千華・2021-10-06
ピーチ・ハート
パラレル三国志
創作文
Bar.ピーチ・ハート 【Episode1】
「スプリングバンク15年 ブック・セラミック」
*******
都会(まち)の喧騒を離れた裏通りに、その店はある。
バー「ピーチ・ハート」。
気配り抜群でしっかり者の美形マスター趙雲氏と、ちょっぴり気の弱い天然癒し系のアルバイト姜維くんが切り盛りする、小さなカウンターバー。
今夜も、ちょっと疲れた男たちが羽根を安めにやってくる……。
*******
「ああ、遅くなった」
地下鉄の出口から猛ダッシュしているぼくの名前は、姜維。21歳独身。大学で考古学を学んでいる。
ぼくが全力疾走で向かっている先は、去年からアルバイトをしている「ピーチ・ハート」というバーだ。
――マスター怒ってるかな。
金曜の夜は、いつも閑古鳥が鳴いているこの店にしてはめずらしく、お客がたくさん来ることがある(ほんとに、たまにだけどね)。
だから、金曜日だけは少し早めに店に出るようにしているのだが、今日は思いがけない用事で学校に足止めされてしまったのだ。
時計の針は、もう7時半をまわっている。
ぼくは、とても優しそうな、でも本当は凄みのあるマスターの笑顔を思い浮かべて、ちょっぴり緊張した。
「マスター、すみません。遅くなっちゃって……」
できるだけ申し訳なさそうな声を作って、そっとドアを開けると、カウンターの向こうにはマスターのにこやかな笑顔(――この笑顔がとても怖い)。
磨きこまれたカウンターのいつもの席に、常連客が二人。
ここまでは、毎夜同じ光景だ。
ほっとして店内に入ったぼくは、奥のテーブル席に、見慣れない客が座っているのに気づいた。
「いらっしゃいませ」
思いっきり商売用の愛想笑いであいさつしたが、客はちらっと視線を動かしただけでにこりともしない。
(ちぇっ……。いやな感じ)
出勤早々肩透かしをくわされて、少々へこんでしまった気分を取り返そうと、わざと元気よく身支度を整える。
マスターは黙々と(来週のための)ビーフシチューを仕込んでいた。
「姜維くん、どうしたの今日は? 遅刻なんてめずらしいわね」
常連客のひとり、孔明さんは、もうすでにかなり出来上がっているらしい。
オカマである孔明さんは、毎晩8時半になるとお店に出る。
それまでの時間つぶしに、いつもここに寄ってくれるのだが、仕事に行く前にお酒なんて飲んで大丈夫なんだろうか。
「ちょっと学校でいろいろありまして……。
あ、マスター、本当にすみませんでした。連絡も入れられなくて」
「いいですよ、別に。これくらいのお客さまなら、私ひとりで十分お相手できますからね」
(わっ、やべえ。ほんとに怒ってるよ、マスター)
マスターがこういう丁寧な物言いをするときは、注意したほうがいい。
「ピーチ・ハート」のマスター趙雲さんは、いつも穏やかに微笑んでいて、滅多なことでは怒ったりしない。
けれど、縁なし眼鏡の奥の切れ長の目が、いつも表情ほどには笑っているわけじゃないのを、ぼくは知っている。
みんな、そのていねいな物腰と温かい雰囲気にだまされて?いるけれど、マスターは本当は、かなり熱くてシビアなひとなのだ。
ぼくは首をすくめて、タイミングよく空になっていた、もうひとりの常連であるフリーライターの張飛さんのグラスを取った。
「おかわりしましょうか?」
「んー、同じヤツ」
「まったくもう、どうしていつもウイスキーのウーロン茶割りばっかりなのよ!」
孔明さんが、柳眉をひきつらせて張飛さんをつつく。たわいない夫婦喧嘩を見ているようで、ぼくはこっそり笑ってしまった。
「あ、姜維くん。あちらのお客さまにも注文お聞きしてきて。もう、グラス空になってるはずだから」
マスターに言われたぼくは、ほんの少し顔を引きつらせて、くだんの客の前に立った。
年の頃は30代後半だろうか。隙のない服装といい、背筋を伸ばして座っている姿勢といい、よほどきっちりした人なのだろう。
「お客さま、何かお作りいたしましょうか」
聞いたとたん、帰ってきた言葉が、
「……バカめが!」
「はい?(ああ、びっくりした)」
「バカめが!バカめがっ!いったい私を何だと思っているのだ?」
「あの……お客さま?」
「私は教授だぞ」
「はあ(トホホ……)」
「それを何だ!まったく近頃の学生はなっておらん」
男性客は、手にしたグラスを乱暴にテーブルの上に叩きつけた。
マスターの目がキラリと光ったのを背中で感じて、ぼくは首筋の毛を逆立てた。
「はあ……申し訳ありません(って、なんでぼくが謝らなくちゃならないんだ?)」
注文も取れず、すごすごとカウンターに戻ってきたぼくは、マスターに泣きついた。
「マスター、ダメですよぉ。あのお客さま、こっちの言うことなんか全然耳に入ってませんよ」
「大学の先生? 初めてじゃないんでしょ」
孔明さんが頬杖をついたまま、夢見るような瞳で言う。
「東西大学の司馬懿先生。以前に同僚の方と二、三度お見えになったことがあります」
さすがにマスターだ。一度来た客の顔は、絶対に忘れない。
それにしても東西大学って、金持ちばっかりが通ってるので有名な「お坊っちゃま校」じゃないか。
「学校で嫌なことでもあったのかしらん。あんな仏頂面してたんじゃ、せっかくのいい男が台無しじゃない?」
「孔明さんは、誰を見てもいい男って言うよな」
ウイスキーのウーロン茶割りをちびりちびり舐めていた張飛さんが、にやりと笑う。
「ま、失礼ね! 少なくとも張さんには、言ったことないわよ」
何を思ったのか、張飛さんは急に立ち上がると、奥の客に声をかけた。
「ねえ、そちらの先生。こっちへきて一緒に飲りませんか」
「けっこうだ」
「取り付く島もないたあ、このことだね。……まあまあ、そう言わずに、酒は楽しく飲まなくちゃ」
そう言うと、張飛さんはウーロン茶割のグラスを持って、奥のテーブルに向かった。
「あわわ……張飛さんってば」
相手が堅苦しい大学教授でも、いっこうに物怖じしないところは、さすがにフリーライターである。
司馬懿先生の真向かいに座った張飛さんは、インタビューをするかのような口ぶりで尋ねた。
「何をそんなに怒ってるんです?」
「どうもこうもないわ! おとなしく授業を聞いているかと思えば、メールなんぞにうつつを抜かしおって!」
「あー、まあ今の若い連中は、スマホが三度の飯より好きですからなあ」
(あんたの授業が面白くないから、学生が遊ぶんだろーが!)
張飛さんの相づちを聞きながら、ぼくは思い切り心の中でツッコミを入れていた。
「いつもは代返ばかりで、まともに出てきておらん奴らが、今日はえらくまじめに出席しておると思っておれば……」
思い出すと余計に腹がたってくるのだろう。先生はこぶしを握り締めたまま、黙り込んでしまった。
そのとき。
「いいじゃないですか、先生。あなたには、教えるべき相手が前にいるんですから」
マスターがそっと、本の形をしたボトルと代わりのグラスをテーブルに置いた。
「先生のお好きなスプリングバンク15年、私からのサービスです。どうかご機嫌を直してください。ブックのボトルは、大学の先生にふさわしいでしょう?」
マスターがブックの中身をグラスに注ぐ。
琥珀色の液体がゆったりとただよい、芳醇な香りが立ち上る。
司馬懿先生は、驚いたようにだまってマスターの顔を眺めていたが、やがてにっこり笑うと、グラスを取り上げて口に含んだ。
「ああ、うまい」
先生はすっかり穏やかな表情になっている。
ぼくは時々、マスターが本当は魔法使いなんじゃないかと、真剣に思ってしまうのだ。
「マスター、ありがとう。やっぱり酒は楽しく飲まねばいかんな」
「そう、そして生身の学生を相手にするのも、楽しんでしまうことです」
マスターの言葉に、先生がはっと顔を上げた。
「そのうち授業も何もかも、パソコンの画面を通して――なんてことになりかねませんよ。そうなれば、学生に怒ることさえできなくなりますからね」
「………」
何となく、みんながしんみりしたところへ、勢いよくドアが開いて、ひとりの若い男性が入ってきた。
「あ、いたいた! やっぱりここか」
「キミは――、曹丕くんじゃないか」
司馬懿先生が驚いて立ち上がる。
曹丕と呼ばれた男性は、ぼくと同じくらいの年頃だろうか。学生だろうに、ブランドものの時計やネックレスをちゃらちゃらさせ、いかにも「いいところのお坊っちゃん」風だ。
彼はわき目もふらずまっすぐ先生のテーブルの横に進むと、小さく頭を下げた。
「先生、今日はすみませんでした」
「わざわざそんな事を言うために、こんなところまで来たのかね」
――ははあ、さてはこいつが、司馬懿先生の癇癪のタネだったんだな。
さすがに先生も、わざとしかつめらしい顔をしてみせたが、実際はもう、機嫌はすっかりよくなっているはずだ。
「今日は司馬懿先生の誕生日でしょう?今日、授業中にメールを回していたのは、そのことで友だちと相談していたからなんです」
「相談?」
「みんなで、先生の誕生日をお祝いしようって」
「何――?」
先生は、ぽかんとした顔で教え子を眺めた。
「さあ、先生、行きましょう! 別の店でちゃんと用意してあるんです。うちの親父が贔屓にしている高級クラブなんですよ。みんな待ってますから。こんな辛気臭いところはさっさと出ましょう」
「曹丕くん……」
突然の展開に、司馬懿先生は言葉も出ない。ただ、厳しそうな目元がうるんでいるのが、チラリと見えた。
「さあ、先生、早く早く」
勘定もそこそこに、司馬懿先生は曹丕という学生に引っ張られるようにして席を立った。
二人がそそくさと出て行き、ドアが閉まったところで、趙雲さんがつぶやいた。
「こんなところで……悪かったですね」
(きゃ~~っ! 怖いよ~~~)
ぼくはしばらく、マスターの顔をまともに見られなかった。
「いったい、何だったんだろうね、今のは」
「さあ」
嵐のように二人が去った後で、ぼくと張飛さんは、呆然と顔を見合わせていた。
カウンターでは、孔明さんがひどく酔っ払っている。
「口では難しいこと言ってても、中身はただのオヤジよね。ちょこっとでもいい男なんて思った自分が悔しいっ」
「孔明さんったら……(汗)」
今夜もこれからお勤めのはずなのだが、こんな状態で大丈夫なんだろうか。
「ま、いいわ。やっぱり私は今までどおり、マスター一筋で行くから」
「はあっ?」(←趙雲)
🥃了(初出 2005/9/3)
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拙サイトの2000ヒット自爆記念に、初めて書いたパラレル小説。
NOTEで時折架空出店している「Bar.ピーチハート」の記念すべき第1作です。
久々に、近々開店しようか…なんて考えているうちに、元の小説を読んでいただきたくなって、アップしてみました。
毎度長くて申し訳ありません。
登場人物の名前だけは三国志からの借り物ですが、元ネタは古谷三敏さんのマンガ「Bar.レモン・ハート」です。
張飛さんのキャラなんて「松田さん」まんまのパクリでごめんなさい。
孔明さんをオカマにしちゃってごめんなさい。
色々すみませんm(__)m
🥃スプリングバンク15年 ブック・セラミック
我が家にある「ザ・ウイスキー」という文庫本には、濃い藍色のブック型容器に入ったスプリングバンクの15年ものが掲載されているのですが、実はこの本かなり古くて、現在ではスプリングバンク15年は製造されていないようです。……すみません。
ほかのお酒に差し替えようかとも思ったのですが、ジェントルマン司馬懿先生には、やはり正統派スコッチウイスキーのシングルモルトが、一番ぴったりな気がしますし。
スプリングバンク8年は、昔よく飲みましたが、口当たりがよくてとても飲みやすいお酒でした。
🥃
Bar.ピーチ・ハート 【Episode8】
「花 束」
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都会(まち)の喧騒を離れた裏通りに、その店はある。
バー「ピーチ・ハート」。
気配り抜群でしっかり者の美形マスター趙雲氏と、ちょっぴり気の弱い天然癒し系のアルバイト姜維くんが切り盛りする、小さなカウンターバー。
3月年度末は、出会いと別れ、そして旅立ちの季節。
さて、今夜のお客様は……。
