第一章-二話「日常とトラブルの匂い」
ヒールのかかとがズブズブと呑み込まれていく。今すぐにこの場から歩かないと足首まで泥で汚れてしまう。私の人生はいつもそうだった。足元ばかりで前を向かず、自分に急かされている。
運転しながら煙草を吸って、窓の外へ吸い殻を撒き散らす、ヘンゼルとグレーテルのクズ版みたいな人間に何かされた人生でもなかった。
ただあの男に出会わなければ、私の人生は少し暗いだけの平凡な人生のままだっただろうに。だけど少し悪くない、だからずっと友人としての付き合いを続けている。
私の隣には変人がいる。
「今日は早いね馬瀬(ませ)」
もう見慣れた、珍しい、縦長の楕円な玄関の戸。ネクタイを結びながら片手でその玄関の戸を支えて私を出迎えるこの男が、変人・藤竹 骨(ふじたけ こつ)。
よく行動を共にするが、正直部類としては私が苦手のうちに入る人間だ。いや、人間なのかはまだ怪しいけれど。
「藤竹、あんたに合わせてるの。普通私は土日の夜に外出ないって」
「ええ! そうなの」
寝ぐせがひどい頭を揺らして、藤竹が振り返る。
「そうなの」
「ネクタイどうやって結ぶんだっけ」
「毎日結んでるでしょアホ」
「アホ!?」
藤竹は半袖の黒いワイシャツとぴっちりした鼠色のズボンに、仕事の時は全身を覆い隠す黒装束を纏う、微かに甘い香りのする男だ。
その甘い香りの正体は、毎日食べているらしい砂糖がたっぷり染みた焦げ気味のこだわりトースト。服ではなく藤竹の体からその香ばしい匂いがしている。
今も雑音にまじるようなオーブンの作動音が鳴っている。日が昇って数十分の夜十九時にトーストの匂いがする感覚は変な気分だ。もう私の日常だけれど。
「アホはアホ。ちゃんと自分でやってね。てかお茶漬け食っていい? まだ小腹が空いてて」
立てかけてある姿見に向かってしかめっ面でネクタイ結びに苦戦している藤竹を横目に、キッチンへ向かった。ネクタイよりもそのシワだらけのワイシャツをどうにかできないものかな。
確か前に藤竹と買い物をした時にこっそりカゴに入れたお茶漬けの素があったと思う。背伸びをして上の棚を探した。
「いいけど」
「あんたも食う?」
「いや、トーストあるから」
私は本当に会話が適当だ。藤竹は毎日のルーティーンとしてトーストを食べ続けている。それを知っていて食べるかどうかをきいてみたのだ。
「でも昼飯に食おうかな」
「昼飯が茶漬けって質素だね」
「じゃあやめる!」
藤竹は人に流されやすい一面がある。悪く言うと相手任せ、良く言うと相手の意見を尊重するということだけれど。
「そういえばこの前さ、いつもみたいにお客に会って星の粉薬とか見せたんだけどな、その人に何も売れなかったんだ! 苦し紛れにいつも通り摩訶不思議の名刺は押しつけて帰ったけど」
「あんたを正しく理解する人が現れたってことじゃん」
夜に現れる黒装束の男から一見意味不明な薬を買うなんて、おかしいと思っていた。久しぶりに藤竹から商品を買わない人が出てきて少し嬉しい。そんなことを思う私は性格が悪い。
「どういうこったよ!?」
「別に。ほんと、これだから昼夜逆転男は」
「言っておくが」
いつの間にかネクタイを結び終わった藤竹が私の言葉きっかけにムスッとした顔をした。
「俺の視点からだとそっちが昼夜逆転、でしょ」
「予言の薬盗んだのか!?」
元々大きな目を飛び出そうなほど見開いて驚く藤竹に笑いそうになる。
予言の薬というのはおそらく藤竹が開発した、星屋で売っている商品。十中八九名前そのままに、飲むと未来予言ができるという効果があるのだろう。
「なわけあるか。そんなもん飲まなくたって散々同じようなこと言われてんだから分かるって」
「そうか……」
藤竹は「昔は昼と夜の概念が逆で、朝は夜、夜は朝、と呼ばれていたんだ」なんて説を唱えて自分自身もそれを心から信じ、一般人の私から見れば完全に昼夜が逆転した生活を送っている。
なので休日の昼間にふらっと彼の家に邪魔すると、ソファーなどで寝ていることがほとんどだ。「一歩譲って朝夜の呼び方はそっちに合わせているだろう」なんてさらに意味不明なことを言っている。
この前、彼がつとめている会社の蛇のような顔の社員と、この藤竹の家で偶然居合わせたので「摩訶不思議の人達ってみんなこうですか?」ときいてみた。
