人はよく人を色で例える。
明るい人は赤やオレンジ。
大人しい人は青。
咲音は透明だった。
いや、正しくは咲音の声が透明だった。
透き通っていてどこか儚い。
でも、無じゃなく何色にも染まらない色があった。
それを世界は透明と呼んだ。
僕もそう思った。
咲音はソプラノ歌手だ。
数々の大会を総なめし、ソロコンサートも無事成功を収めた。
高校生とは思えないほど大人びた深い声。
それでいて、どこか幼さも残っている。
咲音の魅力は声だけでない。
誰もが目を引くほどの整った容姿に、裏表のない明るい性格。
咲音の全てが老若男女を魅了する力を持っていた。
僕も魅了された一人だった。
僕は咲音も音楽も嫌いだった。
僕も小さい頃からピアノをしていて、咲音ほどではないが、いくつかの大会で実績を残していた。
そのたびに家族が喜んでくれた。
それでも、僕は所詮天才じゃない。
だんだんと周りに追いつけなくなる。
自分の音を見失い、行き着いた先が白だった。
何色にも染まれる白。
望むように音を出し、求められる音を奏でた。
情熱的で力強い赤。優雅な青。神秘的な紫。
どんな色にだってなり分けた。
しかし、白は長くは続かない。
キャンパスに色を重ねたら黒くなるように、僕の音も濁りだした。
ミスが目立ち、焦りが音を変えた。
同級生が、咲音が、世界に名を残す中、僕の音はだんだんと消えていった。
いつも隣を歩いていた咲音においていかれるような気がした。いや、おいていかれていた。
そのことが何よりも惨めで恥ずかしかった。
だから僕は咲音も音楽も嫌いだった。
今思えば、ただの嫉妬心とプライドだが。
今日も咲音のコンサートがあった。
“絶対来て!”と言われたので渋々やってきた。
相変わらず美しい声。透き通った高音。
咲音はやはり透明だ。
しかし、ピアノが咲音の透明を邪魔している。
気がつけば僕は、咲音の声よりピアノの音ばかり気になってしまっていた。
“奏音!どうだった?”
演奏終わり、咲音が僕に聞いた。
“よかった。”
“それだけ?”
咲音が不満そうに口を尖らした。
しょうがないじゃないか。
今でもピアノの音で頭がいっぱいだった。
僕ならあんな、透明を壊す弾き方はしない。
今すぐピアノを弾きたくなった。
僕はピアノと咲音が好きだった。
僕は決してピアノが上手くない。でも、好きだ。何よりも好きで、唯一無二の存在だ。
それと同じくらい咲音の声は好きだ。
そして、自分が嫌いだ。
例えばの話、月と太陽が同時に出ないように、朝と夜が同時にこないように、僕らの音が交わることはない。
しかし、毎朝、たった5分ほど。
僕らの音が交わる。
朝起きて声が聞こえたら合図。
部屋の窓、ドア全てを開け、ピアノにそっと触れる。
もともとは咲音の声出しの為の時間だった。
いつからか、僕の伴奏に咲音が歌う、そんな時間になった。
曲は決まって“見上げてごらん夜の星を”だ。
母が好きな歌で僕が初めて弾けるようになった曲であり、咲音が初めて舞台で歌った歌だった。
“たまには楽譜見ないのー?”
どこからか朝には相応しくない大きな声が聞こえる。
この曲は楽譜を見なくても弾ける。
それくらい好きで得意な曲だった。
今日も短い5分が終わる。
一日の中で最も好きな時間。
そして、咲音の声の中で、僕の音の中で、1番好きだ。
僕はこのときだけ、透明になれる気がするのだ。
この5分が終わると僕は学校に行く用意を始める。
咲音はレッスンに行く用意を始める。
咲音自身何度も高校に行きたいと嘆いたそうだが聞いてもらえなかったらしい。
僕からすれば、咲音の願いは全てが嫌味だ。
未来が約束された天才がわざわざ、別の可能性を見出す必要がない。
華やいた世界で認められた咲音がわざわざ、僕の世界を見たがる意味がわからない。
僕はどんなに望んだって咲音の世界には行けないのに。
慌ただしく支度する咲音を横目に家を出た。
心なしか咲音の顔色が悪かった気もするが、気のせいと言うことにしておいた。
私ね。奏音の音、大好き!__
“…かわ、はやかわ、早川!起きなさい!”
近距離で大声で起こされた。目覚めは最悪だ。
夢か。随分と懐かしい夢を見た。
昼休み。何していようが関係ない時間じゃないか。
“…何ですか?”
“今すぐ、帰る準備しなさい!ご家族の方が今病院に運ばれた!”
寝ぼけた頭で先生の言葉を拾う。
病院…運ばれた…?
目が覚める。
僕は言われるがまま支度し、先生の車に乗った。
病院は重たい空気に包まれていた。
悪い予感は当たるもので、僕にとっての最悪な想像が目の前にあった。
咲音が固い顔して眠っていた。
状況が飲み込めない。
“さき…ね…?”
