とある孤城にお嬢さまと、バトラーがいました。
『夜の感染症。』
深い夜になった。
人目を盗んで、自室の出窓で夜空を眺めてみる。
囲まれた山々と、遠くに見える街並み。その上に広がる暗い空には、幾つもの星たちが見えた。
目を凝らして見てみれば、点と点が結び付いて、少しずつ図形になっていく気がした。
暗くなってから時間が経っているせいか、それともお天道様の気まぐれか、やけに空気が澄んでいる。
城の書庫で天文学の書物を見つけて、天文学の虜になってから、飽きることなく星空を眺めていた。
幸いにも、ここ数日は晴れの日が続いており、光の弱い星まで見えた。
あれがシリウスで、あれはアルデバラン。その二つに挟まれるようにあるのが、オリオン座大星雲だ。
「薔薇のような色、ね。一度だけでも見てみたいものだわ」
書物に写真は載っていたけれど、モノクロームでちっとも色は分からなかった。
その代わりに、色の説明しか書かれていなかったのだ。気になって仕方ない。
この城は高い山の上に建てられていて、さらに私の部屋は城の最上階にある。
空に手が届きそうなほど近いけれど、その星雲を肉眼ではっきりと捉えることはできない。そのもどかしさが、私の心をさらに擽っていた。
窓際の壁に凭れながら、眠りそうな夜を眺めていると軽い風が吹いてくる。
カーテンや髪がふわりと揺れた。仄かに冷たくて、優しい風がとても心地良い。
まぶたを閉じて、暗闇の中で夜風を味わっていたら、ふいに部屋の扉が開いた。
「お嬢さま、起きておられたのですか。お体に触ります故、お休みになってください」
言って、部屋に入ってきたのはバトラーのクロだった。
クロは私の世話係でもあり、幼い頃からの付き合いだけど、いつまで経ってもクロの敬語は抜けなかった。
いつもと変わらない白黒の制服姿で、私の服らしきものを抱えていた。
「クロ、私が寝ていたらどうするつもりよ。女子一人の部屋に易々と訪れるなんて」
「冗談はおやめ下さい。私はあくまでも執事なのです。そんな風に考えるお嬢さまの方が、可笑しいのではありませんか?」
こうして毒を吐くのも、昔から変わらない。
だけど、今は主人である私に対して、毒を吐くのは如何なものか。
そんな風に思う私を他所に、クロは明日の朝の準備をしていた。
ふと思う。バトラーはあんなに忙しく働いているんだろうか。
休む時間どころか、私の傍らにずっといるような気がする。ちゃんと息抜きをしているのかな。
たぶん、私のことで気を張り詰めているから、そんな時間も無いと思う。
クロが私の執事として仕えているのはもちろん感謝してるけど、逆に彼のことを気遣うのも主としての役目なんじゃないか。
「ねぇ、クロ。あなた、天文学に興味ある?」
話しかけると、クロはこちらを振り返りもせず
「私はありませんが、お嬢さまは天文学にご興味があるようですね。強いて言うならですが、私は大和の地にある『大和言葉』に惹かれます」
と優しい顔をして言った。こんな顔をすることは滅多に無い。
首を傾げた私にクロが続ける。
「大和という名の国はご存知ですね。その地に根づいた美しい言葉を大和言葉と云うのです。この城の書庫で見つけた書物にはそう書いてありましたが。
例えば、夜空の月は太陽の光を反射していることに準えて、大和言葉では『空の鏡』と言います。
自分は大和言葉のそういう部分に惹かれるのです」
クロは頭を捻って、分かりやすい例えを出してくれた。
確かに、大和言葉は美しいなと思う。
その言葉を生み出した大和人は、俗にいう第六感を持っているのかしら。
ふいに興味がプクプクと湧いて、今が寝ているはずの時間であることも気にせず、身を乗り出す。
「では、クロ。大和言葉で星空のことは何と言うの?」
すると、聞かれた本人は眉間にしわを寄せ、険しい表情を見せた。
「申し訳ないのですが、その言葉は存じないです。何せ、その書物には四つほどしか書かれていなかったので」
私の世話係は毒づくタイミングが読めない。
ご自分で考えてはどうですか、なんて言われると思った。
クロとの会話はそこで途切れてしまって、私はまた外の景色を眺めることにした。
いつの間にか、心地良い風は静まり返ったように動いていなかった。
なんとなく視線を彷徨ってから、街を照らす街灯たちに留まる。
並ぶ家々は灯りを消しているのに、その街灯だけがずっと灯りを宿していた。
上ばかりを向いていても、気付かないことってあるんだな。
さっきまで、あんなにも星空に夢中だったのに。
思った途端、自分の中で時計の針が重なるような気がした。機械的でも優しい音に似ていた。
「クロ」
「何でしょう?」
「大和言葉を使って、星空を表現するなら__
あの星空と、夜の街の灯りはとても似ているから。
自分でも気付かないほど、その言葉はごく自然にこぼれ落ちた。
夜の感染症、なんてどうかしら。