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「静かな夜ですね」
カウンターに座った上品な中年女性が、ぽつりとつぶやく。
時折、同僚と一緒に飲みに来ていた記憶があるけれど、目立つ感じの人でもなかったので、あまり印象に残っていなかった。
その女性が「静かな夜」と言ったのも道理で、今夜はめずらしく常連客の姿がない。
孔明さんは、今日から勤め先の慰安旅行(オカマさんばっかりの団体旅行って、ぼくには想像つかないんだけど;;)。
張飛さんは、季節遅れのインフルエンザにかかったとかで、しばらくの間、趙雲マスターから出入り差し止めになっていた。
どこか艶めいた春の気配がただよう店内には、趙雲マスターとぼく(アルバイトの姜維)、そしてその女性の3人だけだった。
「今日、30年間勤めた職場を退職してきたんです」
女性は、グレンフィディックのロックが入ったグラスをカウンターに置くと、ほっとため息をついた。
「そうですか。司馬さま、長い間お疲れ様でした」
マスターの言葉を聞いて、ぼくはようやく、その女性が司馬遼子さんという名前だったことに気づいた。
「定年っていうわけじゃないのよ。同期の人たちがみんなまだがんばってる中で、私だけ先に『一抜けた』しちゃって、申し訳ない気もするんだけど……」
「皆さんそれぞれに、事情もおありでしょうから」
「優しいんですね、マスター」
遼子さんの顔に、ほんの少し寂しそうな笑顔が浮かぶ。
「ああ、でもなんだかほっとしたわ。肩の荷が下りたっていうか――。そうしたら急にお酒が飲みたくなって、気がついたらここに来てしまってたの」
「大切な日に、うちの店を思い出していただいて、光栄です」
「ほんと。家に帰るより先にお酒を飲みに来るなんて、私って不良主婦ね」
「姜維くん、ちょっと」
マスターに呼ばれて、ぼくは奥のストックへ入っていった。
「向かいの花屋さんへ行って、花束を買ってきてくれませんか」
「花束……ですか?」
「今の時間ならまだ開いてるはずですから。女性の退職祝いだと言えば、適当に見繕ってくれるでしょう」
マスターの意図に気づいたぼくは、さっそく花屋へ行き、小さな花束を調達してきた。花の選択はお店の人に任せたので、マスターの気にいるかどうか自信はなかったけど。
店に戻ってくると、遼子さんはマスターと小説の話で盛り上がっていた。
「それじゃ、マスターはハードボイルドが好きなのね?」
「レイモンド・チャンドラーは、私の学生時代からのバイブルですよ」
「やっぱりね、っていう感じだけど、似合いすぎてて意外性がないわ」
酔いも手伝ってか、遼子さんの笑顔がしだいに華やいでいく。
「司馬さまは歴史小説がお好きでしたね」
「ふふ、マスターったら、つまらないことをよく覚えてるんだから」
「うちの常連客の張飛さんを相手に、幕末の話題で盛り上がっておられたでしょう」
「きゃあ、恥ずかしい;;」
大仰に照れつつも、まんざらでもないような……。(^_^;)
「以前、自分でも、小説のまねごとのようなものを書いているとおっしゃってましたね。お仕事を辞められたのは、それもあるんですか?」
マスターの言葉に、遼子さんの頬が赤く染まった。
「恥ずかしいから、周りにはずっと内緒にしてたんだけど、小説家になるのが子どもの頃からの夢だったの。ほんとに今さらだけど、夢を見るのに遅すぎることもないよねって思うと、がまんしきれなくなっちゃった」
――まあ、しばらくは大人しく専業主婦してるつもりだけど、と笑いながら、彼女はグレンフィディックを飲み干した。
「私のわがままを聞いてくれた主人や子どもたちには感謝してるのよ」
春の夜に交錯するのは、少しの寂しさと、遥かな希望と。
新たな出発(たびだち)へとけじめをつけた遼子さんの笑顔が、いっそすがすがしい――。
「では、私から司馬さまの前途を祝って、一杯おごらせていただきましょう」
マスターが、とっておきの一杯を遼子さんの前に置いた。
「司馬さまのシンデレラ・ドリームの実現を願って。どうぞ、『シンデレラ』です。ノンアルコールのカクテルなので、お口に合うとよいのですが」
「まあ、美味しい!目が覚めるわ。これって、飲みすぎるな、ってことかしら、マスター?」
一口飲んだ遼子さんは、いたずらっぽく片目をつぶってみせた。
「たまに羽目をはずすのは良いことだと思いますよ。ただ、お酒も過ぎると体をこわします。特にお一人のときは、ほどほどになさってくださいね」
「魔法が解けないうちに、家に帰りなさい、ってことね」
馬車がかぼちゃに変わるまでには、まだもう少し時間があったのだけれど。
遼子さんは、マスターの心づくしの花束に感激して家路についた。
いつか、彼女の書いた本が書店に並ぶ日がくるかもしれない。
新しい春に、乾杯。
🥃 了(初出2011/3/31)
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この小品の初出は2011年3月31日。
私事ですが、この日、30年間勤めた職場を退職しました。不況の折り、もったいないと人にも言われ、自分でもそう思う気持ちもあったのですが、いろいろ考えた末に決断しました。
といっても、このお話の遼子さんのように、大きな夢にチャレンジするなどという気概はさらさらなく、ただずっと憧れていた専業主婦になるというのが、当時の私の選択肢でした。
自分自身を励ます意味で書いたのが、このSSです。
ちょっと寂しいような、すがすがしいような。
定年退職なら、それなりに感慨もあり、寂しさもあるのでしょうが、私の場合はむしろ開放感の方がまさっていましたね。
新しい春に乾杯!
🥃 カクテル シンデレラ
ノンアルコールカクテルの一つ。サンドリヨン、もしくはサンドリオンという別名もある。
オレンジジュース 60ml、レモンジュース 60ml、パイナップルジュース 60ml をシェイカーに入れてシェイクし、丸底のカクテルグラスに注ぐ。氷を入れ、パイン・スライス、オレンジ・スライス、レモン・スライスを飾る。ソーダで割ってロングカクテルのスタイルにする場合もある。
🥃
宝島After…
「約 束」 (2)
カモメたちの鳴く声で目が覚めた。
もう、辺りはすっかり明るくなっている。
しばらく夢見心地でぼんやりしていたが、ふいに、ベッドに寝ているのが自分ひとりだと気づいて、エリーは飛び起きた。
昨夜、確かに隣にいたはずの男の姿が消えている。
「グレー。どこ?」
家中を探し回ったが、懐かしい恋人はどこにもいなかった。
「どこかへ出かけたのかしら。そのうち帰ってくるわね」
気を取り直して店の掃除を始めたエリーだったが、カウンターの上に置かれたびんとグラスを目にしたとたん、彼女の全身は凍りついた。
ラム酒のびんもグラスも、彼女が昨夜、棚から取り出して置いたそのままだったのだ。
「減ってない――」
真夜中に彼が帰ってきて、ここに座って、このグラスでラムを飲んだはずなのに……。
ラム酒のびんは封が切られておらず、グラスも汚れていなかった。
「グレー? うそでしょ……」
そんなはずないわ。
あなたは昨夜、確かにここにいたじゃない。
ラム酒を飲んで、あたしにキスして、あたしを抱いてくれたじゃない。
夢じゃないわ。
あなたの温もりが、今もこの手に残ってる。
「夢なんかじゃない!」
エリーは両手で顔を覆うと、その場に座り込んだ。
「約束したんだもの。絶対に戻ってくるって」
泣き崩れるエリーの胸元で、チリンと乾いた音がした。
「………!」
あわててまさぐる指先に触れたのは、桜貝のネックレス。グレーが着けてくれた――。
それは確かに、昨夜と同じひんやりとした感触で、エリーの首すじを飾っていた。
***
グレーが戦死したという知らせが、彼の戦友によってエリーの元に届いたのは、それから三ヶ月近く経ってからのことだ。
グレーが死んだのは、やはりあの夜だったそうだ。
彼は、窮地に陥った味方を救うため、万に一つも生還の望みのない作戦に志願したのだという。
そして見事に務めを果たし、自らは敵の銃弾に斃れたのだった。
「それが不思議なことに――」
と、その男は声を落とした。
「ヤツが死ぬ前の日、自分がもし死んだらあんたに渡してくれって、桜貝のネックレスを預かったんだ。生きて還れるとは思えない決死行だったからな。覚悟してたんだろう」
「………」
「ところが、確かにポケットに入れておいたはずのそのネックレスが、ヤツの死んだ後、煙のように消えちまっててよ。ずいぶん探したんだが、どうしても見つからねえ。そんな訳で、あんたに渡せなくなっちまったんで、それを謝りたくてね……って、おい、大丈夫か?」
話の途中から、ぼろぼろと泣き出したエリーに、男は慌てた。
エリーの涙は止まらない。
すすり泣きは嗚咽になり、やがて号泣になった。
「すまねえな、エリーさん。身体を大事にな」
泣き止まないエリーに手を焼いた男は、挨拶もそこそこに、そそくさと帰っていった。
***
――やっぱり、帰ってきてくれたのね。あの晩、あんたは、本当にここにいたんだ……。
胸元のネックレスを握りしめながら、エリーは泣いた。
胸いっぱいに、愛する男への想いがあふれている。
グレーはきっと、最後の最後まで、エリーとの約束を守ろうとしてくれたのだ。彼らしい誠実さで。
お帰りなさい、グレー。
魂だけ、懐かしいこの場所へ。
あたしの胸の中へ――。
⚓️ 完
アニメ「宝島」には、ほんとに熱くてかっこいい男たちがいっぱい登場しましたが、中でもやはり、シルバーとグレーが飛びぬけてステキでした。
当時、私たち仲間内では、「男の理想はシルバー、ダンナの理想はグレー」というのが合言葉だったなあ(笑)。
原作では、結婚して幸福な家庭を持ったことになっているグレーですが、アニメでは故郷アイルランドの独立戦争に身を投じ、壮絶な最期を遂げています。
いつもジムのことを優しく見守っていたグレー。
分かっていて、貧乏くじばかり引いてしまうような男。
最期の瞬間まで、シルバーに近づこうともがきながら…。
かれもまた、シルバーの中に男の理想を求め、最後までシルバーの生きざまに自分の人生を重ねて生きたのですね。
グレーがなぜダンナの理想かというと、自分を待っている女がいたとしたら、絶対にどんなことをしてでも帰ってきてくれるひとだと思うからです。
決して裏切らない、たとえ亡霊になってでも、彼ならきっと帰ってきてくれる――。
エリーは幸せだったでしょうか。
でも、やっぱり「生きて」帰ってきてほしかったかな。
自己満な二次創作を最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m
Bar.ピーチ・ハート 【Episode2】
「水曜日の客」
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都会(まち)の喧騒を離れた裏通りに、その店はある。
バー「ピーチ・ハート」。
気配り抜群でしっかり者の美形マスター趙雲氏と、ちょっぴり気の弱い天然癒し系のアルバイト姜維くんが切り盛りする、小さなカウンターバー。
今夜も、ちょっと疲れた男たちが羽根を安めにやってくる……。
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今日は水曜日。
時刻は夜の8時50分を過ぎたところだ。
バー「ピーチ・ハート」のマスター趙雲さんは、黙々とオン・ザ・ロック用の丸い氷を削っている。
ぼく(姜維)はというと、棚のグラスを一つずつ取ってはきれいに磨く、という少々退屈な仕事を繰り返していた。
BOZEのスピーカーから低く流れるジャズだけが、時を刻んでいる。
水曜日のこの時間の、いつもの光景――。
「マスター、腹減っちゃった。何か作ってくんない?」
突然、カウンターでいつものようにウイスキーのウーロン茶割りを飲んでいた張飛さんのだみ声が、静寂を破った。
「トマトソースのスパゲティがいいなあ。大盛りで」
「張飛さん、すまないんだけど――」
と、マスターはちょっと翳のある声で言った。
「もう少し待ってくれませんか。もうすぐ9時なので」
「あん? 9時? ああ、そうか、徐庶さんね。分かった、後でいいよ」
「すみませんね」
マスターは、本当にすまなさそうに頭を下げると、再び氷を削り始めた。
