青春物語『運命を変える未来』
第1期
1話.記憶
私の名前は、未永 翠月(みながき みづき)。
現在、高校2年生の女子。
そして、幼馴染であり、イツメングループが3人いる。
同じ女子の、白露 星乃(しらつゆ ほしの)。
あとは、違本 空輝(ちがもと そらき)。
篝火 夜白(かがりび やしろ)。
の、男子だ。
以上イツメン4人で楽しく、高校生活を送っている。
翠月
「実は、私、1年前に川で溺れたことがあるんだ。」
翠月が、ぽつりと話し始めたのは、みんなで放課後の屋上に集まった時だった。
空輝
「えっ、翠月が?あの時、俺たち全員あそこにいたのに?」
夜白
「確かに。俺もあの場にいた。でも、助けたのが誰かは覚えていないんだよな。」
星乃
「私も…。その日、みんなで遊んでたのに、翠月が突然川に落ちて…誰かが引き上げたけど、誰だか分からなくて。」
翠月
「そうなの。助けてくれた人の顔も声も、ぜんぜん思い出せない。でも、確かに誰かが私を引き上げてくれたんだ。」
空輝
「俺は…あの時、手を伸ばした気がする。でも、その先の記憶が曖昧なんだよな。」
夜白
「俺は水の中に飛び込もうとしたけど、間に合わなかった気がする。」
星乃
「それで、みんなそれぞれ違う記憶を持ってるってこと?」
翠月
「そうみたい。怖くて、あの日のことはずっと封印してた。でも、みんなが覚えてるなら話さなきゃって思ったんだ。」
空輝
「それにしても、なんで記憶がバラバラなんだろう?」
夜白
「溺れたショックで、脳が混乱したのかもしれない。でも、助けたのが誰か知りたいよな。」
星乃
「もしかして…助けた人は私たちの中にはいなかったのかも?」
翠月
「そう考えると、ますます謎が深まる。」
空輝
「なら、もう一度あの川に行ってみようよ。何かヒントが見つかるかもしれない。」
夜白
「賛成だ。現場に行けば、忘れてた記憶が戻るかもな。」
星乃
「じゃあ、明日放課後に集合ね。翠月、無理しないでね。」
翠月
「ありがとう、みんな。私、ちゃんと向き合いたい。」
そうして、4人の謎解きが始まった。
誰が助けたのか。
失われた記憶の謎に向き合うために。
翌日の放課後、4人は川辺に集まっていた。
夜白
「ここがあの川か。あの日は夕方だったよな。」
翠月
「うん…。なんだか緊張する。」
空輝
「みんなで一緒にいるから大丈夫だよ。」
星乃
「そうだね。じゃあ、周りをよく見てみよう。」
星乃が川の岸辺を指差す。
そこには、何かが引っかかったかのように、水草が乱れていた。
空輝
「ここ、もしかして翠月が溺れた場所?」
翠月
「そうかも…。」
夜白
「それにしても、助けた人の足跡とか何か残ってないかな。」
星乃
「足跡は消えちゃってるかも。でも、ここに何か落ちてるよ。」
星乃が水辺に落ちていた、小さな布切れを拾い上げる。
翠月
「それ、私のリボンかも…。川に落とした覚えがある。」
空輝
「もしこれが本当に翠月のものなら、何か手がかりになるかもな。」
夜白
「でも、誰が助けたか…どうやって見つければいいんだ?」
星乃
「みんなの記憶をもっと詳しく話してみようよ。思い出せることがあるかもしれない。」
翠月
「うん、あの日のことをもう一度思い出してみる。」
空輝
「俺は…翠月が急に流れに巻かれて、怖くて手を伸ばしたけど、届かなかった。だけど、何かが引っ張る感触はあった気がする。」
夜白
「俺は飛び込もうとした瞬間、誰かが先に飛び込んでた気がするんだ。」
星乃
「私は、あの時、川の向こう岸にいた気がする。何か叫んでたような。」
翠月
「みんな、違う場所にいたのかもね。助けてくれたのは…」
突然、翠月の声が震えた。
翠月
「もしかして…助けたのは私じゃない、私たちじゃない、誰か第三者だったのかもしれない。」
