたりした分の代金さえいただければ」
「イェイ! やったぜ!」
「兄貴、よかったっすね」
「おう。これで、他のメンバーにも言い訳が立つな」
二人とも、思いがけないマスターからの申し出に、心の鬱屈が晴れたのだろう。
思いっきり声がはしゃいでいる。
「よおっし! 元気が湧いてきたぜえっ! 姜維も張飛さんも覚悟しとけよ! 今年のイブは、夜通しおれたちのスーパーライブを聞かせてやるからなっ」
「わ~~い。夜通しですかぁ。うれしいなぁ……」
顔ではにっこり笑いながら、内心、さっそく耳栓を買いに行く算段をしているぼくだった。
「そうと決まれば、今夜は前祝だ! コンサートの成功を願って、ぱあっとやろうぜ。マスター、『男山』一升瓶でおかわり!」
こうして今日も、ピーチハートの夜はにぎやかに更けてゆく――。
🥃了(初出 2006/12/20)
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拙サイトのカウンター17000と17777を、見事に2つ続けて自爆してしまい、これは何か書かねばなるまいと思って大慌てで書いた作品です。
実は、ピーチ・ハートのシリーズには、まだまだ出したい人がいっぱいいまして(キャラを考えている時が楽しいんですよね♪)、頭の中で温めている小ネタもいくつかあるのですが、なかなか形になってくれません。
そんな中、ヤンキー坊主の馬超というキャラクターは、結構以前から私の中ではできていて、それが今回ようやく陽の目を見たというわけです。
馬岱くんは「オマケ」みたいな感じで、突然思いついたんですけど…(笑)。
タイトルの「ロック・ユー!」は、ご存じクイーンの名曲。
そして、ヒース・レジャーが主演した映画のタイトルでもあります。
この映画、中世ヨーロッパを舞台に、貴族しか参加できない馬上槍試合に、身分を偽って参加する若者の恋と栄光を描いたサクセスストーリーで、なかなか面白かったですよ。
さて、我らが馬超さんのサクセスストーリーは、今後どう展開していくのでしょうか。
🥃 純米大吟醸 男山
日本酒が好きです。元来、燗酒はあまり好きじゃなかったんですが、冷酒のおいしさに目覚めてからは大好きになりました。
よく冷えた吟醸酒は、フルーティで飲み口が良くて、いくらでもするすると入ってしまいます。
気をつけないと、飲みすぎて後でえらい目にあうんですけどね…(笑)。
『男山』は、以前北海道へ旅行したときに、旭川にある蔵元へ見学に行きました。
この純米大吟醸は、さすがに高級すぎて手が出ませんでしたが、資料によると「酒造好適米『山田錦』を38%に磨き上げ、昔ながらの"甑"(蒸米)、麹蓋(製麹)、"槽"(圧搾)等を使った手造りの酒。アルコール分16度、日本酒度プラス5と辛口で、フルーティーな香りと、スッキリしたのど越しは、まさに日本酒の"芸術品"」なのだそうです。
馬超さんのごひいきにしたのは、ただ単に名前が男っぽくていいなと思ったからで、特に深い意味はありません(笑)。
🥃
Bar.ピーチ・ハート 【Episode4-1】
「運命のひと」 前編
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都会(まち)の喧騒を離れた裏通りに、その店はある。
バー「ピーチ・ハート」。
気配り抜群でしっかり者の美形マスター趙雲氏と、ちょっぴり気の弱い天然癒し系のアルバイト姜維くんが切り盛りする、小さなカウンターバー。
今回は、趙雲マスターの真夏の夜の夢、ちょっと不思議なお話。
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◆◇◆ 夢想