毎週水曜日だけ、9時きっかりに店に現れる客がいる。
その客は、必ず最初にワイルド・ターキーをロックで一杯だけ飲む。
ぼくがこの店でアルバイトをするようになってから、その習慣は一度も破られたことがない。
その一杯目のグラスに入れるための、丸くて大きな氷を、マスターは削っているのだ。
もうすぐいつもの客が、ドアを開けて入ってくるだろう。
タイミングを見計らったように、マスターの手元で、地球のように丸い氷が出来上がる……。
「いらっしゃいませ」
いつも通り、9時ちょうどにドアが開いた。
入り口に立っているのは、「水曜日の客」徐庶さんだ。
トレンチコートに中折れ帽子、おまけにサングラスという、とんでもなく時代錯誤ないでたちなのに、不思議と浮いて見えないのはなぜだろう。
コートも帽子も、徐庶さんの身体にしっくりなじんでいて、そこだけが、まるでハンフリー・ボガート主演のモノクロ映画のようなたたずまいなのだ。
「お待ちしてましたよ。さあ、こちらへどうぞ」
カウンターの上に、ロックグラスとワイルド・ターキーのボトルを置こうとしたマスターに、徐庶さんはあわてて声をかけた。
「あ、マスター。すまない、今日はいいんだ」
「え?」
「ちょいと野暮用があってね。先にそいつを片付けてくる。ターキーは、それが済んでから、ゆっくりと楽しませてもらうよ」
そう言うと、徐庶さんは、入ってきたときと同じように静かに店の外に出た。
「絶対に寄ってくださいね。何時まででも、お待ちしてますから」
マスターの呼びかけに、徐庶さんは、背中のまま右手を軽く挙げて答え、夜の街に消えていった。
それから――。
趙雲さんは、30分おきに氷を削っている。
徐庶さんが、いつ店に戻ってきてもいいように。
あいかわらず、客は張飛さんひとりだけ。
徐庶さんが出ていってからというもの、ますます無口になってしまったマスターに、とうとう張飛さんは痺れをきらしたらしい。
「ねえ、マスター。腹減ったんだけど」
「………」
「ねえ、お願い、何か食わして。バカ盛りのトマトスパゲティとかさ」
「………」
「黙ってないで、何とか言ってよ。気配りの趙雲マスターだろ」
「姜維くん、そのうるさい客に、トマトソース大盛りでぶっ掛けてくれる?」
珍しくきつい冗談に振り返ると、案の定、縁なし眼鏡の奥の目は、笑ってはいなかった。
「え? 掛けていいんですかぁ」
「冗談ですよ。冷凍庫からソース出して、スパゲティ茹でかけて」
「はーい」
三個目の氷が見事な球形に仕上がったところで、マスターはようやくいつもの穏やかな笑顔に戻り、トマトソースの仕上げにかかり始めた。
「ねえ。徐庶さんてさあ、なんでいつもワイルド・ターキーの、しかもオン・ザ・ロックなの? バーボンは最初の一杯だけでしょ。後はジンとかウオッカとか、スピリッツ派じゃない? 徐庶さんて」
たっぷり二人前はあるスパゲティを平らげながら、張飛さんがマスターにしつこく質問している。
フリーライターという職業柄、何でも聞かないと気がすまないというのは分かるけどね……。
「徐庶さんが昔お世話になった方が、いつもターキーをロックで飲んでおられたんだそうですよ」
「ふ~~ん。お世話になった方ねえ。でも、それってちっとも答えになってないよ。……でさ、実際のとこ、どういう関係だったの? その人とは」
あんまりしつこいと、マスターに嫌われるよ、とぼくは余計な心配をしている。
「………」
「だいたいさあ、徐庶さんてふだん何してるの? ここではしょっちゅう顔を合わせてるけど、仕事とか家庭のこととか、全く謎の人なんだよね。なにか、やばい事でもやってるんだろうか。結婚は……まさか、してないよね?」
ハラハラしながら二人のやりとりを見守っていたぼくは、趙雲さんの眼鏡がきらりと光ったような気がして、思わず姿勢を正してしまった。
「張飛さん。それ以上何か尋ねたら、椅子ごと外へ放り出しますよ! そういうことは、本人に直接聞けばいいでしょう」
ほーら、言わんこっちゃない。
趙雲さんの迫力に、さすがの張飛さんもたじたじだ。
「あー、そう、そうだったね。マスターが言うと冗談には聞こえないから、怖いんだよ。はいはい、分かりました。そう睨みなさんなって。もう聞かないから」
「分かっていただければ結構です」
趙雲さんのえらいところは、このままでは終わらないところだ。
子どものように叱られっぱなしでは、張飛さんだって気まずいだろう。
まず、張飛さんのためにとっておきのジェラートをデザートに出すと、趙雲さんは、静かに語り始めた。
「私も、それほど詳しいことを知っているわけじゃありません。何しろ、めったなことではプライベートなことなど話す人じゃないですからね。ただ、この店に初めて来られたときからずっと、一杯目はワイルドターキーのロックですから、さすがに気になりましてね。あるとき遠慮がちに尋ねてみたんです」
「なあんだ。マスターだって知りたかったんじゃない」
間髪を入れずに、突っ込む張飛さんに、
「張飛さんみたいに、単なる好奇心じゃありません!」
と、マスターはぴしゃりと言った。
「私は、酒を人様に飲ませる商売をしているものとして、お客さまの嗜好や好き嫌いをきちんと把握しておきたいんですよ」
うん、うん、とジェラートのスプーンをなめながら、張飛さんは気のない相槌をうった。
「それで、徐庶さんは話してくれたの?」
「ええ、まあ」
一呼吸置いて、
「――聞きたいですか?」
趙雲さんの顔が、いたずらっ子のように輝いた気がした。
「聞きた~~~い! フリーライター魂が騒ぎますよ」
張飛さんと一緒に、ぼくも心の中で「聞きたい!」と叫んでいた。
その後の、趙雲さんの話によると。
徐庶さんは、幼い頃に両親をなくし、施設で育ったらしい。
お決まりの転落人生で、若い頃は、かなりアブナイ事もやっていたようだ。
そんな彼を手元に引き取り、やくざな世界から足を洗わせてくれた人がいた。
その人の助力で、徐庶さんはアメリカの大学を卒業し、ひとかどの事業を起こすことができたのだという。
その恩人が、いつも飲んでいたのがワイルド・ターキー。ロックグラスに丸い氷を入れて、ゆっくりと溶けていくのを楽しんでいたそうだ。
徐庶さん自身は、ウイスキーよりもジンやウオッカなどのスピリッツ系が好きなのだが、恩人に敬意を表して、いつも一杯目はワイルド・ターキーのオン・ザ・ロックを飲むことにしている、というのだった。
「ふーん、なかなかいい話だねえ」
「ぼく、今までどことなく徐庶さんって怖い感じがしてたんですけど、本当はすごくいい方なんですね」
ぼくは、強面の徐庶さんの外見を思い浮かべた。
あのサングラスの下には、案外涼しげで、優しそうな眼が隠されているのかもしれない。
「フリーライター魂は満足しましたか?」
「えーえー、十分満足しましたよ。でも、マスター、まだ話してないことがあるんじゃないの?」
「たとえば?」
「んー。徐庶さんって、やっぱり今もアブナイ仕事やってるんじゃないか、とかさ」
「どうしてそう思うんです?」
「いやあ、マスターがあんまり心配しすぎだからさ。つい、ね」
上目づかいに見つめる張飛さんに、マスターはふっと謎めいた微笑を浮かべた。
「ま、後はご想像におまかせしましょう」
ワイワイ盛り上がっているうちに、マスターの手元では五個目の氷が出来上がっていた。
そのとき。
ドアが静かに開いて、「水曜日の客」が顔をのぞかせた。
「遅くなってすまない。まだ、いいかい?」
「もちろんですとも。まだ、水曜日ですから」
マスターは、徐庶さんのための席に、ワイルド・ターキーのボトルとロックグラスを置くと、今仕上げたばかりの氷を入れた。
「どうぞ、こちらへ。お待ちしておりました――」
🥃了(初出 2005/10/13)
*******
「ピーチ・ハート」シリーズ第2弾をお届けします。
今夜は「水曜日の客」徐庶さんがゲスト。
というかこの人、本当は常連客のつもりのキャラだったんですけど。
今回は、ちょっと姜維くんの影が薄かったですね。
どこのお店だったか忘れましたが、オン・ザ・ロックを注文すると、バーテンさんが丸く削った氷をグラスに入れてくれて、それだけで感激した記憶があります。
普通の氷と違って、表面積が小さい分、なかなか溶けないから、酒が薄まりにくく、ゆっくりと楽しめるというわけ。
そういえば長い間、バーなんて行ってないなあ。
昔よく行った店は、ピアノが置いてあって、興の乗ったお客さんが勝手に弾いたりしていました。
カウンターに座って、まず一杯目を何にしようか、と考えるのが楽しかったものです。
🥃ワイルド・ターキー
アメリカン・ウイスキーは、原料・製法によりタイプが異なる。
アルコール分80度未満で蒸留し、内側を焦がした新しいオーク樽で熟成させた場合、原料にとうもろこしを51%以上含んでいればバーボン・ウイスキーとなり、ライ麦を51%以上含んでいればライ・ウイスキーとなる。
ただし、とうもろこしを80%以上含み、樽熟成させないか、熟成させるにしても内側を焦がしていない新樽か、内側を焦がしたオークの古樽を使ったものは、コーン・ウイスキーとなる。
七面鳥の絵柄のラベルで有名なワイルド・ターキーは、代表的なライ・ウイスキーである。
アルコール度数50.5度の非常に強い酒だが、口当たりはなめらかで、独特のまろやかさがある。
🥃
宝島After…
「約 束」 (1)
――だめ。寝付けないわ。
港から吹きつける風が、ドアや窓をガタガタと鳴らしている。
こんな夜は、思い出が胸の底からいっぱいあふれてきて、眠れない。
ベッドの中で転々としていたエリーは、ガウンを引っ掛けると、寝室を抜け出し、階段を下りた。
ランプに灯をともすと、見慣れた情景が浮かび上がった。
無造作に置かれたテーブルと椅子たち。壁いっぱいに造り付けられた棚に、所狭しと並んだびんやカップ。磨きこんで黒光りしているカウンター。
港に停泊する船の乗組員たちを相手にする、小さな港町の小さな酒場。
ここがエリーの仕事場、そして住まいだ。
去年の暮れに父親が死んでからは、彼女が一人で切り盛りしている。
エリーは、カウンターに腰掛けて、ぼんやりと棚に並んだラム酒のびんを眺めていた。
何を見るでもなく漂っていた視線が、一番下の棚の右端まできて、止まった。
そこにあるのは、ありふれたラムのびんと、ちょっと小ぶりのグラス。
「………」
彼女は黙って立ち上がると、そのびんとグラスを取り上げ、そっとカウンターの上に置いた。
「いつ戻ってきてくれるの? グレー」
声に出したとたん、懐かしい面影が胸の中ではじけた。
このグラスも、あたしも、こんなにあんたを待っているのに――。
いつもこの席に座り、このグラスでラムを飲んでいた男の姿が鮮やかによみがえり、エリーはガウンの袖でそっと目蓋をぬぐった。
***
「行ってしまうのね」
今にも泣きそうな顔のあたしに、あなたはいつもと変わらない笑顔で言った。
「船乗りは海に出るのが仕事さ」
「そう。そして船乗りの女は、男が帰ってくるのを港で待つのが仕事……」
「わかってるじゃねえか、エリー」
そうよ、わかってる。
あなたはいつだって、あたしのところへ戻ってきてくれたわ。
ずいぶん危険な目にもあったらしいけど、それでも、必ず元気な顔で帰ってきてくれた。
だから今度も、きっとここへ、あたしのところへ、無事に帰ってくる――。
でも、あたしは知ってるの。
今度の旅が、いつもみたいな航海じゃないってことを。
あなたの故郷が独立のために戦っていて、その戦争に加わるために行くんだってことも。
……アイルランド。
あなたが生まれた国。
以前の航海で手に入れた莫大なお宝も、すべて独立運動のために寄附したんだってね。
勝ち目のない戦争だって、父さんは言ってた。
それでも、あなたは行くのね。
昔からそうだった。いつも弱い方、旗色の悪い方に味方して。
分かっていながら、貧乏くじを引いてしまうようなひとだったわ。
「帰ってくるよ、エリー」
「………」
「約束するよ。何があっても、どんなことをしても、絶対にお前のところへ帰ってくる」
あなたは、とても優しくて哀しい目であたしを見つめた。
そして、旅立っていった。
あれからもう、三年も経ったのよ。
手紙は一度来ただけ。
無事でいるの? 怪我をしたり、病気になったりしていない?
