深波.・2022-07-19
小説
【毒にも薬にも綿菓子にも】
1.
勝手に自分を縛り付け勝手に惨めな思いをしている私はきっと、なぶられるのが好きなのだ。
もっとラフに生きたい。肩肘張って生きている自覚はあるが、生憎肩も肘もさして骨ばってはいない。
手を洗いそのまま部屋に直行してレジ袋から取り出したハニーラテを飲んだ瞬間、私は帰りに引きずっていた行き場のない自我の吐瀉物を浄化することに成功した。
ハニーラテは幸せを呼ぶ。
しあわせをよぶハニーラテ、とか謳い文句をつけて売れば私のような何も考えずに生きている誰かが、ぼけっとしながらレジまで運ぶだろう。
ハニーラテの売り上げ。
クーラーの電源を入れて目を閉じると、やけに凝ったカラーシャツに身を包み颯爽とキャンパス内を練り歩く千葉君の姿が浮かび上がる。
剃刀みたいに鋭い顔つきをしているくせにどこか言葉に覇気がなく、意外と妥協しまくりで且つ誰にも優しく接する千葉君の良さを知っているのは私だけだ、と少なくとも学科の女子のうち四割くらいは思っているに違いない。
もちろん私もそのうちの一人で、けれど私は千葉君とは一度たりとも話したことはない。
千葉君とよく二人で下校している女の子、ミルクティーみたいな色の髪を後ろでラフに縛り、カメラレンズのようにくるくるとした黒目がちな瞳を持つあの子の名前を、私は知らない。
ので、私は勝手に彼女のことをミルクティーと呼んでいる。
しあわせをよぶハニーラテは美味しい。
ミルクティーに対抗すべく、私はハニーラテで幸せをゲットしようとしたのだろうか。
まずはハニーラテ色に髪を染めて、つぎにそれを後ろでゆるく縛ることから始めよう。
そもそもハニーラテ色の髪ってなんだろう。ストローは芯までも甘い。
『毒にも薬にも綿菓子にも』
2.
黒いリュックを背負ったショートヘアの影がこちらに近づく。
おはよう、と声を出すタイミングを見計らいつつも、気がつかないふりでプリントや教科書を取り出す。
「はよ」
「おはよう」
ごく自然な流れで顔をあげ挨拶する。
結衣は隣の空席にリュックを置くと、パキパキと音を鳴らしてペットボトルのジュースを開封した。
相変わらずアイメイクが濃い。
引き伸ばされたアイライン、オレンジ色のアイシャドウで色付けされた上まぶた。
涙袋がほとんどノーメイクに近いせいもあってか、より一層目力が強く見える。
結衣は空気を読まない。
沈黙に耐えかねて変なことを口走ったりもしない。
登校してから講義が始まるまでのこの絶妙な時間、自分が話したいことがないときは、いつもスマホをいじっている。
私も結衣に倣って本を開く。
結衣が好きなことをしているのならば私も本を読んでやろうという魂胆だ。
「そういやシバヤマさ」
「なに?」
「テストの時間割見た?」
「うん見たよ。英語が最終日だった、最悪じゃない?」
「まじか、やっぱりもう出てるのか。あとで確認してみよ」
そしてまた結衣はスマホに向き直る。
私は結衣の前では柴山で、だが実は未だに苗字で呼ばれることに慣れていない。
ドスっという鈍い音がしたかと思うと、結衣が座っていないほうの隣の席に、トートバッグを抱えたまま思い切り座り込む沙也加の姿があった。
「あれ、おはよう。今日は来たんだ」
沙也加は眠い目を擦りながらペンケースを取り出す。
「さすがにやばいから来た」
いつだって等身大で生きる沙也加は爽やかで美しい。眠いときは顔の力を抜き、講義がつまらないときは突っ伏し、好きな人がいるときは顔を綻ばせる。