――「月下美人」は、育てるのが難しくて、なかなか蕾をつけないんだが、それだけに開いた花の美しさと、その甘い官能的な香りは何ともいえないんだよ。
一夜のうちに咲いて枯れてしまう純白の花は、それは幻のように儚くて美しいんだ、とその客は、ふくらみ始めた蕾を自慢するように言った。
「ほんとは真夏の花なんだけど、丹精込めて世話をしたら、早い時期から蕾がついてね。マスターにはいつもよくしてもらってるから、これはほんのお礼ってことで。どうか、かわいがってやってね」
ああ……この甘やかな香りは何だったろう。
懐かしい、せつない香り……。
思い出せないのに、なぜか胸が痛い。
闇に漂う甘い香りが苦しくて、目が覚めた。背中が汗でびっしょり濡れている。
寝返りをうつと、まだ明けきらない窓辺に置かれた一個の鉢植えが目にとまった。
客からもらった月下美人が、いくつかの蕾をつけている。
薄明かりの中に浮かび上がる蕾は、ひそかに息づいているかのようだ。
もちろん、まだ花が咲いていないので、何の香りもしない。
では、息苦しいほどのさっきの香りは? やはり夢だったのだろうか。
「ピーチ・ハート」のマスター趙雲は、近頃、毎晩のように見る同じ夢に悩まされていた。
昔から、何度か似たような夢を見たことはあったが、ここまで続くと何となく気味が悪い。
しかも夢の記憶が、日を追って、だんだん鮮明になってくるのだ。
どうやら、夢の舞台は大昔の中国らしい。
そこで、趙雲は一軍を率いる武将なのだが、戦の場面などはめったに出てこなくて、いつも、日常のひとこまのような展開なのである。
そして、かれの側には、常にひとりの女性がいた。
夢を見始めた頃は、目が覚めても、女性の顔がおぼろげに残っている程度だった。
それが今では、表情もしぐさも、声までも、はっきりと脳裏に焼きついている。
今朝も――。
「趙雲さま!」
そう叫んで、泣きながら自分の胸にしがみついた、そのひとの手の感触までが残っていた。
「はあ……。まいりましたね」
覚醒しきらない頭で、趙雲はため息をついた。
夢だとわかっているのに、このせつなさ、胸の痛みはどうしたことだろう。
「何かにとりつかれちゃいましたかね?」
ふざけて言ったつもりが、まるで冗談に聞こえない。
(私に言いたいことがあるんなら、はっきりと言ってくださいよ。こそこそ夢の中なんかに出てこないで)
趙雲がなじると、夢の中の女ははかなげに微笑んだ。まるで月下美人のように。
◆◇◆ 白昼夢
「マスターはどうして結婚しないの?」
「え?」
常連客の張飛の質問は、いつも突然かつ直截的だ。
「だって、そのルックスだよ(うらやましいぜ!)。しかもその若さで、お店のオーナーだよ(小さなカウンターバーとはいえ、社長様だ)。女の子が放っておかないでしょう?」
「………」
「それとも、やっぱり、あれ? “あっち” がいいとか」
張飛の言葉に、それまでとろんとした目つきで半分居眠りしかけていた孔明が、急に顔を輝かせた。
「そうよ! そうなのよ! マスターは女嫌いなのよ、ねえ~~♪」
カウンターのいつもの席に陣取った二人に詰め寄られて、趙雲は困ったような曖昧な笑みを浮かべた。
「どうして、って聞かれても困るんですけど……。どこかで、私を待ってくれているひとがいるような気がするんですよ」
「はあ?」
趙雲の口から、しごく真面目に、思いもしなかった言葉が返ってきて、張飛も孔明もぽかんと口を開けた。
「笑われるかもしれませんが、運命のひとがどこかにいて、私と出会うのを待っている。だから、そのひとにめぐり会うまでは、結婚なんてしちゃいけないんだ、って」
「うっそ~~。冗談」
「まあまあ、そういうことにしときますか。誰にだって言いたくないことはあるだろうからさ」