どうしてるの? あたしのグレー。
***
ふいに、ランプの灯芯がジジ……と音を立て、風もないのに揺らめいた。
「グレー? あなたなの?」
なぜそう感じたのかわからない。ただ訳もなく、胸が高鳴る。
エリーは急いで立ち上がると、走っていって店の扉を開けた。
「あ……」
そこには、男が立っていた。
長旅の疲れかちょっとやつれて、汗と埃にまみれたくたびれた服で、けれどとびきりの笑顔で。
「エリー、ただいま」
「グレー!」
一瞬、呆然とし、次の瞬間、エリーはグレーの胸に飛び込んでいた。
何も言葉が出てこない。ただ、涙があふれて、とめどなくあふれて――。
――夢じゃないのね。
――夢じゃないさ。
――ほんとに帰ってきてくれたのね。
――約束したろ。絶対に帰ってくるって。
カウンターのいつもの席に座り、グレーは、彼のグラスで彼のラム酒を飲んだ。何杯も。
この懐かしい光景を、何度思い描いては涙したことだろう。
グレーの隣に座ったエリーは、黙ったまま、身体の芯からにじみ出てくる喜びをかみしめた。
それから、二人は見つめあい、口づけをかわし、エリーのベッドで長い夜を過ごしたのだった。
「エリー。長い間待たせてすまなかった」
濃密な抱擁の後、グレーがおずおずと差し出したのは、桜貝のネックレス。そっとエリーの胸元に着けてくれた。
ひんやりとした感触が、火照った肌に心地いい。
「海の香りがするわ」
「いつもお前のことを思っている。愛しているよ、エリー」
後ろから抱きしめられて、エリーは甘い吐息をつく。
「もう、離さないで……」
返事の代わりに、彼女の首筋に落ちた冷たいしずく。
(――え?)
驚いて振り返ると、男の目が濡れていた。
「どうしたの?」
「………」
エリーの問いには答えず、グレーはもう一度、彼女の身体を強く抱きしめた。
⚓️ 続きます
Bar.ピーチ・ハート 【Episode3-1】
「孔明さんの憂鬱」 前編
*******
都会(まち)の喧騒を離れた裏通りに、その店はある。
バー「ピーチ・ハート」。
気配り抜群でしっかり者の美形マスター趙雲氏と、ちょっぴり気の弱い天然癒し系のアルバイト姜維くんが切り盛りする、小さなカウンターバー。
今夜も、ちょっと疲れた男たちが羽根を安めにやってくる……。
*******
その日は、12月半ばとは思えないくらい暖かくて、穏やかな夜だった。
月曜日の7時過ぎ。
ピーチ・ハートのカウンターには、いつものように常連客の孔明さん。そして一番奥のテーブルでは、初めての二人連れの男性客が、黙ってビールを飲んでいる。
この時期、街にはイルミネーションやクリスマスソングがあふれていたが、ここはそんな世間の喧騒とは別世界だ。
静かな店内にはボサノバのメロディーが低く流れ、カウンターの上に飾られた小さなツリーだけが、季節を主張していた。
「ねえマスター、一度くらい付き合ってくれてもいいじゃない?」
カウンターに頬杖をついて、ブランデーのグラスを揺らしていた孔明さんが、出し抜けに言った。
今日は、まだそれほど酔っていないはずなのに……。
趙雲マスターを見つめる孔明さんの目がいつになく真剣で、ぼく(姜維)は柄にもなくドキドキしてしまった。
だけど、孔明さんの情熱的な視線を真正面から浴びながらも、趙雲さんは落ち着いたものだ。
「毎日こうやって、親しくお付き合いしてるじゃありませんか、差し向かいで」
(ひょえ~~。さすがだよな~~)
こんなふうに、どんな場面もさらっとあしらえるようにならなきゃ、プロのバーテンダーとはいえないんだろう。
「だから、そうじゃなくて――」
孔明さんが、もう我慢できない、というふうに身を乗り出しかけたその時。
狙いすましたようにドアが開いて、もう一人の常連客 張飛さんが入ってきた。
「よっ。孔明ちゃん、またまたマスターを口説いてるね。そして、今日もあえなく撃沈?」
「ちょっと、張さん。せっかくいいところだったのに、じゃましないでよ」
孔明さんは、ほうっとため息をつくと、椅子に腰を落とした。
「やっぱりなあ。その様子じゃ、ずいぶん駄々をこねてたんだろ? さしずめ俺は、マスターの救世主ってわけだね」
大げさにピースマークを作って、孔明さんの隣に座った張飛さんに、ぼくは、あいまいな笑みを浮かべながらおしぼりを差し出した。
ほんの少し――。
孔明さんが気の毒に思えたんだ。
「だいたい、お酒の弱い張さんが、どうして毎日ここへ通ってるわけ? まさかあなたもマスターを狙ってるんじゃないでしょうね」
思いもかけない突っ込みに、張飛さんは、口に含んだウイスキーのウーロン茶割りを噴き出しかけた。
「げふっ。ちょっ……冗談は、よしなさいよ」
それでも孔明さんはしつこく食い下がる。
まるで、さっきの仕返しといわんばかりに。
「――もしかして姜維くん狙い?」
(おいおい……)
孔明さんのウインク攻撃に、今度は僕がずっこけそうになった。
「そんなわけないでしょ。俺はノーマルだよ、ノーマル」
「どうだか」
「マスター、この酔っ払い何とかしてくれよ」
さすがに辟易したのか、張飛さんはマスターに、助けを求めるかのように目配せした。
マスターは、そんな二人のやり取りを眺めながら、相変わらずニコニコしている。
「張飛さんは、私の高校の先輩なんですよ」
「あら、初耳よ、そんなこと」
大げさに驚く孔明さんに、張飛さんが得意げに言った。
「つまりさ、かわいい後輩の店がつぶれないようにだね、毎日サクラで来てあげてるのよ。ボランティアってやつだね」
「そうそう。ウーロン茶割り一杯でねばっていただいてますから」
「かーっ! いつもながらキツイね、マスターは」
張飛さんが趙雲マスターの先輩だというのは、ぼくも聞いたことがある。
高校時代同じ山岳部で、生死をともにした仲だっていうのが張飛さんの自慢だった。ちょっと大げさすぎる気はするけどね。
「ま、ほんとのところは、一人でマンションにいてもつまんないからさ。ここだとエアコンもきいてるしね。腹減ったっていえば、何か食わしてくれるし」
「どうせそんなことだろうと思った」
もう一度グラスを揺らして、孔明さんはほうっと小さく息をついた。
そのとき、何気なく腕時計に目を落とした張飛さんが、孔明さんをつついた。
「孔明ちゃん、もうそろそろ時間じゃないの?」
「やだ、もうこんな時間? 大変、遅れたらママに叱られちゃう」
孔明さんの出勤時間は8時半。ここからお店までは20分かかる。時刻は8時を少しまわっていた。
孔明さんは少しあわてて荷物をまとめ、毛皮のコートを羽織った。
「どうやら今年も、マスターを落とすのは無理みたいね」
カウンターの上のツリーをそっと手に取ると、孔明さんは、独り言のようにつぶやいた。
赤茶色に染めたロングのストレートヘアが、寂しげに揺れる。髪を掻き揚げるしぐさが妙に色っぽい。
「あーあ。今年のイブもひとりかあ。クリスマスもお正月も来なけりゃいいのに」
すねたようにうつむく孔明さんに、マスターが優しい笑顔を向けた。
「イブの夜もピーチ・ハートは営業してますよ。どうぞいらしてください」
「んー、もう、マスターのいじわる! こうなったら、イブの夜は私だけの貸し切りにしちゃおうかな。姜維くんも、その日は休んじゃっていいわよ」
「………」
突然矛先を向けられたぼくは、ただ笑っているしかなかった。
「それじゃ、マスター。イブの夜を楽しみにしてるわ~~」
孔明さんが出て行った後も、ぼくはしばらく茫然とその場に固まっていた。
(おいおい、どうしちゃったんだ、今日のぼくは。何でこんなに孔明さんが寂しげに見えるんだよ?)
――マスターも冷たいよな。
なんて、いつもなら思いつきもしない感情が頭の隅っこに引っ掛かっているのも、孔明さんの毒気にあてられたせいだろうか。
「すんません。そっちに移っていいですか?」
孔明さんが出ていってしばらくして、奥のテーブルに陣取っていた二人の客が、カウンターに移ってきた。
年は四十前後だろうか。
二人ともどことなく胡散臭い。いわゆるちょっと違う世界の人、っていう匂いがするのだ。
一人は見るからに強面のサングラス。もう一人は、無精ひげを伸ばした、ほんの少しだけ愛想のよさそうな男だった。
そんな二人を前にして、ぼくはかなり緊張したけれど、マスターの態度は普段とまったく変わらない。
「今の人、孔明っていう名前ですよね?」
無精ひげの男が、おもむろに尋ねてきた。
「え? ええ、そうですが、何か?」
「新宿のゲイ・バー『成都』に勤めてるとか。けっこう売れっ子らしいじゃないですか」
「………」
「ところで彼、どこに住んでるか知ってます?」
「――お客さま」
趙雲さんの声に心なしか緊張が走った。
ぼくもカウンターの奥で、思わず耳をそばだてる。
「そういうことは、ご本人に直接お尋ねになったらいかがです? もし知っていたとしても、私は、自分の店のお客さまのことを他の方に話すような失礼なまねはいたしませんから」
「ああ、すまねえ。誤解させちまったようだな。実は、俺たちは興信所……っていうか、探偵なんだ」
サングラスをかけた方の客が、初めて口を開いた。外見通りの、凄みのある声だ。
「探偵さん……ですか?」
男が胸ポケットから取り出した名刺を受け取ったマスターの手元を、ぼくはしげしげとのぞき込んだ。
差し出された名刺には「夏侯探偵社 惇&淵 どんな難問も解決!」とあり、しかもごていねいに、にっこり笑った二人の男の似顔絵が添えられている。
(うへ~~、悪趣味)
ふざけた名刺だ。ぼくもマスターも、なんとなく拍子抜けしてしまった。
「俺が惇、そっちが淵だ。調べてほしいことがあったら、いつでもどうぞ。何でも引き受けるぜ」
「依頼料も、ご相談に応じますよ」
淵と呼ばれた男が、無精ひげの伸びた口元に、満面の営業用愛想笑いを浮かべて付け加えた。
「――いえ、間に合ってます」と、マスター。
「お、俺も……」
張飛さんも、呆気にとられながら、こくこくと頷いた。
それから、二人の探偵が聞かしてくれた話は、ぼくたちを驚愕させるのに十分な、とんでもない内容だった。
「ある女性に、3年前に失踪したご主人を捜してほしいと依頼されまして」
無精ひげの男(淵)が切り出した話を、サングラスの男(惇)が引き取った。
「そのダンナによく似た人を『成都』で見かけた、っていう情報を手に入れたのはいいが、どうも決め手がなくてね。しかもオカマだってんで、見た目も全然違うしな。で、そのダンナがこの店によく通ってるって聞いて、押しかけてきたってわけさ」
「どうぞ、気を悪くなさらないでくださいよ」
無精ひげの愛想笑いとは裏腹に、ぼくたちはあっけにとられていた。
「そのいなくなったダンナっていうのが――孔明ちゃんだっていうのかい?」と、椅子から転げ落ちそうになる張飛さん。
「お、奥さんって(爆)!……孔明さんって、結婚してたんですかあっ?」
ぼくも、あまりの衝撃に、自分でも何を叫んだのか覚えていない。
あの孔明さんが……。
女性と結婚していたなんて。
そんなことって。
――これは、きっと悪夢だ。
「そりゃ俺も初耳だあ。何かの間違いじゃないの?」
張飛さんも、興奮冷めやらず、という顔で二人の探偵の顔を見つめた。
タイミングよくマスターが、その場のみんなに「これは私のおごりですから」と、よく冷えた生ビールをサービスしてくれた。そう、ぼくにも♪
そして、自分もぐっと一気にグラスを空けると、落ち着いた声で無精ひげの男に向かって言った。
「クラブ成都の売れっ子ダンサー、孔明さん。本名は確か諸葛亮さんだったと思います。ちがいますか、探偵さん?」
「お、その通りですよ。ってことは、やっぱり本物だな。惇兄、こいつは大当たりだぜ」
「確かに。間違いなさそうだ」
サングラスの男は、ビールを飲み干し、口元だけでにやりと笑った。
「で、どうするんです?さっそく奥さんに連絡して引き渡しますか?」
「いやあ、それがだなあ」
男は、何となくはっきりしない口調で言いよどむと、らしくない照れ笑いを浮かべた。
「奥さんは月英って名前なんだが、これがいい女でさあ。とりわけ美人ってんじゃねえが、年のわりにしっかりしてるし、何ていうかこう、こっちが恥ずかしくなるくらい気持ちがまっすぐで……」
「惇兄!」
「おっと、すまねえ、脱線しちまったな。いえね、月英さんは、自分のダンナがオカマだなんて、これっぽちも思っちゃいねえんだよ。なにか事情があって、姿を消したんだって信じてる。ただ、無事でいてくれればいい、それだけを確かめたい、っていうわけさ」
「それが、オカマバーで働いてて、こんなところでマスター口説いてるなんて……」
と、探偵の話に注釈をつけたのは張飛さんだった。
「ほんとのこと知ったら、ショックだわなあ」
ため息まじりに出した結論に、探偵たちも顔を見合わせてうなずく。
「だから、俺たちも悩んでるんだよ、どうしたもんかってね」
🥃 続きます
Bar.ピーチ・ハート 【Episode6-2】
「クリスマスソングなんて聞こえない」 後編
*******
都会(まち)の喧騒を離れた裏通りに、その店はある。
バー「ピーチ・ハート」。
気配り抜群でしっかり者の美形マスター趙雲氏と、ちょっぴり気の弱い天然癒し系のアルバイト姜維くんが切り盛りする、小さなカウンターバー。
姜維くんにまさかの恋の予感…。
はてさて、クリスマスドリームの行方は?