そしたら「そんなわけない! こいつだけです。せっかく星屋の末裔なのにその力を会社に使わない、殆ど幽霊社員の変人ですし」と被せ気味に返事をされたことがある。
藤竹の知り合いだと言うと、名刺だけ渡され帰っていった。藤竹と同じ摩訶不思議株式会社営業課の込山 蛇蓮(こみやま じゃれん)という名の社員だった。
藤竹は殆ど会社に出勤していない。なのに時々すごい業績を残すため、特別に会社に残らせてもらっているようだ。星屋とやらは藤竹が勝手に副業でやっている商売だ。商品も大半が自分で作っているらしい。力の入れ具合を見るに会社の方が副業だと思えるが、面倒なので口には出さない。
「今から星屋?」
「ううん、今日は休み。出勤しようかなって」
「定時過ぎてるだろうし、今から行っても人いないんじゃないの」
「ほんとだ」
「やっぱりアホ。予定ないじゃん今日」
不思議な薬を作れるほど頭がいいはずなのに、なぜこういう時は馬鹿になるのだろう。一時期私の前でだけそういうキャラクターを演じていると思っていたが、何度か会った、藤竹と仲のいい込山さんを見るにそういうわけでもないらしかった。
チン、とオーブンが鳴る。トーストが焼けたようだ。
「一緒にトースト食う?」
「だから、お茶漬け食うんだってば! パン焼くんじゃなくて米炊くの!」
「そうだった」
「まったく……」
___プルルルルル
その時、机の上にポツンと置いてある藤竹の携帯から電話の着信音が鳴った。藤竹は画面を見てから不思議そうな顔で電話に出る。
「もしもし、あー藤竹ですが。……この前の下駄少年! いやあ、嬉しいな! ところで御用は? ……とりあえずそっちに向かおうか。住所は? ……分かった。待ってて」
最初はいつものように大口をあけて話していたが、段々と珍しく神妙な顔をする藤竹。
「藤竹? もしかしてさっき言ってた、商品を買わなかったっていう?」
「ああ。ちょっと行ってくる」
オーブンに入ったままのトーストそっちのけで黒装束に腕を通す。
「待ってよ、トーストは? お茶漬けは?」
「トーストは冷めても美味しい」
「いやいや冷えたらカッチカチだよ。フランスパンみたいに硬くなってるって」
「もう、なに、一緒に来たいの?」
藤竹が私の肩に、覆うほど大きい手を置いた。しょうがなくみたいな言い方に苛ついた。胃の環境が悪くなった気がする。
「は? なわけ! 私今部屋着だし、他の所にこの格好で行けない」
「行きたいんだね! じゃあ俺のパーカー上から羽織って! 下駄少年の元へレッツゴーだ!」
「ちょっと!!」
適当なパーカーを被せられ、グイッと男の力で腕を引っ張られた。トーストは留守番。これだから私の人生は平凡じゃなくなっていく。
(終わり)
-登場人物-
●馬瀬
読み:ませ
この2話の主人公「私」。女性。下の名前は不明。年齢も不明。話しぶりからして藤竹と歳が近いのだろうか。
藤竹と家が近く、友人の様子。よく藤竹の家に行ったり、一緒に買い物に行ったりする仲。藤竹のことを「変人」「アホ」と言うことが多い。だがなんだかんだで一緒にいるあたり……。
太陽が出ている時間のことを夜と呼ぶ。
●藤竹 骨
読み:ふじたけ こつ
摩訶不思議株式会社営業課に所属している(が幽霊社員の)男。それとは別に星屋という看板を掲げ、自身で開発した不思議な薬を夜な夜な売っている売人。
推定二十代の、謎が多い男。馬瀬なら何か知っていそう。少々天然というより馬鹿。だが薬を開発するほどの頭脳は持ち合わせている様子。頭の良さと馬鹿って共存するんだね。
昔、昼夜の概念が今とは逆だったと言い、自身も太陽が出ている昼に起きて月が浮かぶ夜に寝る。この説はこの世界ではおかしい、そんな藤竹を周りは変人と呼ぶ。
-あとがき-
前回1話と同じように、一人称視点で語る主人公と藤竹の2人だけの会話劇になりました。構図同じすぎて笑う。
今回は藤竹の人物像をちょっと深堀しようかなと思ったけどできんかった。いまんとこ変人としか分からない。
最後の電話はどういうことでしょうね(←白々しい)。「下駄少年」から察するに1話と関係あるっぽいですけど。
1話は3ヶ月も前に書いたものだけど、続きが書いてみたくなった。この2話の続きはまた時間空くかもしれません。
ここまで読んでくれた方へ。もし宜しければこの小説の感想をお願いいたします。読んでいただけてとても嬉しいです。ありがとうございました。