ポエムを読んでいて、ふと痛いと感じることがあります。
人の真剣な言葉なのに、どこか落ち着かない。
近づきすぎたような、踏み込みすぎたような、そんな気持ちになることがあります。
痛いという感覚は、けっして誰かの表現を否定するための言葉ではありません。
多くの場合、読み手の側で何かが引っかかっているだけです。
ここでは、ポエムが痛いと感じられるときに、読み手の中で何が起きているのかを考えてみます。
ポエムかどうかは、言葉の中身ではなく、それを見る側の心の動きによって決まります。
そのため、書き手が強くポエムとして見てほしいと願っていても、読み手にとってはポエムに見えないことがあります。
少し距離を置いて読めるときにはポエムとして受け取れるのに、
書き手の気持ちがまっすぐぶつかってきて、逃げ場がなく感じられたとき。
それを読み手は痛いと表現するのかもしれません。
痛みという感覚は、書き手が本気だからこそ生まれるものでもあります。
もう一つ、痛いと感じやすい場面があります。
その言葉が、ポエムがあってほしい場所に置かれていないときです。
深い悩みや強い恋心を語る言葉が、
ふさわしくない文脈や場面に突然置かれている。
周りの空気とぶつかるように感じられる。
その違和感が強いほど、痛いという言葉につながりやすくなります。
言葉そのものより、置かれた環境のほうが読み手の心を揺らしているのかもしれません。
痛いポエムという言い方には、
良い悪いの判断が含まれているように聞こえますが、
実際には表現の正しさとは関係がありません。
それは読み手との距離感についての感覚であり、
書き手が心をまるごと差し出すように言葉を置いたとき、
受け取る側がどう感じたかの問題です。
同じ文章でも、ある人には痛く、
ある人にはまっすぐ届くことがあります。
痛みは個人の揺れであって、作品の価値とは別のところにあります。
ポエムを書いていて、
痛いと思われるのがこわくなることがあります。
けれど、痛さは表現の失敗ではありません。
人に伝えようとする気持ちがあるからこそ痛くなることもありますし、
誰にも見せないつもりで書いた言葉が、
誰かの胸に強く触れてしまうこともあります。
痛さを避けようとしすぎると、
言いたかったことまで隠れてしまうことがあります。
ポエムは上手く整えようとするものではなく、
心の断片をそっと置く場所でもあります。
痛いという感覚は、書き手の心と読み手の心が、
少し違う角度で触れたときに生まれます。
そこがずれていてもいいし、重ならなくてもいい。
人と人が出会うように、言葉もいろいろな出会い方をします。
痛さという揺れも、ポエムという表現のひとつの側面なのかもしれません。