*******
そろそろ腰を上げなくちゃ、と思いかけた頃、改まった顔つきで大喬さんがぼくに言った。
「姜維さん。24日の夜、空いてますか?」
「はい?」
「もしよかったら……」
――おおお、これはもしかして、デートのお誘いかぁ? キタ━(´∀`)━!!
心臓がどくん、と音をたてる。
「――会ってほしい人がいるんです」
「え?」
意味が分からない。
茫然と大喬さんの顔を見つめるぼくの顔は、ずいぶんと間抜けに見えたことだろう。
「実は、私の兄が、ぜひあなたに会いたいって……」
「お兄さん……ですか?」
どういうことだ? お兄さんって?
なんでだよぉ? なんで、ここで突然、兄貴が出てくるんだよ?
ぼくに会いたいっていうのは、あなたじゃなくて兄さんだったの?
それって、いったい――?
ぼくは、頭が真っ白になり、ふらふらとその場を離れた。
大喬さんが大声で何かを叫んでいたようだったけど、ぼくの耳には何も届かなかった。
どうやってカウンターまでたどり着いただろう。
孔明さんや張飛さんの視線がやけに痛い。
二人とも押し黙ったまま何も言ってくれないのが、かえって辛かった。
「すみません、マスター。今日はこれで早引けさせてください」
やっとの思いでそれだけ言うと、ぼくはそそくさと裏へ入り、着替えもせずに上着を引っ掛けた。
マスターが心配そうにぼくの顔を覗き込む。
「早引けはいいけど、姜維くん、大丈夫ですか?」
「そんなに心配してくださらなくても、大丈夫ですよ」
我ながら説得力のない返事だなあと思いつつ、他にいい言葉も見つからない。
「俺、送っていってやろうか」
やけに優しい張飛さんの声が聞こえる。
猫なで声はやめてよ。よけいみじめな気持ちになってしまうから。
「平気です。ちゃんと帰れますから」
足早に店を出ようとするぼくに、大喬さんが駆け寄った。
「ごめんなさい。私、そんなつもりじゃ……」
今にも泣き出しそうな顔をして――。
(冗談じゃないよ。だったら、どんなつもりだったんだ?)
ぼくは小さく頭を下げると、黙ってドアを開け、一度も振り返らずに店を後にした。
◆◇◆
その後、姜維がどこで何をしていたのかは誰にも分からない。ただ、携帯電話は一晩中不通になっていたようだ。
そして。
姜維が飛び出していった後の店内では――。
大喬が、血の気の引いた顔でおろおろしている。
「わっ、どうしよう。私、ひどく誤解させちゃったみたい」
「そりゃまあ、姜維くんにすればショックだわよ~。彼、ああ見えて純情なんだから」
それまで黙ってカウンターに頬杖をついていた孔明が、大喬にあからさまな非難の目を向けた。
「ここでさんざん孔明さんを見てるのに、まだそっちに対して免疫ないのな?」
「バ~カ。張飛さんはいつだって一言多いんだから」
相変わらず茶化してばかりいる張飛に、孔明は柳眉を逆立てる。
二人とも、大喬の兄というのが「そっち系」で、姜維のことを見初めた彼が、妹に橋渡しを頼んだのだと思い込んでいた。
「いえ、そうじゃなくて……。兄のこと、最初からもっとはっきり言えばよかったのに……」
しどろもどろになっている大喬の言葉を引き取ったのは、小喬だった。
「大喬お姉さまの兄貴って、毎朝テレビのディレクターやってんのよ」
「はあ?」
「その兄が作ってる番組で、街で見かけたイケメンの男のコを紹介するコーナーがあるんですけど……」
「あ、それ知ってる。あたし、毎週見てるわよ」
「もしかして、姜維に白羽の矢が立ったのか!」
思いがけない話の展開に、張飛も孔明もあっけにとられた。
「いえ、まだきちんと決まったわけじゃなくて――」
「ここのお店にかっこいいコがいる、っていう視聴者からの情報があったんだって」
「本当なら兄が正式に取材を申し込まなくちゃいけないんですけど。今すごく忙しくて時間が取れないから、代わりに見てきてくれないか、って頼まれたんです」
「なあんだ、そうだったんだ~~」
分かってみれば、驚くほど単純な話ではないか。
「じゃ、最初から、姜維の品定めをするだけのつもりで来たってことだな」
「ええ。それなのに私ったら、妙に思わせぶりな態度を取ってしまって……。姜維さん、びっくりされたでしょうね」
大喬は、本当にすまなそうに肩を落とした。
「びっくりしたっていうより、相当ショックだったみたいね。期待が大きかった分、落胆も激しかったのねえ」
(ほんとのこと言うと、私もちょっぴりショックだったのよ。姜維くんがノーマルなのは分かってたけど、ああもロコツに拒絶されちゃうとねえ……おネエさまはガックリだわ)
孔明は、ほうっと深いため息をついた。
「さあ、お客さま方。そんなところに立っていないで、こちらにお座りください」
趙雲マスターに勧められるまま、大喬と小喬はカウンターに腰を下ろした。
「これをどうぞ。気持ちが落ち着きますよ」
趙雲がタイミングよく二人の前に置いたのは、ホカホカと湯気を立てているグラスだった。
「これって、お酒?」
「ええ。『ホット・ラム・カウ』という名前の温かいカクテルです。身体が温まりますし、牛乳が入っているので胃にも優しいし、寒い夜にはぴったりでしょう?」
ふーん、と不思議そうな表情でグラスに口をつけた小喬が、弾けるような声を上げた。
「うん、おいしい! 大喬お姉さまも飲んでごらんなさいな」
「ええ、ほんとに。優しくて、ちょっと懐かしい味……」
心が癒されていくような温かい味わいに、大喬はいつしか涙ぐんでいた。
「大喬さん。さあ、もう気を取り直して――。きれいなお嬢様には、悲しい顔は似合いませんよ」
趙雲は、何とか大喬の気持ちを引き立てようとするのだが、彼女の顔は晴れなかった。
「でも、彼のこと、傷つけちゃいましたよね」
「大丈夫。ああ見えても、彼は打たれ強いですから(←マスターってば、それってどういう意味?)。それに、あなたが気に病むことじゃありませんよ」
「でも……」
「誤解なら、いつかは解けますから」
「そうだといいんだけど。誤解を解くチャンスがあるかしら」
「チャンスは作ればいいんです」
そう、誤解ならいつかは解ける。
そして、機会はいつか訪れる。このまま離れ離れになってしまうのでなければ。
さらには、きっかけが何であれ、二人の出会いがこれからどう進展していくか、それはまだ誰にも分からないのだから。
「イブの夜、もしよかったら、ここへお兄さまをお連れしていただく、というのはいかがでしょう? もちろん、大喬さん、小喬さんもご一緒してくださいね。こちらは姜維くんと私、それに張飛さんと孔明さんの四人で、貸切ということにしておきますから」
「え? そんな……いいんですか? クリスマス・イブなのに?」
「もちろんですよ」
趙雲の大胆な発言に、張飛と孔明は思わず顔を見合わせた。
「また始まったぜ」
「マスター、太っ腹~~♪」
ここ何年か、クリスマス・イブの「ピーチ・ハート」は貸切ばかりだ。
去年は馬超組のロックコンサート。
その前の年は孔明ひとりのために。
趙雲マスターが本当に太っ腹なのか、それとも全く商売っ気がないだけなのか、二十年付き合っても未だに分からない張飛だった。
🥃了(初出 2007/12/27)
*******
サイト運営していた当時、なぜかクリスマスになると「ピーチ・ハート」の話が書きたくなって、12月orお正月前の更新の定番になっていました。
それにしても、ここ3年、クリスマス・イブはいつも貸切の「ピーチ・ハート」。こんなんで商売の方は大丈夫なんでしょうか?
張飛さんならずとも心配になってしまいますね。
🥃 ホット・ラム・カウ
ホワイトラム30ml、牛乳120ml、砂糖茶さじ1杯を厚手鍋に入れ、木杓子で混ぜながら弱火で温める。65~70℃くらいが適温。
耐熱グラスに注ぎ、シナモンスティックを添える。
🥃 『BAR レモン・ハート』の作者
古谷三敏さんのご冥福を
心よりお祈り申し上げます。
Bar.ピーチ・ハート 【Episode7-1】
「春はすぐそこに」 前編
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都会(まち)の喧騒を離れた裏通りに、その店はある。
バー「ピーチ・ハート」。
気配り抜群でしっかり者の美形マスター趙雲氏と、ちょっぴり気の弱い天然癒し系のアルバイト姜維くんが切り盛りする、小さなカウンターバー。
暦の家では立春とはいえ、まだまだ寒さ厳しい毎日。
さて、今夜のお客様は……。
*******
ああ、またバレンタインデーの季節か――。
デパートのショーウインドーに並ぶきらびやかなチョコレートのディスプレイを眺めて、ぼく(姜維)は小さなため息をつく。
あちこちでおしゃれなイベントが盛りだくさんなこの時期だけど、ぼくみたいに「恋人いない歴生まれてからずっと」という人種にとっては、何とも言えない寂しい思いにとらわれる季節だったりする。
去年の暮れに知り合った大喬さんとは、あれ以上何の進展もなく終わってしまった。
今思えば、ぼくの中に、相手が社会人であることに対する気おくれみたいなものがあったのかもしれない。
結局、今年もまた一人寂しく(もしくはピーチ・ハートでのアルバイトで)過ごすバレンタインデー、ということになりそうだった。
ちょっと沈んだ気持ちを抱えて、ピーチ・ハートのドアを開ける。
ここだけは、街を彩るイルミネーションや喧騒とは無縁の、いつもどおりの空間だ。
ジャズが流れる静かな店内には、すでに常連客である孔明さん、張飛さんの姿があった。
「お二人とも、毎日ご精勤ですね」
「そうでしょ~。だって、私たちがいないと、閑古鳥なんだもの」
「そうそう、閑古鳥だよな。春もすぐそこだっていうのに、客がいなくちゃマスターも寂しいだろ」
ぼくとしては精一杯の皮肉のつもりだったのだが、二人にさらりと受け流されて、何となく気が抜けてしまった。
二人は閑古鳥なんて言うけれど、週末ともなれば、ピーチ・ハートみたいに繁華街から離れた場所にある小さなバーといえども、それなりに賑わう。
けれど今日は週の真ん中の水曜日、しかも、まだ6時半をまわったところだ。
こんな時間からバーの止まり木で時間をつぶしているなんて、よっぽどの暇人しかいないだろう。
「姜維くん、おしゃべりはそれくらいにして。閑古鳥の店でも、やるべき仕事はあるんですよ」
趙雲マスターの厳しい声に、思わず背筋が伸びる。
どうやら『閑古鳥』という言葉がマスターの気に障ったらしい。
ぼくはあわてて奥に入り、店の制服に着替えた。
「あらためて、いらっしゃいませ。張飛さん、孔明さん、いつもありがとうございます」
「お、バーテンダーの顔になったね」
ウーロン茶割のグラスをもてあそびながら、張飛さんがにんまりと笑う。
ぼくは、たぶん「恋人いない歴生まれてからずっと」の大先輩である(と思う)張飛さんの無精ひげをながめながら、ちょっと哀しい気持ちになった。
ぼくよりずっと長い間、寂しいバレンタインデーを過ごしているにちがいないからだ。
「ところで姜維ちゃん、今3回生よね?」
孔明さんが、ちょっと酔いのまわった妖艶な眸子でぼくに微笑みかける。
「そうですけど?」
「就活、大変なんじゃないの?」
「ええ、まあ」
なぜ急にそんな話題になったのか分からないまま、ぼくは曖昧に言葉を濁した。
「どうしても行く所がなかったら、うちへこない? 店長には私から紹介するわよ」
「へ?」
孔明さんの勤め先といえば、その筋では有名なオカマバー『成都』だ。ということは、ぼくにもオカマになれってことなのか?