その素直で飾らない性格を、私も見習いたい。
私は他人に見られることを過度に気にかけ、常に見栄を張り、角が立たないよう発言には細心の注意を払っている。
自分という膜の内側に外的物質が侵入するのを極度に恐れているのだ。
だが一方で、私の警戒心には目もくれずに、土足で壁の内部にずかずかと踏み入る迷惑者の存在を切に願っている自分もいる。
このジレンマに耐えられなくなる日も、そう遠くはないかもしれない。
「ねえ充希、あたし今日部活行くべきかなあ」
結衣以外の人にとって私は充希であり、それは高校時代から続く呼称のため全く違和感がない。
「あ、先輩のこと?」
バスケ部に所属している沙也加は、三年生の先輩に目をつけられている。
二人がよく一緒に下校していることを、これまたバスケ部のひとみに聞いた。
「ひとみが行くなら一緒に参加すれば? どうせ一人で行っても帰り、先輩の誘い断れないでしょう沙也加」
そうなんだよね、と困り顔で呟きながらも、沙也加はもう既に部活を休むことに決めたのだろう。
先ほどよりも沙也加を取り巻く空気の輪郭が鮮明になったのを感じる。
誰かの一押しが欲しかっただけなのだ、きっと。
沙也加が好意を寄せている相手は、同じ学科の千葉秀樹。
本人の口から直接聞いたわけではないので確証はないが、私の勘では、二人は同じ講義を受けていたことが発覚して以降、急速に距離が縮まっている。
沙也加は、先輩などにかまけている暇はないのだ。もちろん恋は暇だからこそ発生するものでもあるけれど。
『毒にも薬にも綿菓子にも』
3.
口調も考え方もどこか男っぽく、つけているアクセサリーもメタリックでゴツゴツしたものが多い結衣は、恋愛に興味がないという素振りを常日頃から見せている。
素振りを見せているというより、見せつけていると言ったほうが正しいかもしれない。
恋愛に人生を左右されないことこそが崇高だと思う人はきっと、私たちの世代には一定数いるのだと思う。
一人で満足できる趣味が一般的になり、多様化し、私たちは趣味を媒介しながら、孤独に孤独と向き合うことが上手くなったから。
私たちは生まれてから死ぬまでずっと孤独で、それはごく当たり前のことのはずなのに、友人や恋人ができた途端に孤独から脱却できたと思い込んでしまう愚かな生き物だ。
異性に興味がないんじゃなく、異性に興味を持たれずに生きてきたのだと思う、結衣は。
でも結衣はプライドが高いからそれをありのまま肯定することが許せなくて、無意識のうちに恋愛に関する物事を否定するようになった。
あくまで興味を持たれなかったのではなく、そもそも私が異性に興味を持っていないだけなのですよ、と。
こんなに周りの人間を考察している私って気持ち悪いかな、そんなことわかっているけれど止められない。
私は千葉君が好きだけど、別に沙也加とライバルになる予定はない。
だって沙也加は千葉君と付き合うことを望んでいるかもしれないけれど、私はそうじゃないから。
あくまで千葉君を好きでいる、というポーズをとっていたいだけ。
だってあの瞳を、私は知っているもん。
千葉君の良さ、良さというと陳腐だけれど、光るもの、秘めているもの、みたいなものを、わりと早い段階で透視できた。
それは私と千葉君が同じタイプの人間だから。
話したことはない。千葉君が私を認識しているかどうかも怪しい。
けれど少なくとも、私は千葉君のことを解っている。
『毒にも薬にも綿菓子にも』
7.