空輝
「第三者?そんな人がいたのか?」
夜白
「もしそうなら、今まで全然気づかなかった。」
星乃
「もしかしたら、その人は今もどこかにいるかもしれない。探すべきなのかも。」
4人は静かに川の流れを見つめながら、1年前の真実へと少しずつ、近づいていくのだった。
数日後、4人は再び集まっていた。
今度は夜の川辺。
空には星がちらつき、風が冷たかった。
翠月
「ねえ、やっぱり…誰かが助けてくれたって、思い出せない。」
空輝
「俺も。記憶が霧の中みたいなんだ。なのに、感覚だけはある。不思議な感触が残ってる。」
夜白
「俺はずっと考えてた。あの時、川の中にあ"もう一つの手"があったような気がするんだ。」
星乃
「私も、それ…思い出した。私が叫んだ時、川の中に誰かいた。でも、その姿が見えなかった。」
翠月は川の流れをじっと見つめた。
翠月
「ねえ、これっておかしくない?私、助けられたのに、誰の顔も浮かばない。みんなも見てるはずなのに、誰も"その人"を覚えてない。」
空輝
「まるで…最初から存在してなかったみたいに?」
夜白
「記憶から消されてる?そんなことあるかよ…」
星乃
「でも、記憶にぽっかり穴が空いてる。それは事実。」
翠月は、ポケットから、小さなメモ帳を取り出した。
そこには、びしょ濡れになった、ページが一枚だけ。
そこに鉛筆で書かれた文字が、かすれて残っていた。
翠月
「これ、鞄の奥から出てきたの。日付は、ちょうど1年前。」
空輝
「なんて書いてあるんだ?」
翠月
「"助けたのは――"ここで切れてるの。でも、裏にこんなことが書いてあった。」
彼女はページを裏返した。
そこには震えるような筆跡で、こう書かれていた。
「この記憶は、私だけのものじゃない」
夜白
「…つまり、記憶を共有してるってことか?俺たち4人で?」
星乃
「それとも、誰か"もう一人"が、この記憶を持ってるってこと?」
空輝
「でもそいつが誰なのか分からない以上、どうしようも――」
その時、風が吹いて、どこからか、一枚の古びた写真が、飛ばされてきた。
星乃がそれを拾う。
星乃
「これ…私たち、4人の後ろに…もう一人写ってる。」
夜白
「誰だ、こいつ…?見覚えが…ない。」
翠月
「でも、笑ってる。私のすぐ隣で、笑ってる…」
4人は言葉を失った。
その"知らない誰か"の存在が、この謎の核心にいると全員が直感していた。
そして、写真の裏には、こう書かれていた。
「翠月を、頼んだよ」
謎はさらに深まり、夜の川辺には、ひんやりとした沈黙が流れていた。
次の日、4人は放課後の教室に集まった。
窓の外では曇り空が広がっていた。
写真に写っていた"知らない誰か"の正体を、突き止めようとしていた。
翠月
「この人…誰なんだろう。私の隣で、笑ってる。でも、全然思い出せないの。」
空輝
「俺も見覚えがない。クラスメイトじゃないよな?名簿にもいなかった。」
夜白
「写真自体、いつ撮ったのかもわからない。てか、こんな写真、俺は見たことなかったぞ。」
星乃
「ねえ、この"頼んだよ"って書いた人、もうここにはいないんじゃない…?」
その言葉に、空気が少し重くなる。
翠月
「でも、私が溺れた時、その人がいた気がするの。腕の感触が…優しかった。」
空輝
「そいつだけが、俺たちの記憶から消えてるのかもしれない。何かの理由で。」
夜白
「それってつまり、意図的に、誰かが記憶を消したってこと?」
星乃
「翠月の命を救って、自分の存在を消す理由って何…?」
翠月が机に置いた写真を、ぼんやりと見つめる。
翠月
「私、もしかしたら――その人のことが好きだったのかも。」
空輝
「……っ!」
空輝がわずかに息を呑むのを、夜白と星乃は感じ取った。
夜白