言葉をなくしたぼくは、(オカマとは思えない)美しすぎるその笑顔を、呆然と見つめるしかなかった。
「姜維くんなら女装してもバッチリだし、売れっ子になれると思うわよぉ」
「じょ、冗談……」
一瞬、背中に冷たいものが走る。
ほんとに冗談じゃないよ。たとえ「彼女いない歴生まれてからずっと」のぼくでも、正真正銘の日本男児なんだから(ノーマルという意味で)。
「いっそのこと、ここの正社員になっちゃえば? なあ、マスター。一人くらい雇っても大丈夫なんだろ?」
「ご冗談を、張飛さん。何しろ閑古鳥ですからね、正式に人を雇うなんて、そんな余裕はとてもありません」
張飛さんにすれば、固まってしまったぼくに助け舟を出したつもりなのだろうが、マスターにぴしゃりと釘をさされてしまった。
「あ? もしかして、まだ怒ってるの? 『閑古鳥』は、俺としては最大級の賛辞なんだけどなあ」
あの、張飛さん、全く意味が分からないんですが……。
孔明さんのお誘いは速攻お断りだが、実際、就職がとんでもなく難しいのは事実だった。
ここ数年、理系でも、大手からの求人は少なくなっている。
ましてぼくのように「考古学」専攻の学生ではつぶしがきかない上に、専門知識や資格を活かして就職するなんていうのは絶望的だ。
同級生の多くは、秋口から会社訪問したりしてせっせと就職活動をしているようだが、全くと言っていいほど景気のいい話は聞こえてこなかった。
(本当に、このままこの店で雇ってほしいくらいだよ……)
張飛さんの言葉に、つい心が揺らいでしまう自分が情けない。
そんなぼくの気持ちを見透かしたように、趙雲マスターがまじめな顔つきで張飛さんに言った。
「うちのような小さな店は、私一人でも十分切り盛りできるんです。従業員に払う給料があるのなら、その分をお客様へのサービスに回すべきじゃありませんか」
予想外の厳しい口調に、うーん、と張飛さんが唸る。
「趙雲マスターらしい立派な心がけだけど、ここはひとつ、就職難にあえぐ学生を助けると思ってだな――」
「もちろん、全く人を雇う余裕がないわけじゃありません。ただ、私の下で働く以上、本気でバーテンダーを目指したいと思う人でなければね」
マスターの言葉に、あっ、とぼくは胸を突かれた。
「姜維くんがここで働いているのは、将来バーテンダーとしてやっていくためじゃないでしょう? だから、一時的にアルバイトとして仕事を手伝ってもらっているんですよ。それ以上でも以下でもない」
そりゃあまあぼく自身、どうせアルバイトなんだし、という甘えがなかったといえば嘘になる。だけど、こうはっきり面と向かって言われると、ちょっと寂しい。
「そりゃあつまり、正式に雇うとなると、今以上に仕込みが厳しくなるってことかい?」
「もちろんです。酒も人間も仕込みが肝心ですからね。どこへ出しても恥ずかしくないバーテンダーになってもらうために、びしびし鍛えますよ」
「マスター。それって、従業員じゃなくて、江戸時代の徒弟制度なんじゃないのぉ」
孔明さんが酔いのまわった口でツッコミを入れる。
「徒弟制度」という古めかしい言葉が、静かに微笑むマスターの横顔にとてもしっくり似合う気がして、ぼくは思わず肩をすくめた。
(うへえ~~。(^_^;))
やっぱり生半可な気持ちでは、ここのバーテンダーはつとまらない。「楽して就活」なんて虫のいい話は、あきらめた方がよさそうだ。
そんな話をしているうちに、やがて時間は7時をまわった。孔明さんはそろそろ出勤の時間だ。
そのとき、遠慮がちに開いたドアから、見慣れない女性が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
ぼくは飛んで行って、入り口に佇んでいる女性からカシミヤの上品なコートを預かった。セミロングの髪が魅力的な、横顔の素敵なひとだ。
女性の年齢って正直よく分からないのだが、20代後半か30歳前後だろうか。
「カウンターへどうぞ」
「ありがとうございます」
その女性は店内を見渡してから、ほっとため息をつき、カウンターの端の席に遠慮がちに腰をおろした。
「いらっしゃいませ。お客様、どなたかお探しですか?」
「え? ええ。そうなんです。よくお分かりですね?」
マスターの言葉に、女性は驚いたように顔を上げた。
「ずっとこの商売をしていますと、お顔を拝見しただけでお客様の気持ちが分かることもあるんですよ」
まあ、と女性は鮮やかな笑みを浮かべた。
「私は春梅といいます。実は、このお店に、徐庶さんという人がよく来られると聞いてきたのですけど……」
春梅さんの口から出た「徐庶さん」という名前に、思わずぼくや張飛さん、帰り支度をしていた孔明さんまでが聞き耳をたてた。
この女性が、徐庶さんの知り合い……? どういう関係なんだろう?
「はい、ご贔屓にしていただいております」
ぼくたちの動揺をよそに、趙雲マスターは淡々と答える。
「水曜日にはいつも来られるんですよね?」
「ええ。ですが、お越しになるのはたいてい午後9時頃ですね」
「まあ、そうなんですか」
春梅さんの顔に、軽い失望が落ちた。
「それじゃ、今日も9時にならないとダメなんですね」
伏せた睫毛が、華やかな目元に影を落とす。
憂いに満ちた眸子を見ていると、こっちまで胸がきゅんとしてしまう。
「どうしても、お会いしたかったんだけど、やっぱり無理ね。なかなか自由にならなくて、ようやく時間を工面できたっていうのに、残念だわ。今夜9時発の飛行機で札幌に帰らなくちゃならないんです」
「札幌に――」
ここから空港までは、どんなに急いでも40分はかかる。搭乗手続きの時間を考えたら、1時間前には店を出なければ間に合わない。
どうして、徐庶さんはいつも9時にしかやってこないんだろう。
どうにかして、連絡を取ってあげられないものだろうか。マスターなら連絡先を知っているかもしれないのに……。
だけど、趙雲マスターは静かに彼女の顔を見守っているだけだ。
ぼくは、黙ってマスターの顔を見つめるしかなかった。
🥃 続きます✨
「夢を継ぐ者」 ー姜維と馬謖ー
〈あとがき…のようなもの〉
「泣いて馬謖を斬る」で知られる馬謖と姜維のお話です。
とはいえ、なんだか盛り上がりに欠ける、暗い話ですみません……。m(__)m
馬謖という人、以前は、あまり好きではありませんでした。
何しろ、諸葛亮の夢をぶち壊した張本人というイメージが、どうしてもついてまわってしまって……。「何もかも、お前のせいだ~~!」みたいな。
そんなかれが、ちょっぴりいいヤツに見えたのが、東映動画の劇場版アニメ「三国志」。
さらに、中国湖北電視台制作のTVドラマ「諸葛亮」でけっこうグラッときて、とどめはスーパー歌舞伎「三国志Ⅱ」の、段治郎さん(当時)演じる凛々しい馬謖でした。
それにしても、どうして馬謖は諸葛亮の指示に背いたのでしょうか?
この疑問に対する私なりのひとつの答えが、この小説です。
兄に対してずっと抱き続けてきた劣等感。
姜維という、新しいライバルの出現。
そして何よりも、諸葛亮に認められたいという「恋」にも似た情熱――。
それらが混然となって、馬謖の冷静な判断を失わせてしまったのかもしれません。
馬謖にすれば、街亭は、自分に与えられた最後のチャンスだと思えたのではないでしょうか。諸葛亮も、何と罪作りな……。
この話、最初は、姜維と馬謖それぞれのモノローグで交互に語っていくという形式だったのですが、あまりに難しくて挫折しました。
それから、姜維側から見た話と馬謖側から見た話、2編でひとつという形も考えてみましたが、やはりこれも挫折。
結局、現在の形になりました。
姜維視点と馬謖視点、さらに普通に地の文章がごちゃ混ぜで、分かりにくくて申し訳ありません。
サイトの方では、それぞれに文字の色を変えるなどして少しでも読みやすくしているのですが、こちらではそうもいかなくて。
また、この話は、以前こちらに上げた「姜維と香蓮シリーズ」などよりずっと昔に書いたものなので、少々噛み合わない部分があったりします。
ご了承くださいませ。
最後までお読みいただき、ありがとうございましたm(__)m
🌌
「花散らし」
その日、ぽっかりと手が空いた俺は、久しぶりに植木屋の離れで病を養っている沖田総司を見舞った。
来るたびに病の陰が濃くなっていくようで、正直、総司のやつれた姿を見るのは辛かったのだが。
季節は春。
ようやく暖かみを帯びてきた日差しが、離れの薄汚れた縁側にも穏やかなぬくもりを添えている。
「土方さん。その花――」
と、俺の顔を見るなり、総司は枕元の文机を指さして言った。
「お琴さんが活けてくれたんです」
「お琴?」
文机の上には、小振りの壺に投げ入れられた桃の枝が、可憐な花を咲かせていた。
「時々見舞いに来ては、三味線弾いてくれたり、小唄を聞かせてくれたり。昨日もね、わざわざ花を持って訪ねて来てくれて」
「そうか」
思いがけない名前を耳にして、俺は少なからず動揺していた。
そんな俺の心を知ってか知らずか、総司は半身を起こすと、真正面から俺を見据えて、斬りこむような口調で言った。
「歳三さん。お琴さんに会ってあげてください。あのひとは、ずっと歳三さんを待っていたんですよ」
「………」
「自分から口に出しては言わないけど、きっと心の中ではあんたに会いたいって思ってるんだ。だから、私のところへも足繁く通ってきてくれるんでしょう」
「お琴……さんは、今も独り身なのか?」
思わず口をついて出た問いに、総司はさもあきれた、という顔をした。
「許嫁のままなんでしょう? 自分の勝手でほったらかしにしておいて、よくそんなことが言えますね」
江戸に戻ってから、総司の雰囲気が少し変わったような気がする。
以前は、誰に対しても、これほどずけずけとものを言うような奴ではなかった。
自分の命のあるうちに――。
そう思いつめて、自分の胸の内にあるものを、すべて吐き出してしまおうとしているかのようだ。
「しばらくは品川の吉田屋という旅籠に泊まっているそうです。歳三さん、後生だから、お琴さんに会いに行ってやってください」
「分かった。分かったから、もう横になれ。それにしても、なんでお前がそこまで肩入れするんだ?」
総司は一瞬、視線を泳がせ、それからはにかんだような笑顔を見せた。
「同類相憐れむ……かな。お琴さんと私は、同類なんですよ」
それ以上総司は何も言わなかったが、何となくその言葉の意味が分かる気がして、俺は曖昧な微笑を返していた。
日を追うごとに、総司の笑顔が透き通っていく。
同時に、彼の命までもが漂白されていくようで、やりきれない思いだけが募るのだった。
◇◆◇
こうなったら、総司の願いを無下にするわけにもいかない――。
いつになく殊勝な気持ちになった俺は、その日のうちに、総司から教えられたお琴が逗留しているという旅籠に向かった。
旅籠では、もう軒提灯に灯が入っている。
旅籠の主人に事情を話し、夕闇が迫る廊下をお琴の部屋へと向かう。
「トシさん! ほんとに、トシさんなの?」
俺が部屋に入っていくと、お琴はまるで幽霊でも見るような顔で俺を見た。
「どうして……」
言葉が続かない。
次の瞬間、お琴は声にならない声を上げ、くしゃくしゃの顔で俺の胸にすがって泣きじゃくった。
「………」
細い肩をそっと包むと、お琴はぴくりと体を震わせ、新たな涙で頬を濡らした。
「ほんとにトシさんなのね? 夢じゃないのね?」
「お琴――」
とうの昔に捨てて、忘れた女だった。心のどこかに引っかかってはいたが、総司に聞くまで名前さえ思い出さなかった。
それなのに、今こうして自分の腕の中に感じている体温が、なぜかとても懐かしい。
お琴の肌のぬくもりは、故郷の風景のように俺の体と心を癒していくのだった。
「お琴さん。すまない。俺はあんたを待たせ過ぎちまったようだ」
俺の言葉に、お琴は一瞬絶句し、そして激しくかぶりを振った。
「いやだ、謝らないで。私が好きでしていることだもの。トシさんは何にも悪くないわ」
とうにどこかへ嫁いでると思ってた――。
喉まで出かかった言葉を、かろうじて飲み込む。