張飛も孔明も、趙雲流のとぼけ方だと納得して、もうそれ以上この話題には触れなかった。
だが、横で聞いていた姜維には、まるっきりそれが冗談だとも思えなかったのだ。
なぜなら。
つい数時間前のことだ。
いつものように、アルバイト先である「ピーチ・ハート」にやってきた姜維は、まだ開店前の店先に若い女性が座り込んでいるのを見て、あわてて駆け寄った。
「大丈夫ですか? 気分でも悪いんですか?」
「いいえ……なんでもありません。……もう大丈夫ですから」
「でも、顔色が真っ青ですよ」
「本当に……大丈夫……」
立ち上がろうとした女性は、しかしそのまま倒れ込んでしまった。
「マスター! 大変ですっ! お店の外で女の人が――」
姜維の叫び声に、開店の準備をしていた趙雲があわてて飛び出してきた。
「どうしたんです?」
「女の人が、ここで倒れてて……」
「大丈夫ですか?」
ひどい熱だ。
「とにかく中へ運びましょう。姜維くん、そっちをささえて」
胸に抱き上げるようにして女性の体を起こす。
そのとき、苦しそうな息の下から、切れ切れの言葉が聞こえた。
「――ああ、趙雲さま、お会いしとうございました……」
「え?」
驚いて顔をのぞき込んだが、一度も会ったことのない女性だ。
「あなたは誰です? どうして私の名前を?」
聞き返したときには、女性は体重のすべてを趙雲の胸にあずけて、意識を失っていた。
姜維が趙雲の話を冗談だと笑い飛ばせなかったのは、実際にそのやりとりを見ていたからだった。
そして、その女性は、実はまだここにいるのだ。
「ピーチ・ハート」は店舗と住居部分がつながっている。店のすぐ横は、酒や食材を保存する貯蔵庫になっていて、その奥に趙雲が暮らしている2DKの部屋がある。
店に担ぎ込んでから、すぐに医者を呼んで診てもらったところ、特に外傷や疾患はないが、衰弱が激しいのでゆっくり休ませるように、ということだった。
そのまま放り出すわけにもいかず、居間のソファに寝かせてある。
やがて店が退けて、客も姜維も帰ってしまった後、居間へ続く扉に手をかけるのが、ほんの少しためらわれた。
(煙のように消えてしまっていたら、どうしよう?)
――いっそその方が、気が楽なんですがね、と胸の内でつぶやいて、そっとドアを開ける。
灯りを落とした部屋の中で、女性はこんこんと眠っていた。
薬が効いているのだろう。趙雲が入ってきて灯りをつけても、目を覚ます気配もない。
あらためて顔をのぞき込んでみる。
やはり、記憶になかった。
(お店のお客さまでしょうか。それとも、どこかでお会いしましたか――?)
ふいに甘い香りが漂ってきて、趙雲は窓辺に置かれた月下美人の鉢植えに目をやった。
今朝はまだつぼみだったのが、見事に一輪、夜の闇の中に花びらを広げている。
そのとき、趙雲の意識の底に、閃光のようにひらめいたものがあった。
夢――。
夢の中の女性。
(ああ……。あなただったんですね。では、これも夢の続きでしょうか)
突然言いようのない愛しさがこみあげてきて、趙雲はそっと女性の頬に手をあてた。
もう、熱は下がっている。
血の気のない白い頬。冷たくて、陶器のようになめらかな肌。
それでも、確かに生きているという手触りを感じて、趙雲はほっと胸をなでおろした。
🥃 続きます
Bar.ピーチ・ハート 【Episode4-2】
「運命のひと」 後編
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「ピーチ・ハート」のマスター趙雲氏の不思議な真夏の夜の夢。
彼の運命のひととは?
時空を超えた、ある恋の物語。
*******
◆◇◆ 秘密
月下美人の香り。
愛しくて、哀しくて、……胸がつまる。
あなたは、いったい――?
