『沸騰』 2話 紅茶
ご近所さんなんて、友達でもない薄っぺらなものに時間を割く意味があまり理解できない。多分これを口に出せば〝どうしてそんなに拒絶するの?〟なんて言われたりするんだろうな。そこで、一番の薄っぺらは私だって気がつくんだ。
私の名前は九(きゅう)。一応言っておくが、本名では無い。私が住むこの大きな家には、私の他に十人の人が住んでいる。親戚や家族ではなくただのルームメイト、同居人だ。
この家では、一から十一までの名を持つ人が住んでいる。お互いがお互いの本名を知らず、代わりに数字で呼び合うという変な決まりがある。
私は同居人の四(よん)が気に食わない。本人には面と向かって言えないが。まず初対面で〝お前〟と私を呼んできた。その時点で私は四が苦手になった。背が高く服がボロボロの男だ。
基本的にこの家の住人達は敬語で会話する中、四だけがタメ口を使っている。
この大きな家での生活に全く不安はないが、同居人の皆さんとの人間関係が難しくてそれについて毎日悩んでいる。四と仲良くなることについては既に半分諦めている。
この家の住人は毎日交代で家事をするのだが、私は料理当番の時に料理を失敗することがある。それはぼーっと他の何かを考えている時のうっかりミスであることがほとんどだ。
この前も、四との会話中に味噌汁を沸騰させた上に、冷静を装いながらも焦って鍋をひっくり返し、結局イチから作り直したという始末。四のせいにしたいところであったが、さすがにそれは性格が悪い考え方だと思いやめた。
夜、私は眠れずにリビングの大きなソファで寛いでいた。すると視界の上から気配がした。直前まで気づかなかったため心臓がばくんと鳴り、「ひえ」と情けない声を出してしまう。
「おっと、驚かせてしまったようですね。申し訳ない」
一(はじめ)さんだ。六十九歳のおじいさんで、この家で二番目に高齢な人であり、この家の主だ。
〝二番目に高齢〟というのは一さん本人から聞いた話だが、私はこの家の住人全ての年齢を知っているわけではないので誰が一番高齢なのかが気になっている。年老いた人はあと数人いるが、誰が一さんより歳上なのだろうか。
優しくたれた目尻。まっすぐな腰。どこかで嗅いだ、タンスのような少しすっぱい匂いがする。おじいさんというのはみんなそうなのだろうか。
「いえ。こちらこそすみません」
「……おかきを持ってきたのだが、一緒にいかがですかな」
一さんはおかきの入った木製の皿を私に見せる。茶色に光っていて美味しそうだ。
「ありがとうございます。紅茶入れますか」
「はは、そうだね。紅茶をお願いします」
自分から言っておいてなんだが、おかきに紅茶って合うのだろうか。一さんも今苦笑いをしたような気がする。まあ、いいか。
目に入る範囲にあった台所。ティーパックを取り出して、適当なマグカップに紅茶を入れる。
「うう、何してるんですか?」
そこには眠そうに目を擦る七ちゃんがいた。七ちゃんはこの家で最年少の十一歳の小学六年生。小学生にしては少し大人びている女の子だ。
「七ちゃん。今は、一さんとおかきを食べようとしていたところです」
「おかき? ……ってなんだっけ」
初めてそういう質問をされたので、おかきをどう説明すればいいのかと言葉に詰まる。おかきって何かときかれても、おかきはおかきだし。
「うぅんと、えー、せんべいみたいな?」
何とかそれらしいことを言えただろうか。
「ああ、あれか!」
伝わったようで何より。
「食べるかい?」
私が台所にそのまま放っておいてしまっていた紅茶の入ったマグカップを両手に、一さんがきく。
「うん!」
では追加で紅茶を入れよう。
「ちょっと七ぁ、何やってんのー」
気だるそうな声が聞こえる。七ちゃんの姉、八さんだ。振り返って姿を見ると、妹と同じように眠そうに目を擦っている。何故か枕を片手に引きずってきたようだ。
「おかきを食べようとしてたんです」
私がこのセリフを言うのは二回目だ。人がリビングに来る度に言う。もしかしてまだ人が来たりして。
「おう、九か。一のジジイもいたんだ」
八さんが私に片手をフッと挙げて言う。次に、キラキラなネイルがされた指で一さんをさした。
「口が悪いよ、お姉ちゃん!」
いつの間にか自分の分の紅茶を入れている七ちゃんが言う。口の悪い八さんを妹の七ちゃんが注意するこれは日常茶飯事だ。
八さんは大学生で、胸辺まで伸びた髪を明るい茶色に染めてパーマをかけている。初対面の時は黒髪で、出会った数ヵ月後にこの茶髪にしてきた。初めてその髪を見た時は〝焼きそば〟の四文字が頭に浮かんだ。言ったら絶対怒られるけど。
可愛いものが好きでオシャレを欠かさない。本人は否定しているがほとんどギャルのような見た目である。
「こんな夜でも元気だねえ八さんは」
いつもの優しい顔で笑う一さん。
「お姉ちゃん、食べるでしょ」
自分の分の紅茶を両手に、そう言いながらソファに座る七ちゃん。
「え、何を?」
「今九さんが言ってたでしょ? おーかーきー!」
キョトンとした顔の八さんに、七ちゃんは顔にシワを寄せて紅茶を机に置き立ち上がり、少し子供らしさを出して姉を見上げる。
「ああ、ごめん聞いてなかった。おかき? 食べるわ」
何事も無かったかのようにソファに座る。今の一悶着はなんだったのだろう。
おかきを食べようとしてたんですって説明した私に〝おう、九か〟と反応したのはどこの誰でしょうか、と言いそうになったが言葉を飲み込んだ。
「あ、あたしオレンジジュース飲みたい」
八さんがそうリクエストする。体つきは大人の女性なのに、中身は妹の七さんより子供の不思議な人だ。八さんの言葉を聞き、七ちゃんが冷蔵庫から五〇〇ミリリットルサイズの紙パックのぶどうジュースを取り出してそのまま渡した。
「えっ」
冷えた紙パックを前に動きが固まる八さん。その後を通ってソファに座る七ちゃん。
「オレンジジュースないからそれで我慢して」
「ちょっ、直飲みしろって!?」
今日も仲がいい姉妹を、一さんと二人で見守る。最初に入れた二人分の紅茶がそろそろぬるくなってきた頃かもしれない、と目の前に置いてある紅茶に目をやる。
「コップくらい自分で持ってきなよ!」
「そうだけども! あー、めんどいから直飲みでいいや」
直飲みでいいの!?
驚きで私は目を見開いて八さんを見る。私の左隣にいる一さんは変わらず笑っている。
「じゃあ食べようか」
一さんが枯れた柔らかな声で言う。四人で夜のおやつ、たまには悪くないかもしれない。
そういえば紅茶にはカフェインが含まれていたはず。どうしよう、もう夜も遅いのに私のせいでみんなが寝られなくなる。あ、八さんはぶどうジュースだから大丈夫か。
どちらにせよ老人と子供が寝られなくなるのは申し訳ない。まあ、いいか。目を瞑っていればいずれ寝れるし。少なくとも私は、カフェイン飲んで寝れなくなっても別にいい。
(多分続く)>>>>