「それって…翠月の中では、大切な人だったってことか。」
星乃
「でも、なんで忘れてるの?もしそんなに大事なら…」
翠月
「たぶん、忘れたんじゃなくて、忘れさせられたんだと思う。私が、これ以上追いかけないように。」
空輝
「それでも、今こうして思い出しかけてるんだ。忘れろって言われても無理な話だよ。」
夜白が静かに口を開く。
夜白
「俺さ、さっき気づいたんだ。この写真の背景、川じゃない。あの近くの廃駅だよ。」
星乃
「……ほんとだ。手すりと時計がある。」
翠月
「その駅、もう使われてないんだよね。」
空輝
「行ってみよう。そこに、何か残ってるかもしれない。」
翠月
「うん。私、はっきり思い出したい。誰が、私を――そして、私の心を救ってくれたのか。」
4人は決意を胸に、校舎をあとにした。
夕暮れの中、忘れられた駅に向かう。
その先に、記憶の扉が待っていると信じて。
使われなくなった廃駅は、夕焼けの中に沈んでいた。
線路は草に覆われ、ホームには、薄く埃が積もっていた。
翠月
「ここ…やっぱり、来たことある気がする。」
空輝
「このベンチ、覚えてる。俺たち、ここでふざけて写真撮ったんじゃなかったか?」
夜白
「その時に、あの"もう一人"もいたのかもしれないな。」
星乃
「それなのに…私たち、みんな忘れてる。」
4人は無言で駅の奥へと進んでいった。
小さな待合室の扉を開けた瞬間、夜白が待合室の壁を見つめて声を上げた。
夜白
「これ…写真が貼られてた跡だ。色が違う。」
星乃
「誰かが持ち去ったのかも…その"誰か"が。」
翠月
「じゃあ、まだこのどこかで…その人は私たちを見てるかもしれない。」
空輝
「もしかしたら、また会えるかもな。思い出せれば、きっと。」
翠月
「……私は、思い出したい。もう一度、ちゃんとその人に"ありがとう"って言いたい。」
空輝は静かにうなずいた。
星乃も夜白も、それぞれに、何かを胸に秘めたような表情で、夕焼けに染まる駅を見つめた。
その時、誰もが気づかぬまま、ホームの隅に一つの黒い影が、現れては、静かに消えていた。
その影こそが――未永の知らない記憶の、中心にいた"あの人"だったのかもしれない。
翌日、翠月はひとりで廃駅を訪れた。
ホームに腰掛けると、耳にかすかな風の音が届いた。
どこか懐かしい匂いもした。
そのとき、後ろから足音がした。
空輝
「ひとりで来るなよ。心配した。」
翠月
「ごめん。でも…ここに来ないと、思い出せない気がして。」
空輝は隣に座ると、手にしていた何かを差し出した。
空輝
「これ…駅の近くで見つけた。」
それは古びた学生証だった。
色褪せていたが、名前がかろうじて読めた。
「海凪 海惺(うみなぎ かいせい)」
翠月
「……この名前、聞いたことある。けど、どこで…?」
空輝
「記憶にはない。でも、俺たちのクラス名簿にその名前、去年まで載ってたんだ。」
翠月
「えっ…!? じゃあ、やっぱり同級生だった…?」
空輝
「しかも、転校の記録も、転入の記録も残ってない。まるで、最初から"存在してなかった"みたいに。」
その瞬間、翠月の脳裏に一瞬、川に差し伸べられた手と、その向こうの笑顔がよぎった。
翠月
「…私、覚えてる。その人、私に言った。"もし全部忘れても、笑ってくれたらそれでいい"って…。」
空輝
「翠月…それって、もしかして…」
翠月
「うん。助けてくれたのは、海惺くんだった。」
涙が零れた。
だが、それは悲しみではなかった。
そこへ、星乃と夜白が駆けてきた。
星乃
「翠月!空輝!聞いて、図書室で卒業アルバム探したの!」
夜白
「1年生のときのアルバムに、海凪 海惺って名前、載ってた。写真もあった。」
翠月
「本当に…いたんだ、私たちの中に。でも、なぜ――」
その問いの答えはまだ出ない。