上手く声にならず、上ずってしまう。
過労だと誰かが絞り出すように言った。
医師は容赦なく、咲音の様態、未来について話した。
“いつ、目覚めるかはわかりません。”
父は時折涙を浮かべ、母は嗚咽を漏らして泣いている。
僕は他人事のように聞いていた。
親が病室を出ていき、咲音と二人きりになった。
“咲音。起きろよ。”
帰ってくるはずもない返事を待ってる僕がいる。
静まり返った病室に腹が立ち、僕は叫んだ。
“おい!起きろ!ふざけんなよ!
なんでだよ!?
幸せの真ん中にいたお前がなんで、なんで!?”
こんなに叫んでも咲音はピクリともしなかった。
“…!”
急に現実が重くのしかかる。
“ごめん…”
何に謝っているのかわからない。
それでも、咲音に謝りたくなった。
きっと僕は気づいていた。
咲音が苦しんでることも藻掻いていることも。
顔色が悪かったのは気のせいじゃないし、だんだん声が変わっていたのもわかっていた。
それでも僕は見て見ぬふりをしたんだ。
その結果がこれだ。僕は最低なやつだ。
咲音はあれから1ヶ月たっても目を覚まさなかった。
たくさんの関係者が咲音の病室に顔を出した。
両親は頭を下げてばかりで、泣く暇すらなかった。
僕はやっぱり泣けなかった。
それからの毎日は特に変わらなかった。
もともと、褒められるような生活はしていない。
学校に行き、授業を受けて、休み時間は寝て、帰ってきて寝る。
面白みのない生活。そこにあるささやかな好きを僕は噛み締めていた。
しかし、僕の好きは何処にも無い。
咲音の声は聞けない。
ピアノも開ける理由がなくなった。
たった5分が僕の好きの全てだったのだ。
ふと、最後に行った咲音のコンサートを思い出した。
あの、曲は確か…。
ほとんど知らない曲だったが、一曲だけ、僕も楽譜を持っていた曲があったはず。
棚からその楽譜を探す。
すると、懐かしい曲があった。
もう完璧に暗譜したその楽譜をそっと抜き出した。
バサバサと紙が落ちる。これは…手紙?
不思議に思いながら拾う。
咲音の字で書かれた手紙だった。
ちゃんと封筒に入れてるのもあれば、チラシの裏に書いたものもある。
なんとなくそれが咲音らしかった。
その手紙達の日付は12/25、僕らの誕生日だった。
数えてみると10通。8歳の頃から毎年書かれていた。
今年の手紙を手に取る。
“奏音へ。
今年で10通目。奏音全然気づいてくれないんだもん。
早く気づいてほしいなー。
あ、お誕生日おめでとう!17歳!高2!
学校は楽しいですか?友達いる?
奏音は無愛想だからちょっと心配。
私の分までちゃんと青春生活送ってよ?
私も高校生なりたかったなー。なんてね。
奏音なら気づいてるかもだけどね、私最近声が上手く出ないの。
前みたいに高音が出ないし、ピッチは定まらないし、全然歌ってても楽しくないの。
世間の期待、親の期待が怖くて逃げたくて仕方ない。
昔はあんなに楽しかったのに。
でもね、奏音の伴奏で、歌う声は1番綺麗だって自分でも思うの。
奏音も思わない?奏音の音も1番綺麗だと思うよ。
ほんとに楽しいの。
だって私、奏音の音好きだもん!
いつかの夢、覚えてる?
ふたりでコンサートして、日本中を笑顔にする!
私は忘れてないからね!
いつもありがとう。お兄ちゃん。
咲音より。”
俺は最低だ。
咲音はこんなにもSOSを出してたんだ。
いや、こんな手紙無くたって僕は気づけたんだ。
僕は咲音の1番の理解者なのだから。
血を分け合って産まれてきた双子なんだから。
ようやく涙が頬を伝った。
手紙を握り締め咲音の病室に駆け込む。
“咲音…ごめんなぁ…”
泣きながら何度も咲音を呼んだ。
汚い嗚咽だけが病室に響く。
“…奏音は…意外と泣き虫で…”
懐かしい声に顔を上げる。
そこには美しい咲音の笑顔があった。
“ピアノ…大好きなくせに嫌いみたいな顔して…
手紙も…毎年書いてるのに全然気づいてくれないし…”
虚ろだった咲音の目に僕が映る。
涙でぼやけてた咲音が僕の目に映る。
通じあった瞬間だと僕は思った。
“咲音、ごめん。”
咲音の顔が見れなくて、俯いて言った。
“許さない。”
咲音の一言で罪悪感でいっぱいになる。
“これからは…そばにいてくれなきゃ許さない…反抗期…もう終わりね…”
笑顔で言った。意味で見た中で1番綺麗な笑顔だった。
“ありがとう”
僕はボロボロ泣きながら答えた。
15年後__
“今日は、私達のコンサートにお越しいただきありがとうございます。
このコンサートは私達の夢です。改めて、皆様に夢を叶えていただき心から感謝いたします。ありがとうございます。
ほら!お兄ちゃんも言って!”
こんなところで僕に振るか普通。
“あ…ありがとうございます。”
“それだけ?
ごめんなさい。お兄ちゃんはシャイボーイなので。お許しください。”
客席から笑いが溢れる。
“続いての曲は私達の大好きな曲です。この聖なる夜に大切な人と聞いてください。
見上げてごらん夜の星を。”
拍手がホールいっぱいに響き渡った。