結衣といると、昔の自分を見ているようで胸騒ぎがする。
マイナーなゆるキャラモチーフのペンケースを使っていることも、耳たぶだけでなく軟骨にまでも派手なメタリックピアスをつけていることも。
高校生の頃、駅のホームで電車を待つ間、風に吹かれてピアスがほんのり揺れているような揺れていないような、そんな感覚に陥るのが好きだった。
私のピアスを口ではカッコいいねと褒めつつも、自分は絶対に可愛らしい小ぶりのイヤリングしかつけなかったのっち。
のっちは、成績が振るわないと言いつつも、しれっと難関お嬢様大学に合格し、そのことを私に告げてきた。
私は、のっちになりたかったのかもしれない。
取り立てて派手なわけでもモテるわけでもないけれど、どこか涼やかで、品のある仕草が印象的だったのっち。
のっちは高校時代、ずっと同じ人と付き合い続けていて、それは大学生になった今も継続中らしい。
のっちの本名は紀子。
名前すらも気品が漂う。
私なんて充希だ。
充分な希望などあるわけがないのに。
結衣は一人称が統一されておらず、私とか俺とか僕とか、いろんな風に自分を呼ぶ。
これまで自分のことを俺や僕と呼ぶ子と仲良くした経験がなかったので、初めはかなり困惑したが、一緒にいる沙也加が気にも留めずに結衣と会話を弾ませているのを見て、あまり気にすることではないのかもしれない、と最近では思い始めている。
ジェンダーは選べるもの。
そのことを文化人類学の講義で知り、衝撃を受けた。
性別に関する文化にひどく疎い私は、そういうものはてっきりトランスジェンダーの人たちだけの特権だと思っていた。
けれど最近では、ネットで占いや性格診断をしていると、性別の欄を無回答にできるようになってきた。
私は自分が女性だとこれまで信じて疑わなかったため、初めて無回答を選んだときには新しい自分に出会えたような不思議な心地になった。
ジェンダーについてスマホで調べてみると、大量のネット記事がヒットした。
試しにいくつか読んでみたが、ジェンダーの種類があまりに多すぎることや名前がどれもややこしいことにうんざりした。
まるで服を着飾るみたい。
ジャンル分けして、自分をそのうちのどれかに当てはめて安心して理解した気になって、これはファッションか何かなのだろうか。
私がウサギにペンをぶち込んでいるのとそう変わらない残虐さを垣間見た気がして、すぐにタブを閉じた。
『毒にも薬にも綿菓子にも』
6.
ぬいぐるみみたいな形のペンケースが一時期流行って、クラスの女子たちは、こぞってライオンやウサギの身体にシャーペンや蛍光ペンをぶち込んでいた。
私はというと、私なんかが動物のペンケースなど使っていいわけがない、という訳の分からない呪縛にかけられ、結局中学生の頃から使っていたお古のペンケースを卒業するまで使った。
なりたい大学生像が明確にあった。
ゆるく内巻きにしたミルクティー色のミディアムヘア、淡い色のチュールスカートを履いて、クリーム色のスニーカーと合わせる。
もちろんペンケースはウサギ。
大学生になった途端に髪を茶色く染めることを中身がないと揶揄する人たちもいるけれど、私はまさしく中身がなくてごく普通のありふれた子になりたかったのだ。汚いスライムだとバレないように。
大学生になればこっちのもん、みたいな精神でなんとか生き繋いでいたので、残りの高校生活は惰性で過ごした。
卒業式は泣かなかった。
地方に行く友達が一人もいなかったせいもあるかもしれない。
会おうと思えばいつでも会えるこの時代、卒業式に涙なんて流さない。
確か大学で受けた初めての講義は英語で、そのとき二列ほど前に座っていた人が、ぼろぼろのペンケースを使っていた。
それを見た瞬間に自分のウサギがひどく残虐なおもちゃに思え、以来、その人のことを観察するようになった。
あの人は優しい。
だってあんなにボロボロのペンケース、中学の頃から使い倒していなければ、ああはならないから。
私は高校卒業をきっかけにしてこれまでの自分をころしたのに、あの人はいつまでも自分を大切に扱っている。
後に彼が千葉秀樹という名前だと判明し、そしてそのさらに数週間後には、沙也加が千葉君と仲良くなっていることを知った。
なんとなく自分は千葉君に好意を寄せていると思っていたので、嫉妬心が全く湧き上がってこないことに、少しだけ困惑した。
『毒にも薬にも綿菓子にも』