けれど確かに、4人の中に消えていた、誰かの記憶が、今また静かに、息を吹き返していた。
翠月
「ありがとう、海惺くん。やっと…見つけられたよ。」
風が吹いた。
ホームに咲いた一輪の野花が揺れ、陽の光が優しく差し込んでいた。
数日後、翠月は自宅の机に広げた、アルバムと古びた学生証を見つめていた。
翠月
「海凪 海惺…やっぱり、間違いなく私たちの同級生だったんだ。」
だが、どの記録にも、"彼がどうして消えたのか"は、書かれていなかった。
まるで、誰かが意図的に、彼の存在を薄れさせたように。
その夜。
4人はふたたび駅に集まっていた。
もう、あの場所は彼らにとって、特別な場所になっていた。
翠月
「私、思い出したの。あの日、私…"死にたい"って思ってた。」
空輝
「え…」
星乃
「翠月…」
夜白
「……。」
翠月
「でも、海惺くんが言ってくれたの。"君の涙は、消えちゃダメなものだから"って。」
空輝
「翠月…今まで、誰にも言ってなかったのか?」
翠月
「うん。ずっと、忘れてた。いや…忘れたかったのかも。でも、海惺くんだけが、そのことに気づいてくれてた。」
星乃が、ポケットから、折れた短い鉛筆を取り出す。
星乃
「これ、駅の隅で見つけたの。海惺って、鉛筆で絵を描くのが好きだったって、アルバムのメモに書いてあった。」
翠月
「やっぱり…この駅で、彼は何かを描いてたのかも。」
4人は無言で待合室の壁に目を向ける。
そこに、今まで気づかなかった、うっすらとした線があった。
空輝
「これ…壁画…?」
よく見れば、それは時間とともに薄れた、4人ともうひとりの少年のスケッチだった。
海惺が描いた、小さな記憶の残像。
翠月
「……私、ちゃんと前を向く。海惺くんが守ってくれた命、大事にしたい。」
星乃
「じゃあ、私たちも守ろう。海惺くんが繋いでくれた、この関係を。」
夜白
「あいつの存在を、誰にも消させない。俺たちが覚えてる。」
空輝
「海凪 海惺って名前、俺たちの中で、これからも生き続けるよ。」
その言葉に、翠月は初めて、あの川での出来事を、"悲しい記憶"ではなく、"出発点"として受け止めることができた。
空には星が瞬き、誰にも気づかれないように、風の中に小さな声が混じった気がした。
――「ありがとう。」
確かに、それは海惺の声だった。
数日後、翠月は美術室にいた。
誰もいない放課後の静けさの中で、彼女はそっと鉛筆を握り、真っ白なキャンバスに向かっていた。
翠月
「海惺くんが、あの日描こうとしてたのは…もしかしたら、私たちだったのかもしれない。」
彼女の描く線は、少しずつ形を成していく。
4人と、それからもうひとり。
今はもうどこにもいないはずの、海凪 海惺の笑顔を、翠月は少しずつ思い出しながら描いていた。
そこへ、扉が静かに開いた。
空輝
「ここにいたのか。」
翠月
「空輝くん…ごめん、黙って来ちゃって。」
空輝
「いいよ。……その絵、俺たち?」
翠月
「うん。そして、海惺くんも。」
空輝は少し目を伏せた。
空輝
「正直、悔しかったよ。翠月を助けたのが、俺じゃなかったこと。……でも、それ以上に、ありがとうって思ってる。」
翠月
「うん。私も。あの時、海惺くんがいてくれなかったら、今ここにいなかった。」
空輝
「だから…ちゃんと伝えようぜ。俺たち、あいつのこと忘れないって。」
そこへ、夜白と星乃が現れた。
2人とも、美術室に入ると絵を見て、静かに立ち尽くした。
星乃
「……これ、海惺の笑顔だね。」
夜白
「覚えてたんだ、翠月。」
翠月
「少しずつだけど、ちゃんと思い出してる。海惺くんがくれた言葉も、笑顔も。」
星乃
「じゃあ、卒業アルバムにこの絵、載せようよ。存在が消されてたなら、私たちで取り戻そう。」
