<今宵、貴女をお守りします>前編
時刻は19時40分。都内のオフィス街は、仕事を終え帰宅する人で溢れかえる。
皆北風に急かされるように足を運んで、帰路を辿っていた。
そんな都内のどこかの裏路地。大通りから少し歩いたそこには、知る人ぞ知る小さなバーがある。
外観はレンガ、扉はステンドグラスで出来ている。曇りがかかっていて、中は見えない。所々ひび割れていて、どことなく古びている。ドアノブにはCLOSEと書かれた紙がぶら下がっている。
扉の近くには椅子。椅子の上にはランタンと、木で出来た看板が立て掛けてある。看板の文字は「ローク」。それがこのバーの名前である。
某マップで「飲食店」と検索しても出てこないこの店は、仕事で疲れた人たちにお酒とご飯を提供するために20時から開店する。
ちなみに閉店時間は朝の5時である。
と、一人の男が現れた。痩せ型で、背が高いのは間違いないが、縦に長いという表現の方が合っているかもしれない。10年は着ているであろう古びた黒いコートに、黒い靴を履いている。傍から見たら不審者である。
その男は大通りから真っ直ぐに歩いてくると、迷うことなく躊躇なく店の方に向かってくる。
古ぼけたコートの中から鍵を取りだし、扉を開けた。
店内はとても狭く、カウンター席が5つ程あるのみだ。
男はカウンターの方へと歩いていき、カウンター内の扉から店の奥へと姿を消した。
5分ほどで出てきた男は、不審者のような風貌から黒い蝶ネクタイに黒いエプロンを身につけ、マスターへと姿を変えていた。
カウンターの壁に取り付けられたスイッチを押す。豆電球の光が店内を照らす。窓がないため、明かりが付いたとはいえどことなく店内は薄暗い。
電気を付けたあとに一通り店内を掃除する。カウンターの机と5・6席の椅子を磨き、箒で床を掃く。
一通り掃除を終えるとカウンターの中に戻り、壁一面に飾られたお酒の在庫の確認をする。足りないものは補充していく。食材の確認も欠かせない。
20時になると、扉に頭をぶつけないよう、身体を屈めながら外に出た。椅子の上のランタンに火をつけ、扉の紙をひっくり返し「OPEN」にする。
これがマスターの毎日のルーティーンだ。
店の中に戻りしばらくすると、チリンと扉のベルが鳴り、一人の女が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
カウンター席の中でも向かって一番奥の席に座ると、持っていたカバンを隣の席に乱雑に置いた。パンツスーツにハイヒール。ひとつに束ねた長い髪。カバンからは書類が何枚も見えている。
「マスター、いつものを頂戴」
女は一言そう言うと、束ねた髪を解いた。
ふぅとため息をつく。
「かしこまりました」
マスターは手馴れた手つきで棚からお酒を取り出し、カクテルを作った。
「お待たせしました」
「ありがとう」
スッと自分の前に置かれたカクテルを女は一気に飲み干した。
「相変わらず美味しいわ」
空いたグラスを置き、女はニコリと微笑んだ。
「ありがとうございます」
マスターは飲み干されたグラスを回収しながら聞いた。
「本日は随分とお疲れですね」
「そうなの」
ふぅと一呼吸置いて、女は話し始めた。
「部下が仕事でミスをしてね。私がフォローをしたの」
「ミスをしてしまうことは誰にでもあるから気にしていないんだけど、上司が嫌味な人でね。ネチネチと説教じみた事を言われて疲れちゃって」
