西春奈・2022-01-25
雨に鹿泣かぬ
肩凝りを放置して倒れたことがある。
毎度毎度阿呆らしい理由で岸を眺めるので自分で自分に驚いている。
数度救急搬送されてみて私の身体が死へ抗い続けているらしいことを覚えた。
死へ向かうべく生まれるくせして何と厄介にできているのだろう。面倒くさいことこの上ないけれど私は死んだことがない。
生きてるから生きたいんだろうよ多分知らんけど。
知らんけど。
そんなわけで細々と暮らしを立てる。
私にできることはあまり多くない。
明日を望めば。
今朝も目薬は額に落ちる。捥捥捥捥捥捥捥捥捥捥
アメリカ制作のドキュメンタリー番組を見ていたのだけど、吹き替えの訳に少々粗が目立つように感じた。
大略は理解できても所々内容がわからない。
話者の口元を見つめ、原文では何と言っているのか読み取ろうと試みる。
ところが、どうやら私の脳機能は、吹き替えの日本語音声を聞き取る作業と、番組のおおよその内容を理解しついていく作業と、読唇によって英語の原文を起こす作業とを同時にはできないらしい。
テレビの前でうんうん唸っていたら番組が終わってしまった。
読唇なんて日本語でもできないのだから英語でなど出来ようはずもないのだった。外国語は苦手だ。日本語も苦手だ。けれど私の思考回路は間違いなく日本語によって規定されている。
二か国語字幕で観たかった。
それにしても学んだことのある言語と全く学んだことのない言語とのリスニング能力が同程度なのはどうしたことだろう。とんだ不孝者だと先生にばれないことを祈る。そしてドラマだけで覚えつつある私の中国語は少々癖が強い。
最近覚えた言葉は、額突く従者の髪を掴み上げ嘲りを潜ませた顔を近付けつつ吐き捨てるように言う「好(いいわ)」である。もちろんいつか使う。
真夜中なので書きなぐることにした。
例により平素に増して雑文となる。
他人の趣味嗜好について、自分はその趣味嗜好を受け付けないときに自分は嫌いだというただ一点のみを主張し続けるひとと出会う機会がある。
身近には母がそうで、非常識だと非難するでもなくただ嫌いだと述べ続ける。
仮に私が林檎を好いていて、一人暮らしの住処で毎日林檎を剥いているとする。その話をしたとき、母は「そんなこと(自分は)しない」と言うだろう。
「私は食べるの、好きだから」と私が続ければ、母は「(自分は)しない、嫌い」とそればかりを繰り返すはずだ。この不毛なやり取りを終わらせるには、私が母に同調し林檎は嫌いだから食べないと宣言せねばならない。
母とのやり取りは万事がこの調子だった。
長らく疑問に思っていた。
母は私に何を訴えようとしているのだろう。
折に触れ考えてきた。
先の例を考えたとき、母の主張内容としておおよそ次のような候補を挙げられる。
1. 自分は林檎を食べない(行為の述懐)
2. 自分は林檎を嫌いだ(嗜好の述懐)
3. 私に林檎を食べないでほしい(行為の
要請)
4. 私に林檎を嫌ってほしい(嗜好の要
請)
5. 私に自分が林檎を食べなくていいと
認めてほしい(行為許容の要請)
6. 私に自分が林檎を嫌っていいと認め
てほしい(嗜好許容の要請)
7. 私に自分が林檎を食べないことは非
難の対象にならない(食べなくてい
い)と断じてほしい(行為評定の要請)
8. 私に自分が林檎を嫌うことは非難の
対象にならない(嫌っていい)と断じ
てほしい(嗜好評定の要請)
上記5,6と7,8とでは、私の個人的な意見を求めているのか、世間一般の見解のような、より大勢の見解を代弁して私に述べてほしいのかという点で相違する。
母は上記選択肢のうちどれを主張しているか。
私はどうも、母は5から8までの主張が渾然となっていて、さらにその主張を3,4と混同しているように思う。
つまり母は、私が母と同じ物を好き同じように行動するのでなければ、自身の趣味嗜好や言動について自信を持てない。
母の眼前にいる私が母とは別の人間だということが、母には自らの存在が世界に否定されている証かのように見えている。