今日までずっと、こんな鉄砲玉のような男を待っていてくれた女に対して、それはあまりに失礼だろう。
「私ね、いつまでもトシさんを待っているって決めたの。多摩川の岸で、忘れてくれって言われたあの時に」
お琴の眸子が不思議な情熱を帯びた。
「私には、あなたを繋ぎ止めることなんてできないから……。それなら、いつかあなたが私のところに戻ってくるまで、その日までずっと待ってるって」
――ああ、と俺は不意を打たれた。
誰かが自分を待ってくれている。それがこんなにもうれしいことだったとは。
もう忘れかけていたそんな人間らしい感情が、まだ俺の中に残っていたことを、素直に目の前の許嫁に伝えてやりたい。
だが、言葉にならなかった。
俺は黙って、もう一度お琴の体を抱きしめた。
「また、行ってしまうんでしょう?」
行燈の薄明かりの中で、女は寂しげに微笑する。
「すまない、お琴さん。俺はやっぱり、あんたの所には戻れそうにねえ」
頭を下げる俺に、いいえ、いいえ、とお琴はかぶりを振った。
「今、こうして、あたしに会いに来てくだすったじゃないですか。それだけで、あたしは嬉しいの」
涙ぐんでいるのか。
つい、と顔をそらしたお琴は、立ち上がって、宿の小窓をからりと開けた。
一陣の風とともに、淡い薄紅の花びらが舞い込む。
窓の外。
手が届くほどの距離に、早咲きの桜の枝が揺れていた。
舞い散る花びらの中で、振り返ったお琴の眸子は妖艶な色をたたえている。
「明日の朝には、歳三さんを笑顔で見送るって約束するわ」
だから、その前に――、と女は言った。
「これから先、ずっとあなたを待ち続ける女に、せめて一夜の形見をくださいな」
「お琴……」
満開の花を散らすように、激しい風が吹き荒れる。
春の夜の、どこか朧な霞の中を漂いながら、俺は初めてお琴の唇に触れた。
ああ、と朱唇から切なげな声がもれる。
その吐息を聞いたとき、俺は急に腕の中の女が愛おしくなり、悲しくなり、胸が痛くなった。
「歳三さん……ずっと、ずっと、待っています」
もう二度と会えないかもしれない。
俺もお琴も、そのことを予感しながら、互いの体を重ねていく。
花散らしの風がどれほど強く吹こうとも、そしてその嵐にすべての花弁が散り果てようとも。
次の春、桜はまた咲く。
たとえこの命が消えても、お琴の中で俺は生き続けるのだろう。
今宵。俺の生きた証を、お前の心に、体に、刻み付けて――。
俺は逝こう。
◆作品メモ
この小品は、自サイトの開設11周年記念に書いた連作のうちの一編です。
我が愛しき男たちを花にたとえて、それにちなんだSSや詩を書こうという企画でした。
土方歳三のイメージといえば、これはもう何を置いても「桜」。
彼ほど桜の花の似合う人はいないでしょう。その生きざまも死にざまも、まさに鮮烈な桜の花のようで。
おりしも今、季節はめぐりきた春。
NOTEの皆様にも、ぜひ読んでいただきたくて、アップしてみました。
今作では久しぶりに、土方さんの許嫁であるお琴さんが登場します。
彼女がその後どんな人生を送ったのか、ぐうたらな私は調べていません。
でも、もしかして、ずっとトシさんを待って待って、待ち続けて暮らしていたのかな。そうだったらいいなあ…切ないけど素敵だなあ…って思って書きました。
きっと、それくらいしても後悔しないほど、歳三はいい男だったはず…なんです、たぶん (^^)
ふたりのこれまでのいきさつについては、前作「翠雨の頃」をご一読いただければ幸いです。
🌸
Bar.ピーチ・ハート 【Episode3-2】
「孔明さんの憂鬱」 後編
*******
都会(まち)の喧騒を離れた裏通りに、その店はある。
バー「ピーチ・ハート」。
気配り抜群でしっかり者の美形マスター趙雲氏と、ちょっぴり気の弱い天然癒し系のアルバイト姜維くんが切り盛りする、小さなカウンターバー。
今夜の客は、夏侯探偵社の二人。
胡散臭い探偵の依頼人は、何と孔明さんの妻(!?)だった。
*******
「いっそこのまま、見つからなかった、ってことにしておいた方が、奥さんのためかもな」
サングラスの探偵が呟いたその時。
入り口のドアのところで、何かが落ちたような音がした。
店の入り口の手前には衝立があって、カウンターからは直接、扉は見えないのだ。
マスターに目配せされて見に行ったぼくは、飛び上がらんばかりに驚いた。
「うわっ! 孔明さん! いつからそこにいたんですかっ?」
衝立の陰で蒼白な顔をして立ちすくんでいるのは、孔明さん当人だった。
「ケータイを忘れたの。途中で気がついて取りに戻ったら、私の名前が聞こえてきたから、入るに入れなくて……」
ガタガタ震えている孔明さんの足元には、口の開いたバッグの中身が散乱している。
さっきの音は、バッグが落ちた音だったのだ。
ぼくがそれらを拾い集めている間に、張飛さんが飛んできて、孔明さんを抱きかかえるえるようにして、カウンターに座らせた。
「俺たちの話、どの辺から聞いてたんだ?」
「月英は、ボクのことをオカマだなんて思っちゃいない……」
孔明さんは、こわばった手で、マスターが出した水の入ったグラスを口に運んだ。
「一番肝心なところは、ちゃんと聞いてたってわけだ」
突然、カウンターの下でケータイの着メロが鳴りだした。
孔明さんが忘れていったケータイだ。遅刻してしまった孔明さんに、お店のママからだった。
「ごめんなさい。ちょっと急用ができちゃって。今日はお休みさせてください。ええ、明日は大丈夫です。きちんと行きますから」
できるだけ平静を装おうとしたんだろうけれど、声が震えている。
ようやく少し落ち着いてきたところで、そんな孔明さんを痛ましげに見つめていた張飛さんが、探偵たちに鋭い視線を投げた。
「なあ、探偵さん。もうこうなっちまったら、しょうがないだろ。きちんと孔明さんに話してやれよ」
「そうですねえ。こうなった以上、逃げも隠れもできませんからね」と、無精ひげは頭をかいた。
「調べている相手に見つかるなんざ、探偵としちゃサイテーだがな」と、苦虫を噛み潰したような顔のサングラス。
そうして、二人の探偵は、一部始終を孔明さんに話して聞かせた。
「月英は、今でもボクのことを待ってくれてるんですか」
「何かやむにやまれぬ事情があって姿を消したんだろうが、いつかきっと自分のところへ帰ってきてくれる。自分はあの人を信じている。だから、いつまでも待っています、とさ」
「月英――」
グラスを持つ手に涙が落ちた。
「ごめん……。ボクはこんなひどい男なのに。きみに愛される資格なんてないのに……」
打ちひしがれた蝶のように、カウンターに突っ伏す孔明さんの、あでやかなドレスの赤が、とても悲しい色に見える。
ぼくは、不思議な気持ちで、そんな孔明さんを眺めていた。
なぜって、姿かたちはどこから見ても女なのに、奥さんの名前を呼ぶ時の孔明さんは、まちがいなく男性の顔をしていたからだ。
「どうしてボクが結婚なんて、と思っているでしょう?」
孔明さんは、バッグから取り出したタバコに火をつけた。
「彼女は、月英はすばらしい女性です。彼女となら、こんなボクでもうまくやっていけるかもしれない、そう思っていたんです」
タバコの煙を長く吐きだしながら、月英さんとの過去を、ポツリポツリとつぶやくように語り始めた。
若い頃から同性に興味はあったが、自分がゲイだという自覚はなかったそうだ。
それでも、女性に対してはまったく気持ちを動かされることがなく、いつしかそんな自分の将来に不安を抱くようになったという。
そんな時、大学で知り合った月英さんに、初めて異性として好意を持った。
彼女はいわゆる「男前」な性格で、側にいても窮屈じゃない。
それどころか、大きな懐に包まれているような安心感を覚えて、彼女となら結婚してもやっていけると思ったのだそうだ。
ところが、結婚してしばらくして、高校時代に憧れていた先輩に偶然出会った孔明さんは、誘われるままに彼と深い関係になってしまう。
ずるずるとそんな生活を続けていたが、妻を裏切る心苦しさに耐え切れず、ついに家を飛び出してしまったというのだった。
「月英は、ボクがゲイであることも、彼女を裏切っていたことも知りません。もし、ボクの本当の姿を知ったら――」
孔明さんの手に、また涙が落ちた。
「わかった」
黙って孔明さんの話を聞いていたサングラスが、決心したように立ち上がった。
「ここにいる孔明っていう野郎は、俺たちの探してる諸葛亮とはまったくの別人だったってことだ」
「惇兄――」
「それでいいな? 淵」
「惇兄がそれでいいっていうんなら、俺は文句ねえよ」
無精ひげも、さばさばとした表情でうなずく。
――そんなわけで、とサングラスの探偵はにこりともせず、マスターに言った。
「騒がせちまったな。どうやら、俺たちの早とちりだったようだ。無駄足踏んじまったが、おかげでうまい酒が飲めた。ありがとうよ」
「こちらこそ、いい話を聞かせていただきました」
「じゃあな」
それから、放心したように座っている孔明さんの肩にそっと手を置いて、その耳元に小声でささやいた。
「いつか必ず、奥さんのところへ帰ってやんなよ――」
サングラス越しに、優しい笑みが見えたような気がしたのは、ぼくの思い過ごしだったろうか。
探偵たちが出ていくと、店内は急にひっそりとした。
孔明さんは、あれきり黙ったまま。
ぼくも張飛さんも、何と声をかけたらいいのかわからない。
じっとりと湿った時間だけが過ぎていく。
「孔明さん」
趙雲さんが、孔明さんの前に1杯のカクテルを置いた。
「―――?」
「そんな顔は、孔明さんには似合いませんよ。さあ、これを飲んで、元気を出してください」
カクテルは、目にも鮮やかなマリンブルー。
「きれい……」
孔明さんは、うっとりとそのグラスを取り上げ、一口飲んだ。
「ああ、おいしい。胸のつかえが消えていく気分」
「マスター、それ、なんていうカクテル?」
知りたがり屋の張飛さんがたずねる。
「ブルー・マンデー。『憂鬱な月曜日』という名前のカクテルです」
「今日のあたしにぴったりすぎるお酒だわ」
孔明さんの顔に、寂しげな笑みが浮かんだ。
「いえ、本当はこのカクテルには、憂鬱な月曜日を吹き飛ばそう!っていう意味が込められているんですよ。そんなさわやかな味でしょう」
もう一口カクテルを飲んで、その余韻を楽しむように、孔明さんは目を閉じた。
「いつか……懐かしい場所に、帰れる日がくるといいですね」
「………」
「でもそれは、まだまだ先の話にしておきましょう。私も、常連のお客さまがひとり減るのは寂しいですから」
「マスターったら」
苦笑いする孔明さんの目蓋に、温かい涙があふれていく。
「あ、そうだ。さっきの話ですが、今度のクリスマス・イブ、孔明さんの貸切にしましょう。まあ、姜維くんと張飛さんは特別ゲストってことで。身内だけでささやかに過ごすイブもいいものですよ」
「ありがとう、マスター」
孔明さんは、手にしたおしぼりでそっと目じりをぬぐった。それから、
「わがままついでにもう一つお願いしてもいい?」
聞こえるか聞こえないかくらいの声で言った。
――ボクの月英ちゃんにも、何かすてきなカクテルを作ってあげて。
🥃了(初出 2005/12/20)
*******
ピーチ・ハート第3弾の主役(つーか、まな板の上のコイ)は、孔明さん。
オカマってことで、思いっきり壊してしまったキャラですが、孔明ファンのみなさま、どうかお許しを。
何しろ、ふだんあまりにも真面目な丞相なので、こういう場所ではうんと遊んでしまいたくなるんですね~。スミマセン。
作者としては、いつか孔明さんが、晴れて妻月英さんの待つ家に帰れる日がくることを願ってやまないのですが、その前に、趙雲マスターへの熱い想いを遂げることはできるんでしょうか。
……やっぱ、それは無理か。ここって、ノーマルサイトだし(爆)。
今回、ゲストで登場の探偵さんたち。
サイトの方では、一応ビジュアルも作っています。
決して二枚目じゃないけど(笑)、シチュエーションに応じていろんな顔を持っていそうで、私結構こういうキャラは好みです。
