🐻ルルロロちゃん🐻・2017-12-24
部屋移動
快適
赤ちゃん
大部屋から個室へ
やっぱり快適。
テレビイヤホン要らないし!
トイレ部屋ついてる!
洗面所も!
血栓防止の注射うちました。
点滴も再開。
16時には終了させる。
今日は年近い看護師さん、
色々話しながら注射、点滴、検温、血圧測定
旦那にもLINE用事やら部屋の場所教えた。
赤ちゃんは酸素の手助け無しになった!
だけどまだ保育器。
会いには行けるから旦那来たら一緒に行こうかな😆🎵
シャワー、岩盤浴
岩盤浴かなりリラックス出来た。
よく寝れそう笑
今日からおやつの時間始まります。
食べてる時間無かったから夕食に一緒に届けてもらいます。
イチゴのケーキみたいな。
赤ちゃんのお世話、シャワー帰ってからすぐ。
ほぼ寝てる笑
全然起きない!
母乳意外と出てる感じ。
完母行けるかなー
行けるならいきたいけど…
上の子は混合なのよ。
だから今回もって腹くくっていた。
どんくらい出てるのか知りたいね!
助産師さんとか結構出るね!って
凄い凄いって褒めていた。
ミルク代浮かしたい笑
赤ちゃんお部屋連れて来れました!
夜まで過ごします。
まぁ寝てるから一緒にいるだけですが笑
夕食後にまた新生児室連れていき授乳とかお世話するよ。
一応ミルク今、30飲ませてる。
今でもはっきり覚えてる。
すごく辛くて泣いたけど幸せな夜を。
中学生の時とてつもなく学校に行きたくない日があった。
2月から3月にかけての時期。
行きたくない理由は体育の授業。
ダンスの授業が続いていた時期だった。
小学校の時は振り入れも普通にできていたし
フォーメーションも覚えられた。
体力がなくてテンポは少々遅れていたけど
多めに見れば踊れていた方だった。
それでもバカにはされたけどまだマシだった。
中学に入って明らかに違かったのは
私の体力と病気の重症度だった。
すぐに疲れて息切れなんて比じゃないし
体育もハードになるからついていけなくなって
私からしたら本当地獄だった。
それでも私はいつも『中途半端』だったから
休むっていう道は選べなかった。
というか選びたくなかった。
心配されるのも嫌だし、医者に言うのもめんどい。
それに1番は体育の先生にいちいち言うのがめんどくさい。
ずっと体力がないことを隠して受けてきた。
ダンスの時にやっとわかった。
みんなのためにも私は体育を休むべきだと。
ダンスはついていけなかった。
振り入れとフォーメーションはボロボロで
そこからダメだから全部ダメで・・・
時間が経つにつれ最初踊れなかった子も
踊れるようになっていった。
私だけが踊れなくていつまでも迷惑をかけていた。
冷たい目で見てるってわかってた。
『病人のくせに踊れないんだったら出るなよ』
そういう感じの目だった。
思っていることは違うのかもしれないけど
病人だから煙たがられていたのは事実。
これまでにも沢山普通じゃない私は
傷つくことを言われてきた。
でも今回はこれまでで1番怖かった。
言葉がない分怖かった。
体育なんて出たくなかった。
こんな地獄を味わうくらいなら休んでいた方が
何百倍も何千倍もマシだった。
何回心の中で謝っただろう。
自殺とか考えたの何回あっただろう。
たかが体育の授業でかけがえのない命を
どれほど危険に晒しただろう。
それくらい追い込まれていた。
学校は休みたくなかった。
くだらないことで相談をするのがめんどくさくて
それに地獄を思い出してまで話すことはなかったから。
どうせ心配されるんだから命削って行った方が
まだ心配されなくていいかなって思って。
本当に辛かったけど、休みたかったけど
無理してでも何してでも行こうと思って。
そしたら壊れたんだ、翌日に体育がある日の夜中に。
どうしても行きたくなくて寝られなくて
そんな自分に死ぬほどイライラして
頭の血管キレそうだった。
色んな感情が右往左往していて
どうすればいいのかも分からなくて
パニックで倒れそうだった。
静かに静かに苦しんでいた。
その時私は咄嗟に大切な先生を想った。
心の中の先生に何があって今どういう気持ちで
どうしたいのかを全て言葉なしで話した。
全て話しきって疲れた私の頭の中に響いたのは
『大丈夫!!』という元気な先生の声だった。
今までの感情が泡のように消えていった。
なんの感情もなくてただただ泣いていた。
泣きながら寝て起きた次の日は地獄じゃなかった。
本当に快適だった。
先生には本当に助けて貰っていることが多くて
伝えきれないくらいに感謝してる。
ありがとうございます、先生。
人が求める自由と快適は
地球や動物の死を意味するように
感じる日々…はいつ終わるのかな……
太陽の光を浴びながらお昼寝
とっても気持ち良かった
ただ日焼けが心配