けれど実際には、私が雑に仕分けただけでも上記8項目に状況を仕分けられてそれぞれ独立しているわけだし、私と母とは別人として生きてきて、これからも別人として生きていくのだ。
私が林檎を好いていたって母は母である。だからどうしたというんだそんなことで不安にならないでもらいたい勝手にたのしく暮らしていきたまえ母よ。
そんなわけで、私が母と関わる上でちいさな決まりを己に課した。
どれだけ面倒でも同調はしないこと。
私の主張と母の主張とをはっきり分けて、それぞれを尊重する発言を心掛けること。
母の思いの焦点に母の興味が向くよう、それとなく会話を誘導すること。
決めてから数年経ち、遠くの山に芽生えた檜の成長を見守るような心持ちがしている。まだこの目に見えないけれど何かは変わりつつあるらしい、そんなところである。
欲を言えば極力関わりたくないけども。
勧められなければ始めなかったろうし、これほど続かなかっただろうと思う。
「あなたの日常が、誰かの支えになる。」
画面を開くたび縮みあがる。
私はこの一文が怖い。いや怖くはない。
怖いというより、了承しない。
理解できても。
恐怖とは不可解の象りを言う。
わからないものが、わからないことすらわからないものが、わからないまま眼前にあること。
名付けは解体であり出現である。触れるには名付けねばならない。名付けようのないものは存在しない。
このような道理のなかでのみ人間は人間でいることができる。だから不可解はあってはならない。せめて不可解であると与えねばならない。何も言えないものがだだそこにあってはならない。
話を戻す。
そうそう他人の支えになんぞなってたまるかと思っている。
私の預かり知らないところで勝手に影響を受けていればいい。私とて誰かの何かで勝手に一喜一憂して誰かの何かたちの寄せ集めみたいな生を送っている。
私を知らない誰かたちの、私を忘れた誰かたちの、私も誰だったかは忘れているんだろう誰かたちの、そして恐らくその誰とも呼べないものの、成れの果てこそ私だ。
恨みがあれば直接談判してくださって構わないけれど私のしたことと相手の問題そのものとは異なる。私にできる対処で全て解決する場合なんて限られているのじゃないか。少なくとも恨みも感謝も殊更引き受けたいものではない。
ただここにいたい。
排斥されなければ歓迎もいらない。
今ここにいるから私はここにいられるのだと、そうそう心持ちがあれば大体どこでもやっていける。
それでもたまにはいてもいいと言われてみたい。
いてほしいではなく、いてもいい、がいい。
いなければならないとももう思いたくない。
疲れてしまったの。
己をゆるさないためにゆるすのには。
いてもいなくてもいい私で、いたい。
要は傲慢なのだ。
やあ、やはりまだ、膿んでいる。
この十日を折に触れ考え、考え、ようやく認めたところがこれである。
夏目漱石は〈I love you〉を「月が綺麗ですね」と訳すよう教えた、という出所の定かでない逸話がある。
出所に多少の興味はあるが、これに倣う振る舞いを私はあまり好いていない。
しかしこの上なく意識している。恨んですらいるようだ。
少なくとも、皮肉を込めつつ遊んだつもりが己の仕掛けた遊びに遊ばれている。
なんだかずっともやもやしている。
なんだかとても不愉快だ。
逸話自体に思うところはない。
私以外のどなたがどう考え使っていようとそれに対して私が何か不満に思うことはない。ない、はずだ。
この逸話への過剰なまでの執着は己の偏った経験による。
保持し続けることも、全く失うことも、恐らくは危うい。これはそういう執着心なのだと私は了解している。
それでも私は腹が立つ。私に苛立っている。
ただそれだけの、話。
皿が更で、飼うは買うだった。誤字の話である。特に後者など意味は通ってしまうから余計質が悪い。
びたんびたんごろごろごろと一頻り掛布団へ寝技を掛け、足をばたつかせ、なにやら言語の体裁すら陸になさないようなことをごにょりごにょりこぼしつつ手直しする。