夜白
「"本当にいたんだ"って証を残すんだな。」
空輝
「それが、あいつへの…いや、"俺たち"からのメッセージだな。」
翠月
「うん…きっと海惺くん、今もどこかで笑ってる。」
4人の間に静かな決意が灯る。
その絵には、確かにそこに"いた"、少年の温度が宿っていた。
その日、窓の外には、小さな風が吹いていた。
ふわりと舞ったページの端に、こう書かれていた。
「ぼくらはきっと、忘れない。」
誰の手によるものかは分からない。
でもそれは、間違いなく"彼"の想いだった。
卒業アルバムの締切が迫るなか、翠月たちは放課後の美術室で、絵の完成を目指していた。
翠月
「……あと、少し。海惺くんの目が、どうしても思い出せなくて。」
星乃
「笑ってたと思うよ。あの絵の中の海惺、ちゃんと笑っててほしい。」
夜白
「思い出じゃなくていい。今の翠月が描きたい"海惺"なら、それが正解だろ。」
空輝
「なあ……誰か、来てる?」
ふと、空輝が窓の外を見た。
夕焼けに染まった校庭の向こうに、ひとつの人影が見えた。
ゆっくり、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
制服のシルエット。
姿勢。
どこか見覚えのある歩き方。
そして、ドアがノックされた。
コン、コン――。
翠月
「……だれ?」
ぎぃ、と扉が開く。
光の逆光で最初は見えなかったその顔が、やがてはっきりと現れた。
海惺
「……久しぶり。」
翠月
「……うそ……海惺くん……?」
星乃
「……どうして……あなた、いなくなったはずじゃ……」
夜白
「俺たち、ずっとお前は――」
海惺
「"死んだ"って、思わせたかったんだ。本当は、ずっと近くにいた。でも、君たちにとって"いなかったほうがいい"と思ってたから。」
翠月
「そんなわけない……どうして、そんなことを……!」
海惺
「翠月……あの日、川で…、君が僕を見て泣いたのを見て、僕は…自分のせいで、君の記憶に"痛み"が残るなら、消えた方がいいと思った。」
空輝
「馬鹿か、お前は……!なんで勝手に決めたんだよ。」
海惺
「……ごめん。でも、ずっと見てたんだ。君たちが前に進んでいくのを。あの駅で泣いてる翠月も、美術室で絵を描く姿も。」
翠月
「じゃあ…じゃあ、ずっと、近くにいたの?」
海惺
「うん。……でも、もう限界だった。君たちが僕を"本当に"忘れそうになってたから。」
星乃
「違う、忘れないよ。私たちは、ずっと思い出そうとしてた。」
夜白
「記憶じゃなくて、"想い"として残ってた。だから、今こうして会えたんだろ。」
翠月は涙をこらえながら、静かに言った。
翠月
「海惺くん、帰ってきて。私たちの時間に。」
海惺は、しばらく黙ってから、ふっと笑った。
海惺
「……ただいま。」
夕陽の中、5人の時間が、静かに再び動き始めた。
かつて失われた記憶が、今、未来の光に変わっていく。
美術室での再会から、数日が過ぎた。
季節は冬の気配を含み、木々が風に鳴っていた。
昼休み。
旧校舎裏で、海惺と翠月は、ふたりきりで話していた。
誰にも聞かれないように。
海惺
「……翠月、君に話しておかなきゃいけないことがある。」
翠月
「……なに?」
海惺
「川で助けたのは、僕じゃない。」
翠月
「……え?」
海惺
「あの日、川のほとりには確かに僕もいた。でも、水に飛び込んだのは別の誰かだった。」
翠月の目が揺れる。
翠月
「でも、私、あの日の声を覚えてる。"君の涙は消えちゃダメなものだから"って……」
海惺
「それは、あとで君の耳元で僕が言った言葉だ。君を岸に引き上げたあと、すぐにそばにいたのは……違う人間だった。」
翠月は、その場で言葉を失った。
海惺
「でも、誰だったかは言えない。それが僕の約束なんだ。」
