ふたごたまご
あるとき、ふつうというげんしょうかなら、いじょうもしくはきせきといえる
ものがたりです。それがはじまりました。
たまごのなかにはきみがある。
ひとつかふたつかはわからない。
もしかしたらまったくなくて、しろみしかないかもしれない。
まさかというほどなんにもないかもしれない。
そのかんがえのなかで“わたしたち”はうまれました。
たまごのフランクとピーポは、おなじ殻のなかでそだちました。
あるときはあたたかくて、あるときはとてもさむくて、もしかしたらこごえてしんでしまうかもしれないときもありました。
けれど、そういうときは、すこしまてば、親というもののそんざいによって、またあたたかくなりました。
親というものはふたりにとってとてもふしぎなそんざいでした。
殻のなかにいるのでじぶんたちにはなにもわからないし、親のかおをみることもありません。
だから、なんで親はじぶんたちをあたためまもってくれるのか、そんなものはとうていわかりえません。そして、また、じぶんたちはなんで親がいるのかとかいうこともわかりません。
けれど、たしかに親といういきものがそこにあるようです。
親はときたまふたごたちをコロコロところがしました。
転卵というらしいです。
じぶんたちはなんのいきものの基(もと)なのかはわかりませんが、ただいきていつのひか殻にはしるひびのすきまからみえる外をこころまちに、親というものにどうしてじぶんたちのこのきもちがあるのかをききたいとおもっていました。
けれどそれは叶いませんでした。
親がころされたのです。
もしくは、死んでしまったようです。
けれどたしかに親というもののいのちをうばったなにものかに、じぶんたちはみえていなかったようです。
だんだんとあたたかさがきえていきます。
いつのまにか、あんなにあたたかかったおんどが、とってもつめたく、じぶんたちに死をあたえようとやってきます。
ふたごたちはふたりでいきるために、たまごからでることにしました。外にでて、あたたかくていきていけるばしょをさがすことにしました。
いきるためにすることはよくわからないけど、なんとなく、いきてさえいればきっとどうすればいいかがきっとわかるとかんじました。
だっていままでそうだったのですから。
親もそうしていたでしょう。
だから転卵されていたし、うんだのだとおもいます。だから親もいきていたのだとおもいます。
もうここからはほんとうのほんとうに、
サバイバルの、ほんのうだけをこくしするせいかつになるようです。
だけれどふあんなんかがないわけがありません。
ふたりはふるえあがっていました。けれどどうじにいさんでもありました。
だからいきていけたのだとおもいます。