「もっとましな言い方は出来ないのかしら。ほんと嫌になっちゃう」
はぁとため息をつく女の顔には嫌悪と疲労が滲み出ていた。
「それは大変でしたね」
「えぇ。本当に」
「だから今日は沢山飲みたい気分なの。いいかしら?」
「もちろんです。長い夜は貴女の味方ですよ」
「上手いわね」
小さく笑うと、女は
「マスターのおすすめを頂戴」
そう言った。
「ごめんなさいね。沢山愚痴を吐いてしまって」
すっかり夜も更けた頃、女は身支度を終え席から立ち上がっていた。
「気になさらないでください。ここはそういう場所ですから」
「ありがとう。この場所があるから、私は明日からも頑張れるわ」
スッキリとした顔で、女は優しく微笑みながら言った。
「どうか無理だけはなさらぬよう」
「えぇ」
隣に置いたカバンを掴み、女は財布を取り出した。
「これ、お代よ」
女はカウンターにお金を置いた。
マスターをチラリとお金を見やり、
「こんなに高くはないはずですが」
「愚痴を聞いてくれたお礼よ。受け取って」
返事をしながら女はそのまま扉に向かって歩いていく。
「またねマスター」
女が扉の向こうに消え、チリンという音と同時に扉が閉まる。
静寂に包まれた店の中、マスターは返事が出来ずに扉を見つめたままだった。
「……またお待ちしております」
マスターの小さな声が、誰もいない店内に響いた。
「ストーカーですって?」
ピクリと眉をひそめてマスターが声を上げた。
いつもよりも大きく、それでいて驚いたような声だった。
「えぇ、多分ね」
マスターの前には女。先日愚痴を吐いていた常連の彼女である。
雑談を交わしている最中、女が言ったのだ。
「私ね、ストーカーをされているかもしれないのよ」
それを聞いたマスターの反応が先程の通りである。
明らかに顔を顰めるマスターに対して、女は飄々としている。怖がっている様子は見られない。
「それは…大丈夫なのですか?」
「今のところはね」
「何か被害は?」
「家のポストが荒らされていたり、見張っているような手紙が届いたり…それくらいかしらね」
「警察には?」
「言ってないわ」
さも当然、という風に女は答えた。
「届けなくて良いのですか?」
「特に実害はないし、大丈夫よ」
「ポストといい手紙といい、家が知られているのですよ」
いつもより強い口調でマスターは言った。
女は少し驚いた顔をしたが、すぐにいつもの顔に戻った。
「大丈夫よ。マスターは優しいのね」
「……」
「何かあったらすぐに警察に言うわ」
何かあってからでは遅いのでは。
マスターはそう言いたげな顔をしていたが、女の「甘めのカクテルを一つ頂戴」と言う言葉にすぐに仕事の顔に戻った。
数ヶ月後、時刻は22時。チリンと扉のベルが鳴る。
「いらっしゃいま…」
グラスを拭いていたマスターが扉に声をかけながら顔を向けると、そこにはいつもの女が立っていた。
しかし、明らかに様子がおかしい。
「…どうされたのですか」
青ざめた顔のままフラフラと歩み寄り、いつものカウンター席に腰掛けた女は、何も言葉を発さなかった。
マスターも何も話さず、そのまましばらくの時が流れた。
どれほどの時が経ったか、女がポツリと言った。
「私、殺されるかもしれないわ」
気まずい空気が一瞬にして凍りついた。
空気だけでなく時間も止まったような。
そんな空間が訪れる。
「詳しく聞かせてください」
有無を言わさぬマスターの口調に、女はゆっくりと口を開いた。
「先日、ストーカーについて話したでしょう?