「ねえ、ちょっと、姜維くん」
姜維を店の外に呼び出してドアを閉めると、孔明はいきなり真剣な表情になった。
「マスターが女性と同棲してる、ってほんと?」
「ああ、いやあ、同棲っていうか……」
「ほんとなのねっ!」
ほとんど悲鳴のような声がもれた。今にも姜維に掴みかからんばかりの形相だ。
「ちょ、ちょっと、孔明さん、落ち着いてくださいよ。同棲とか恋人とか、どうも、そういうんじゃないらしいんです」
「そういうんじゃないなら、どういうのよ? どんな女? どういう関係?」
オカマといっても、実際には大柄な男性なのだ。
自分よりはるかに上背のある孔明の迫力の前に、華奢な姜維はたじたじとなった。
そのとき、ドアが開いて趙雲と張飛が顔を出した。
「孔明さん。あまり姜維くんをいじめないであげてください」
「マスター!」
振り向いた孔明は、かわいそうなくらい取り乱している。
「私からちゃんとお話しますから。とにかく中へ入りませんか」
「そんな所で大声出してると、パトカーに連れていかれちまうぜ」
「………馬鹿」
いつもに増して落ち着いている張飛が憎らしい。
二人に諭されてしぶしぶ店内に戻った孔明は、黙っていつものカウンター席に腰を下ろした。
よく冷えたロゼのワインをその前に置き、趙雲はこれまでのいきさつを語り出した。
「じゃあ、記憶喪失だっていうの?」
「自分の名前が翠蓮だっていうことしか分からないんですよ。帰る場所も、行くあてもない。そんな人を放っておけないでしょう」
「優しいのね、マスターは。あたし以外の人には……」
目の前のワイングラスを一気に空けた孔明は、わざとらしくちょっと咳き込んだ。
「それじゃあ、しばらくは、彼女はここに住むんだな」
「ええ、まあ。これも何かの縁だと思って。ほかにいい方法も思いつきませんし」
三人の会話を黙って聞いていた姜維は、心のどこかで違うことを考えていた。
(何かの縁? そんな曖昧な理由で、マスターが見知らぬ女の人を家に入れるはずがないじゃないか)
それに、趙雲と翠蓮という女性の間には、初対面とは思えない親密さがあるような気がしてならない。
二人が一緒にいるところを、ほんの少ししか見たことのない姜維でさえ、二人の周りに流れる空気の濃密さを感じることができた。
趙雲の翠蓮に対する優しさには、何かもっと別の、はっきりとした訳があるはずだ。
――そういえば前に、「運命のひと」って言ってたよな、マスター。
(どこかで、私を待ってくれているひとがいる、とか何とか……)
「くやしい~~っ!」
ようやく、大切なことにたどり着きそうになった寸前、姜維の思考は、孔明の金切り声に破られた。
「あたしも店の前で倒れてやるんだから」
立て続けに4杯目のグラスを飲み干して、孔明はカウンターに突っ伏した。
「まあまあ、孔明ちゃん。真相が分かったんだからいいじゃないの」
「ぜっんぜん、よくないっ! 理由はどうあれ、マスターが女の人と暮らしてることに変わりないんだもの」
「確かにまあ、ちょっとした青天の霹靂だけどな」
どうやら張飛も、趙雲の話にすんなり納得したわけではなさそうだ。
◆◇◆ 幻想花
暗闇の中に浮かび上がる白い花弁。
うつむいていた蕾は、見る間に頭をもたげ、身もだえしつつ透明な花びらをほどいていく。
ひっそりと開いた花は、やがて甘美な香りで夜の闇を包み込む。
月下美人の甘やかな香り。それはあまりにも官能的だ。
一晩だけの命だから。短い夜を命の限り燃え尽きてしまいたい――。
そう言っているかのように。
趙雲は、ベッドの中からぼんやりと、窓辺に咲く大輪の花を見ていた。
傍らには、翠蓮が小さな寝息をたてている。
彼女がここへ来て五日。
三番めの月下美人が開花した夜、二人はごく自然に結ばれた。
「趙雲さま。ようやくお会いすることができましたのね」
「翠蓮……。私も会いたかった」
細い肩をそっと抱き寄せ、唇をあわせる。
ふるえる背中に手をまわし、やさしく愛撫すると、小さな吐息がもれた。
どうして、こんなに懐かしいのだろう?
(初めて出会ったはずなのに)
どうして、こんなにせつないのだろう?
(まだ、何も起こりはしないのに)
こうしていると、少しの違和感もない。
その女性が翠蓮という名で、自分と深い関わりがあったこと。
遥かな時間と空間を超えて、ようやくめぐり会えたこと。
運命の糸にたぐり寄せられたかのように、彼女はこの腕の中にいる――。
(ああ、私はこのひとを知っている……。何度も何度も、こうしてお互いを確かめ合いましたね。遥か遠い昔――)
夢と現(うつつ)が重なる。
めくるめく、甘美なひととき。
今、この腕の中にあるのは、いにしえの幻? それとも月下美人の精霊か?
