「妻と別れようと思う」
彼の言葉に心臓が大きく打った。
「…そう、なんだ」
私はそう告げて
ワインを一口含む。
私より二十も年の多い彼は
無論のこと奥様がいて
私はずっと家庭の
あれこれの聞き役だった。
男と女の関係はまっさらな程ない。
だけど私は彼の強さも
弱さも見つめてきて
とっくに彼が好きになっていたし
きっと彼も
私の気持ちに気付いていたと思う。
そんな彼が19年連れ添った
奥様と別れると言い出したのだ。
私の見たところ
彼と奥様はずいぶん早くから
上手くいっていなかった。
ぶっちゃけてしまえば彼は
奥様の不倫に悩まされている。
それでも彼は今まで
奥様との関係を貫いてきたのだ。
「何があったの?」
そう問いたくなるのは当たり前だろう。
「そろそろ潮時なのかなと思ってね」
彼は私の意に反して
自然とそうなったのだと言った。
「本当に、それだけ?」
「ずいぶん攻めるね」
「だって今まで耐えてきたじゃない」
食い下がって私は、彼を覗き込む。
彼は「参ったよ」と息をついて
ワインで喉を濡らした。
「今まで妻と続けてきたのは幼くして亡くなった子どもに申し訳ないと思っていたからだよ。でもね、妻は先日の子どもの命日をすっかり忘れて二日酔いで一日中寝入っていた…我が子の命日といったって二人で線香の1本もあげてやれなかったら、二人でいる意味なんてあるのかなと」
「それで、別れを切り出そうって?」
「うん」
彼の視線がワイングラスに落ちる。
キャンドルの火が
彼の目をゆらゆらと照らした。
「辛くはない?」
「……まあ、長年連れ添った思い出もあるからね、それなりには」
そう言ってから彼は
「でも、思ったよりは」と付け加えた。
「でも、思ったよりは辛くはないよ。それは君のおかげだと思うんだ」
いつの間にか彼の目が私を捉えていた。
視線がぶつかる。
息もできないほどときめいた。
「え…?」
「あ、いや、こんな時にこんな事を言うのは、ずるいだろうね」
彼はごめんごめんと
目じりに皺をためて笑う。
「いいの……嫌でなかったら、聞かせて?」
私は小さく、呟いていた。
すると彼は僅かに唸り
考え込んだ後、こう切り出す。
「好き合って、したはずの結婚生活は闇だった。努力もしたつもりだったけれど、妻にしたら何か欠落していたのかもしれないね。だけど俺も死にたくなる程の時もあってさ、そんな時、君がいてくれて、俺の話を聞いてくれた。変に気のある素振りを見せたこともない。ただ真剣に話を聞いて、俺と妻がうまくいくようにアドバイスをくれた」
「そんな君はね」
彼は続ける。
「俺の光だったよ」
ああ、駄目だ。
涙が溢れ出す。
「どうして泣くの」
彼が目をむいて、私に問う。
何処までも鈍感なんだから。
「だって…あなたの光になんて一生なれないと思ってた…」
そうだ。
一生、彼の光は奥様だと思っていた。
終わることの無い彼と彼女の関係
永遠の運命を手助けする脇役が
私の運命なのだと思っていたのだから。
涙くらい止まらなくて当然だ。
彼は、向かいあわせの
椅子を立ち上がると
私の隣へと移動して
おずおずと髪の毛をすく。
はじめて
彼に触れてもらった。
彼の腕の重たさが
心地よかった。
「妻と別れられるまで何ヶ月かかるか分からないけれど」
彼の声が間近に聴こえるのは
耳が彼にくっついているから。
至近距離に心臓がうるさい。
「俺は正式に妻と別れたら君に想いを伝えようと思う」
誠実な彼らしい言葉に
涙と共に微笑みが零れた。
「あー…」
「ん…?」
「プレッシャーに思わないでくれ。待たなくていい、誰か好きな人が出来たら迷わずそっちに…」
なんて、可愛い人。
「ううん…、待ってる」
「…本当に?俺はこんなおじさんだよ」
「…あなたを待ちたいの」
私は目を細めて
今更歳の差を気にする彼に
そう告げた。
私達の未来は
どうやら動き出したみたい。
ここからだね
きっとここから
私達の物語は紡がれていく。
あなたの新しい未来は
私が幸せで彩りたい。
…おしまい…