翠月
「……知ってるんだよね? 誰か。」
海惺
「ああ。でもね、それを君が思い出す日が来るまで、僕は口を閉じると決めた。」
その沈黙のなかで、翠月は、ふとポケットから一枚の写真を取り出した。
古びた、4人が並んで写っているもの。
翠月
「海惺くん。私、川で溺れる前に……彼氏がいたんだ。」
海惺
「……。」
翠月
「でも、その人が誰だったか、私はもう思い出せない。名前も、声も、なにも。」
海惺
「……その記憶は、たぶん君自身が鍵をかけたんだろうね。」
翠月
「ただ、その人の手だけは覚えてる。あたたかくて、強くて、泣きたくなるような手。」
風が吹いた。落ち葉がふたりの間を横切る。
海惺
「翠月。僕、来週引っ越すんだ。父の転勤で。」
翠月
「え……」
海惺
「何も言わずに行こうと思ってた。でも、君には伝えておきたかった。……"助けたのは僕じゃない"ってことだけは。」
翠月は何も言えなかった。
ただ、彼の背中が少しずつ、遠ざかっていくのを、風の音とともに見送った。
その日以降、海惺の席は空っぽになった。
誰も知らない名前を、誰も知らない記憶がそっと包むように。
残された絵の中で、5人目の少年だけが、穏やかな微笑みを浮かべていた。
風が吹いた。
静かに、何かを連れて。
そして、何かを連れて去っていった。
――記憶の正体は、まだ霧の中。
海惺が町を去ってから、一週間が経った。
ある日の放課後、翠月は旧校舎の階段に、夜白、星乃、そして空輝を呼び出した。
夕日が三人の影を長く引き伸ばしていた。
翠月
「今日は……みんなに話したいことがあるの。」
空輝
「海惺のこと?」
翠月
「うん。あの日、私が川で助けられたのは……海惺くんじゃなかった。」
星乃
「……え?」
夜白
「どういう意味だ?」
翠月
「海惺くんは、助けた人の正体を知ってた。でも、その人の意志を尊重して、言わなかった。だから、私からも言えない……でも、確かにそこに、"私を助けてくれた誰か"がいた。」
一瞬の沈黙。
空輝
「それだけじゃないんだろ?」
翠月
「……うん。川で溺れる少し前に……私、彼氏がいたの。」
風が吹いた。
木の葉がカラカラと音を立てて舞う。
翠月
「誰だったかは、まだ思い出せない。でも確かに、私はその人のことが大好きだった。その記憶だけが、どうしても霧の中にあるの。」
星乃
「翠月……それ、どうして今話そうと思ったの?」
翠月
「黙っている方が、みんなを裏切ってる気がした。真実を知ってしまったのに、自分だけで抱えたくなかった。」
夜白
「……お前らしいな。」
翠月
「ありがと、夜白。」
その時、空輝は一歩だけ前に出たが、なにかを言いかけて、飲み込んだ。
空輝
「……記憶ってのは、不思議なもんだな。消えたようで、ちゃんと心に残ってる。」
翠月
「うん。だから、私はちゃんと向き合いたい。自分の記憶と、大切だった誰かと。」
彼女の瞳には、迷いがなかった。
翠月
「もう逃げない。私……その"彼氏"のこと、探してみる。」
その一言に、三人の表情が揺れる。
それぞれの胸に、思い当たるものがあるのかもしれない。
空気がわずかにざわついた――まるで、名前を呼ばれそうで、呼ばれなかった人の心のように。
翠月
「だから、もし――何か知ってることがあったら、教えてほしいの。……どんな小さなことでもいいから。」
その場には、もう沈黙しかなかった。
そして、物語は静かに幕を下ろす。
だが、それは終わりではなかった。
翠月が探そうとする"彼氏"――彼に関する、さまざまな噂が、校内に広がり始める。
机の落書き、消されたメッセージ。
あの日、川の向こうにいたのは、誰だったのか?真実が、少しずつ音を立てて、浮かび上がっていく。
次回 : 2話.噂り
つづく