いや、あなたは確かに生きている。
抱きしめれば、こんなにも温かくやわらかい――。
これは、決して夢なんかじゃない。
幸福な眠りから目覚めた後、翠蓮は趙雲のよく知っている眸子で微笑んだ。
「趙雲さま。もう、お気づきですね。わたくしは現実のものではありません」
「翠蓮――!」
「わたくしは、遠い昔、あなたさまに心を遺して死んだのです」
その遺志のあまりの強さが、彼女の想いをこの世に留め、幾世代も幾世代も時を超えて伝わったのだ、と翠蓮は言った。
「わたくしは何度も生まれ変わり、その度にあなたさまを捜し求めました」
「会えなかったんですね」
ええ、と寂しげにうなずく彼女のうなじから、月下美人の香りが漂う。
「時間と空間がうまく一致しなくて……」
「でも、ようやく会えた、こうして」
「いいえ」
力なくかぶりを振る翠蓮の眸子から、涙があふれ落ちた。
「わたくしは……今回も間に合わなかったのです」
◆◇◆ 泡沫(うたかた)
やがて、夢は現(うつつ)となり、
現実は、時の彼方で幻となって、色褪せる。
どちらが真実?
私にとって、本当に大切なものは……。
「本当のわたくしは、今、ニューヨークという町のある病室にいます。治る見込みのない病で、もはや意識もありません」
「………!」
「もうすぐ私は死ぬでしょう。けれどその前に、何としても今生であなたさまにお会いしたかった。また、永い時を待たねばならないのですもの」
やがて、何かを感じたのか、彼女は趙雲を見つめ、静かに微笑んだ。
「こんな形でしか、あなたさまの元にいられなかったわたくしを、許してください」
翠蓮の笑顔が、すうっと透き通ったように思えて、趙雲は思わずその身体を抱きしめた。
(消えてしまう――)
月下美人。
一夜のうちに咲いて枯れてしまう純白の花。
それは幻のように儚くて美しい。
「翠蓮! だめだ!」
趙雲の呼びかけに、そのひとはうれしそうにうなずき、精一杯の笑顔を返した。
――やっと、こうしてめぐり会えたのに!
――逝くな! 逝かないでくれ。私を一人にしないで……くれ。
次の瞬間、翠蓮の身体は、透明な光の中ににじむように消えていた。
趙雲の腕の中に、かすかなぬくもりだけを残して。
「翠蓮……」
(あなたに心を遺していたのは、私も同じでした。だから、私もこうして、何度も何度も転生を繰り返してきたのですよ)
突然消えてしまったひとの、さっきまで確かに感じていた体温が悲しい。
夢じゃない。幻なんかじゃない!
あなたは確かにそこにいた。
残り香がせつなくて、胸がつまる――。
窓辺に置いた鉢植。
朝の日差しの中で、月下美人の花は、命のすべてを燃え尽きさせて枯れていた。
急に翠蓮がいなくなってしまった理由を尋ねる姜維に、趙雲は「記憶が戻ったんですよ」とこともなげに答えた。
けれど、いつも冷静なマスターの眸子が、その日はやけに悲しげな色をたたえていたことに、姜維は気づいている。
また、以前にもまして、月下美人の鉢植の世話に力を入れていることも。
だが。
趙雲には分かっていた。
どれほど心を込めて世話をしても、その月下美人がもう二度と花を咲かせることはないということを。
それでも彼は、今朝も、窓辺の月下美人に話しかける。
遥かいにしえの、「運命のひと」への想いを込めて。
「おはよう、翠蓮。今日もいいお天気ですよ――」
🥃了(初出 2006/6/5)
*******
――突然! 訳の分からない話ですみません。m(__)m
まったくの個人的趣味で、こんな毛色の違うものを書いてしまいました。
だって、マスターに恋する男をやらせたかったんですもの。それも、思いっきりシリアスな悲恋を(サドですな~~>自分)。
元ネタは、ずっと以前に書いていた姜維くんの小説「姜維立志伝」の中のエピソードですが、私の脳内設定では、趙雲と翠蓮のカップルというのは、もはや定番になっております。
パラレルになってもカッコいい趙雲。やっぱりナイスガイ(←死語?)ですね~。
🥃