あれからも手紙がずっと届いてね。
それ以外に直接何かされたことはなかったから、放って置いたのだけど…
……一週間くらい前から、手紙の内容がどんどん過激になっていて。その、所謂…殺害予告じみたものにね。
流石に警察に相談するべきか悩んでいたの。
そして…今日家に帰ったら、ポストに、これが…」
女から差し出されたスマホ。
「……これは…」
スマホを覗き込み、マスターは息を飲んだ。
そこに写っていたのは、女の自宅のポスト。その中で無惨に息絶えている、血塗れのカラスだった。
傍らに置かれた手紙には赤い色で文字が書かれている。
「…おまえもこうしてやる」
呟くマスターに、女は小さく頷いた。カウンターの上で組まれた腕は、カタカタと震えている。
こんなにも怯えているのに、スマホで撮影して証拠を残すとは、女の行動には感服させられる部分があるなとマスターは思った。
「…これを見て、警察に行こうと思って、交番に向かって歩いていたら……信号待ちをしていた時に、道路に突き飛ばされたの」
「なんですって?」
大きな声に女がビクリと身体を震わせる。
しまった、とマスターはすぐに言葉を紡ぐ。
「すみません、大きな声を…お怪我は?」
「幸い、怪我はないわ。車通りもなかったから」
「何よりです。ただ、」
区切られた言葉に女は顔を上げてマスターを見た。
不安げに揺れている瞳の中に、マスターだけが映っている。
「道路に突き飛ばすのは殺人未遂です。今度こそ警察に言うべきかと」
「そうね…そうするわ」
「ストーカーに心当たりはありますか」
「…えぇ」
気まずそうに揺れた瞳が、しっかりとマスターを捉えた。
「先日話した私がミスをフォローした部下のこと、覚えてる?」
「覚えております」
「彼だと思うの。話した日以降、ニヤニヤと気味悪く私を見つめて来て……証拠は、ないのだけど…」
「なるほど」
考え込むような表情をするマスターに女は言った。
「ごめんなさい、急にこんなこと…困るわよね…でも、私、どうしたらいいか分からなくて…気付いたらここに来ていたの」
マスターを見つめる瞳は揺れている。
不安なのだ。当然だ。誰かに命を狙われ、その犯人が自分の知り合いかもしれないと来ている。不安にならない方がおかしいだろう。
「頼って頂けて嬉しいです。そんなにご自分を責めないで下さい」
続けてマスターは言った。
「今日はもう遅いです。ここでお休みになってください。奥の事務室に、小さいですがソファーがあります。一晩寝る分には問題ないでしょう」
マスターの言葉に女は目を見開いた。
「でも…流石に悪いわ」
有難いけど、と小さく女は続けた。
女の言葉にマスターは首を振る。
「そのような危ない目に遭った貴女を一人で帰す訳には行きません。ここで休まれて下さい」
未だ躊躇するような表情を浮かべる女に、マスターは追い打ちをかけるように言った。
「ストーカーが、貴方をまた攻撃するかもしれないのですよ」
その言葉に、女の表情が変わる。驚愕、怯え、恐怖。
そのような感情が入り交じった表情。
女の顔を見て、マスターは打って変わって柔らかく言った。
「明日の朝一番で警察に相談に行きましょう。私も同行します」
その言葉の柔らかさの中には、相手を洗脳出来そうな、そんな得体の知れなさが秘められているような気がしたが、女の顔にはようやく安堵の表情が浮かんだ。
「ありがとう、マスター。とても心強いわ」
「当然のことです。さぁ、今夜はもう休みましょう。ソファーにご案内します」
「えぇ」
女はカウンター席から立ち上がり、マスターに続いて事務室へと入って行った。
事務室は本当にこじんまりとしている。
三畳ほどの空間にパソコンが置かれた机に椅子、ソファーが置いてある。机はパソコンを埋めつくしそうなほどの書類が置かれていた。
その他にカウンターに置ききれない食材のストックや、経営に関する本などもあった。
沢山物が置かれているため、三畳よりも狭く見えた。
マスターは女をソファーへと座らせると、椅子の背にかかっていた毛布を女に渡した。
「お使い下さい。私は扉の向こうにいますので、何かあれば遠慮なく仰って下さい」
「ありがとう。助かるわ」
「おやすみなさい」
「えぇ。おやすみ」
事務室の扉を閉め、マスターは入口の扉を施術した。
念の為、外に怪しい人物がいないか確認することを忘れずに。
施錠をしてからカウンター席に戻り、マスターは何かを考え込む。
その瞳は、何かを決心したかのように、深く、黒く沈んでいた。
(続く)