動転すると思ったことをなんでも口からこぼしてしまう。なぜなんだろう。なぜなんだろう。
ほんとうはもっと気になる箇所はあるのだけれど、考えはじめたらきっといつまでも出せない。叩きつけるように、放るように、出す。
これでも食らえこのやろう。
喧嘩でも吹っ掛けているのか私は。
誰にだ。私か。
文語を用いる場合に、どの時代の文法に準拠すればよいのか。
時代の、と言うのもできれば避けたいのだけれど、私にはこれも適切な表現を探しあぐねる。少なくとも言語は空間的にも時間的にも広がりを持ち、種々のバリエーションを明滅させている。
文芸も芸なのだから、まずは作中の仕掛けが作者の意図通りに読み手へ作用することこそ肝要だと思う。どう読まれようが自由ではあるけれど、狙いを素直に受け取ってもらうためにどうすればよいか、また己が書いた文章にどのような解釈があり得るかについて全く構わないでいるならばそれは言語としての意味がない。
支離滅裂を見せるにも、見せる以上はやはり見せ方の計算を欠かせまい。知らんけど。
とすると、文法事項の採用も文芸の技術のひとつと捉えて構わないのか。読めるものに仕上がりさえすればよいのだと。
こういうことはどこで学べばいいのだろう。如何せん文芸には疎い。縁も才能も私にはなかった。まがりなりにもいまこうして文筆を苦にせずいられるのは、私を学問に導いてくださった先生方が各々素晴らしい先生であり研究者であり著述家だったからなのだ。
何を言いたいかと言うと、12月5日の「慰みと」から始まる投稿の作中「忘るる」が気に入らないのである。
下二段活用の「忘る」を採用したけれど、文意により近いのは四段活用の「忘る」で、けれど活用で意味を区別したのは上代までらしいのだ。どう考えても上代を意識した作ではないな、でも四段活用の「忘る」を使いたかったなあ、むむうむむう、とまあそのような逡巡を繰り返している。
そのうち投稿を削除したいけれど、削除するにも納得し切らない。今回は一部のみの手直しにはしたくないから、完全に没にするか全く新しく練り直すかどちらかがいい。
そこまで考えはたと思い至る。
こちらでの投稿内容はタグを付けたもの以外どこにも出せない書き損じを供養するつもりで出していたけれど、私は積み重ねた投稿たちを捨て切っていなかったようだ。
手放せないし畳めない、らしい。
確信めいた予感がある。
もう3年もしないうちに目尻に皺が寄る。
獲物を定めきれない猫のようなふたつの瞳の、両尻がほんの少し、弛んでいる。
老化の予兆が翳を落とし始めている。
ようやっと気付いた。
二十を過ぎた頃身体を壊した。
髪は半分ほど抜けた。残ったうちの更に半分が白髪になった。相貌が日に日に崩れていくのを鏡で見つめていた。
当時なにより不愉快だったのは外見の変化ではなく、外見の変化を受け入れられず元の姿に戻そうと躍起になる己自身だった。
老いこそが生を自由にするのだと思っていた。
若くあることの視野の狭さ融通の利かなさといったら、何もかも雁字搦めで何をしても苦しい。若さを求め焦燥のただなかに身を置くなど馬鹿馬鹿しいことだ。
たしかにそう思っていた、はずだった。
私は抜毛も白髪も喜べない。
私はあのとき、気付いてしまった。
ゆるすものか、ゆるすものか、閉めきった部屋で髪を握りしめながら呟いた。
暗い、手元も覚束ない部屋で、時折通り過ぎる自動車のライトがカーテンの隙間から差し込んで、けれどそれも私には届かない。山に積んだ本の背表紙を無遠慮に撫ぜ、刺し、無遠慮に散り、消えていく。
必要も意味もなく何度も夜が死んだ。
何に思ったかはわからない口癖を吐いて息をした。
欠伸のようなものかもしれなかった。
目覚めるための。
あれからしばらく、抜け落ちた髪は生え揃い髪の色素も戻った。
けれど、まれにある金銀と黒とを気儘に往き来する一本を見つけては、腹の底の澱が揺れる。
私に初めて寄る皺は笑い皺である。
このことを思うとき私の口角は僅かに上がる。
私は笑っているらしい。
今日このことを忘れないでおこうと思った。
論拠もろくに示されていない酷い論文を読み、筆者の参照しただろう資料を探しつつ筆者の論旨を理解せんとし、そのひとの持つ意味世界へ思いを馳せたり自分の見解との相違についてより明瞭に叙述しようとしたりする、そういうことがとても楽しい。
血湧き肉躍るとはまさにこのこと、生を実感するひとときである。
そういうとき抱くのは怒りだ。私は紛れもなく怒っている。では何に怒るのかと言えばその対象は筆者ではない。そして怒りは断罪も勝敗とも無縁に滾る、いわば相手に向けるエネルギーそのものであって、決して感情の種類ではない。
私は私に、私を取り巻く視界に、わからないのだと腹を立てている。私ではないもののかたちをなぞりたいと腹を立て、私でないものを取り巻く世界の内容に触れたいと望み地団駄を踏む。
注力のため滾るのが怒りだ。私は私の命脈を寄越せと鳴いている。
肝胆傾けることを望む。
いつも。
週末は冷えた。
暖房を入れた室内で吐く息が白い。
悴む手を擦り擦り、なにか暖まるものを飲もうとホットワインを作った。
マグカップの一杯を干すとほんのすこし寒さが和らいだような気がして、なんだかとても安心したのを覚えている。
覚えているのだ。ここまでは。
気づけば布団のなかでうなされている。
ワインの瓶が2本、ウイスキーの瓶が1本、それぞれ空になり、洗って乾かされている。私がやったらしい。
片付ける余裕はどこから来たものだったか思い出せない。吐き気を堪えるための唸り声はそのうち嗚咽に変わって、そういえば泣き上戸だったなあと他人事のように思った。
涙を拭ったティッシュペーパーを集め立ち上がる。直立しているはずの視界が揺れている。絞れそうなくらい重い丸めた紙の上で蜘蛛が死んでいた。ひとりだった。葡萄色の蜘蛛が私の涙の上で果てた。朝だった。
夜中に怪文書を送り付けた相手に呆れられたり励まされたり労られたり、した。
いつか酒で身代を潰しかねない。いい加減反省せねばと思う。思うだけは思う。
布団のなかで休日が溶けた。とてもかなしい。
なによりも取って置きのウイスキーを味わうことなく飲み切ってしまったことがかなしい。
かなしい。
当分飲まない。
ちいさな、しこりのような。
私は私に纏わるなにもかもを私自身が持っていたいのだと思う。
その一方で、私ではない誰かたちが私に纏わる某かを己に紐付けて語り、自身が何者であるかへの統一的見解ーー人格とも云うべきもの、のなかに組み込む営為について、私は誰かたちに何の強要もしないことを望んでいる。
私に何を思ってもいいし、私をどう語ってもいい。
あなたの語る私は私だ。それで構わない。
そして私は誰に語られた私にも喜ばない。拒絶なく、歓迎なく、受け取る。
私は私の語る、あるいは語り直す私のみに人格の内容を託す。
そうして私でいたいと思う。
ちいさなしこりのように、ある。
このしこりは手放さないでいたい、蝕むものと共にして、そうして醜く崩れ果てながら生きて死ぬ。
そういうのがいい。
本当に行きたいところへはひとりで行きたい。ひとりで死にたい。私のために与えられる泥梨であれば私ひとりで味わいきりたい。
けれど私は語ってしまう。
ただ生きただ死に、ただ一時私と共にしたひとたちのことを、私の生に紐付けて語ろうとしてしまう。
私の生に意味を与えたいから、私ではない生に私に紐付いた意味を与えたいから。
私は私を赦さない。赦さないまま語る。そうして私に恐れている。自罰は果たして罰か。罰せられて満足できるか。結局のところ私は私の満足のため私を許し私を罰し私を赦している。
私は私に関するあらゆることに納得できない。納得できないまま暮らす。
納得できないから暮らしていけるのかもしれない。
怒りと共存する毎日を私は許している。
たくさんの私と、たくさんの違和と、引き連れて、漂っていたい。
どのような人が好もしいかと言えば、それは私の逆鱗に片っぱしから触れてまわるような人なのだと思う。
例えばきっと人生哲学とかいう単語を使うひとなんか最高で、信条と言い直してくださるまではそのひとのことを想い夜も眠れない日々を過ごすに違いない。