🥃 カクテル ブルー・マンデー
・ウォッカ 45ml ・コアントロー 15ml ・ブルー・キュラソー 1tsp(小さじ1杯)を、ミキシンググラスでステアしカクテルグラスへ。
マリンブルーが目にも鮮やかなこのカクテルは、美しい色あいには不似合いな「憂鬱な月曜日」という名前を持つ。
'87年10月19日の月曜日、ニューヨーク株式が史上最大の暴落をしたいわゆるブラックマンデー。その日、ウォール街の片隅のバーで、このカクテルが生まれたという。
「憂鬱な月曜日を吹き飛ばし、前向きに生きよう!」という願いを込めて。
🥃
Bar.ピーチ・ハート 【Episode7-2】
「春はすぐそこに」 後編
*******
徐庶さんに会うために「ピーチ・ハート」を訪ねてきた女性。
春梅さんは、その名前のとおり、寒さに耐えて凛然と咲く梅のような、美しさの中に強さを秘めた魅力的な女性だった。
だが、肝心の徐庶さんは、いつも午後9時にならないと来店しない。
一方、春梅さんは、9時発の飛行機で北海道に帰らなければならないという。
二人がどんな関係なのか、ぼく(姜維)には全く分からないけれど、せっかく訪ねてきた春梅さんのためにも、何とか二人を会わせてあげられないものだろうか――。
*******
「残念だけど、今日はあきらめて帰ります」
春梅さんは、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
手にしたバックをしばらく見つめていた彼女は、中から小さな紙袋を取り出してカウンターに置いた。
「マスター。お願いがあるの。これを、徐庶さんに渡していただけないかしら」
「わかりました。大切にお預かりします」
席を立とうとする彼女をそっと手で制して、マスターが明るく声をかけた。
「せっかくお越しいただいたのですから、私から春梅さんに、一杯おごらせてくださいませんか」
「……ありがとうございます」
皆が見守る中、あざやかな手さばきで、趙雲マスターは一杯のカクテルを仕上げていく。
梅酒と日本酒、グレナデンシロップをステアしてグラスに注ぎ、ソーダで満たし、最後に梅の実を添えたそれは、春の香りをいっぱいにただよわせたカクテルだった。
「どうぞ。『梅ごこち』という名前のカクテルです」
「まあ、きれいな色!」
春梅さんは、うっとりと目を細めた。
春らしい、はんなりとした温かみのある琥珀色が、春梅さんの雰囲気にぴったりだ。
「日本酒と梅酒のカクテルです。女性にも飲みやすいと思いますよ」
「ほんと、美味しい――」
彼女の顔に温かな笑みが浮かんだのを見て、なんだかぼくもほっとする。
「マスターのお酒をいただいたら、元気が出てきました。ありがとう、マスター。今日は残念だったけど、きっとまたいつか、お会いできる日もあるわね」
『梅ごこち』を飲み終えた春梅さんは、徐庶さんに心を残しながら、名残惜しそうに帰っていった。
◇◆◇
「徐庶さんにお預かりものがあります」
「ほう、私に? いったい何だろう?」
午後9時になって店に現れた徐庶さんに、まずいつものようにワイルドターキーをロックで提供すると、マスターはまじめな顔で切り出した。
「春梅さんという方から、これを渡してほしいと」
「――春梅!」
いつも冷静な徐庶さんの顔に、驚きと動揺が走る。
「ここに、来ていたのかね?」
「ええ。8時過ぎまで待っていらっしゃいましたが、今夜の飛行機で札幌に帰らなければならないから、とお帰りになりました。徐庶さんに会いたかったと、残念そうにおっしゃっていました」
「そうか、春梅さんが……。申し訳ないことをしてしまったな」
徐庶さんが開いた紙袋の中には、チョコレートと思しき包みと、淡い萌黄色の封筒が入っていた。
徐庶さんは、サングラスをはずして春梅さんからの手紙を読み終えると、頬杖をついて目を閉じ、ほうっと小さなため息をついた。
いつも強面な徐庶さんには似合わない優しい表情に、ぼくは小さな衝撃を受けた。
「ねえ、徐庶さん。聞かせてもらってもいいですか」
マスターの眉間にしわが寄る。怒鳴られるのを覚悟で、ぼくは続けた。
一度湧きあがった好奇心は、おさえられない。
「春梅さんとは、どんなご関係なんですか?」
店の中が、しんとした。
マスターが険しい目付きで口を開こうとしたそのとき、助け舟を出してくれたのは張飛さんだった。
「おいおい、姜維くん。野暮なことを言いなさんな。この季節、チョコレートと手紙とくれば、もう聞かずもがなだろう?」
「いやだなあ、張飛さん。そんな訳ありな仲じゃないよ」
意外に穏やかな口調で徐庶さんが答えてくれたので、緊張した店内の空気は一瞬でほぐれた。
「彼女はね、私が昔世話になった人の娘さんなんだ。まあ、妹みたいなものだ。結婚してアメリカで暮らしていたんだが、2年前に離婚して日本に帰ってきたと聞いている。もっとも、私はずっと会っていなかったんだがね」
妹みたいな……?
正直、ぼくが春梅さんから受けたのは、もっと切羽詰った感じだったのだけれど。
ぼくたちは、黙って徐庶さんの話に耳を傾けた。
「北海道は彼女の故郷だ。そして、私の故郷でもある」
もうずいぶん長い間帰っていないが、と徐庶さんはワイルドターキーを口に含み、遠い目をした。
「徐庶さんに、ぜひ味わっていただきたいカクテルがあるのですが」
「はて、何だろう?」
趙雲マスターが徐庶さんの前に置いたのは、カクテルグラスのふちをグラニュー糖で飾った白いカクテルだった。
「『雪国』です」
「ほう。山形県のバーテンダーが創作したというカクテルの名作だね」
「さすがに、よくご存じですね」
今から50年以上も前に、山形県酒田市のバーテンダー井山計一氏が創作した『雪国』は、日本を代表するカクテルのひとつなのだそうだ。(以下、趙雲マスターの受け売り)
ウオッカ、ホワイトキュラソー、ライムジュースをシェイクし、グラニュー糖でスノースタイルにしたカクテルグラスに注ぎ、そっとグリーンチェリーを沈める。
きらきらと輝く雪の結晶がグラスを飾り、白いカクテルに沈んだグリーンチェリーの緑が、雪に埋もれて春を待つ新芽を髣髴させる。
「日本の冬の情緒をカクテルの世界で描いた美しい作品である(HBAバーテンダーズオフィシャルブックより)」と言われる所以だ。
「北海道は、まだまだ雪が残っているんでしょうね」
「一面の銀世界だよ。春の訪れは、まだずっと先だね」
ぼくの問いに、徐庶さんは懐かしそうに目を細めた。
「春はまだ遠い……。だが、梅の花はそんな寒さの中で、馥郁とした香りを放つんだな」
あらためてサングラスをかけ、いつものハードボイルドな雰囲気に戻った徐庶さんに、マスターが声をかけた。
「久しぶりに故郷の景色を見に帰られたらどうですか」
「そうだねえ」
サングラスに隠れた眸子の色までは分からないが、温かい声音が返ってきた。
「マスターのカクテルを飲んだら、北海道の雪景色を見たくなったよ」
ホワイトスノーをまとったカクテルグラスが、徐庶さんの手の中できらきらと光る。
「来週あたり、札幌に行ってくるか。おやじさんの墓参りもしたいしな」
「それはいい里帰りになりますね」
マスターがにっこりと微笑む。
ぼくの目には、徐庶さんと再会した春梅さんのうれしそうな顔が浮かんでいた。
立春を過ぎたとはいえ、外はまだまだ真冬の風が吹いている。
だけど、ピーチ・ハートの店に集う人たちの胸はほっこりと温かい。
春は、もうすぐそこなのだから。
◇◆◇
仕事を終え、下宿に帰る道すがら、ぼくは今夜の出来事を思い出していた。
春梅さんと徐庶さん。
すれ違ってしまった二人の気持ちを結びつけたのは、趙雲マスターが作った2杯のカクテルだった。
二人とも、マスターの作るカクテルで元気づけられ、前向きな気持ちになれたのだ。
もしかして、バーテンダーってものすごい仕事なんじゃないか?
――私の下で働く以上、本気でバーテンダーを目指したいと思う人でなければね。
(やべえ。ぼく、今、本気で、バーテンダーを目指したい、と思ってる)
胸がドキドキして落ち着かない。
長い間ピーチ・ハートで働いてきたが、こんな気持ちになったのは初めてだ。
趙雲マスターのように、かっこいいバーテンダーになりたい。
「楽して就活」なんて、一瞬でも思った自分が恥ずかしくてたまらなくなった。
明日、マスターにきちんと謝ろう。そして、もう一度、あらためてマスターの下で働きたいと頼んでみよう。
春が来るまえに、自分の気持ちときちんと向き合わなければ、とその夜ぼくは、小さな決意をしたのだった。
🥃了(初出 2011/2/16・3/14)
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バレンタインデーにちなんだ話だったのに、遅れに遅れて、後半をアップできたのがホワイトデーという…(爆)。
そして、この後半を書き上げる直前に、東日本大震災が起きたのです。
10年以上経った今も、被災された方々の心の傷は癒えることがないでしょう。
それでも、どうぞ元気を出してください。いつか笑える日が来ることを願って。
寒い冬の後には、暖かい春がやってくる、春はもうすぐそこなのだ、と信じて。
🥃 カクテル 梅ごこち
酒造メーカー菊正宗が考案した、日本酒を楽しむためのオリジナル・カクテル。ほんのり梅の香りがするさわやかな味。
梅酒 80ml、日本酒(菊正宗)50ml、ガムシロップ 小さじ2、グレナデンシロップ 小さじ1をミキシンググラスに入れてステアする。グラスに注ぎ、ソーダ水 50mlで満たし、最後に梅の実を入れる。
🥃 カクテル 雪国
カクテルグラス(容量90ml程度)の縁をレモンの切れ端などで湿らせ、平らに敷いたグラニュー糖にふせて付け、スノースタイルとする。
ウォッカ 40ml、ホワイトキュラソー 10ml、ライムジュース(またはライム・コーディアル)10ml をシェイクし、スノースタイルにしたカクテルグラスに注ぐ。
グラスの底にミントチェリー(または、緑のマラスキーノチェリー)を沈める。
🥃
Bar.ピーチ・ハート 【Episode6-1】
「クリスマスソングなんて聞こえない」 前編
*******
都会(まち)の喧騒を離れた裏通りに、その店はある。
バー「ピーチ・ハート」。
気配り抜群でしっかり者の美形マスター趙雲氏と、ちょっぴり気の弱い天然癒し系のアルバイト姜維くんが切り盛りする、小さなカウンターバー。
さて、今夜のお客様は……。
*******
(ああ、今年も残り少なくなってきたなあ)
12月も半ばを過ぎたある日。
アルバイト先のバー・ピーチハートへ向かう途中の道で、ぼく(姜維)は、すっかり暗くなった空を見上げてほっとため息をついた。
街はクリスマスのイルミネーションに飾られ、いつもの喧騒も心なしか華やいで聞こえる。
すれちがう人たちの表情もどことなく楽しげだ。
ぼくはといえば、今年も取り立てて何ということもなく、また一年が過ぎようとしていた。
(結局今年も、カノジョできなかったしぃ)
ふだんはたいして気にもならないのに、毎年クリスマスが近づくこの時期になると、ちょっと寂しい感傷的な気分にとらわれてしまうのはなぜだろう。
その夜、ピーチ・ハートはめずらしく客が多かった。常連客の張飛さんや孔明さん、時々足を運んでくれる馴染み客、忘年会の流れらしい初めての客まで、狭い店内は大賑わいだ。
中でも、そこだけ花が咲いたかのように華やかなのは、一番奥のテーブル席に陣取った二人の女性だった。
近くに勤めるOLだろうか。
飲んで食べておしゃべりして、と思いっきり週末の夜を満喫している。
楽しそうにさんざめく彼女たちの様子を、ぼくは見るともなく眺めていた。
すると突然、二人のうち若い方のコが、ぼくに向かって手を上げた。
「すみませ~ん。生ビールお代わりお願いします」
「はいっ」
自分でも、ちょっとテンション高いなと思うほどの声が出てしまい、さっそくカウンターに座っていた張飛さんに突っ込まれた。
「おっ、姜維くん。いい返事だねえ」
「張飛さんってば、茶化さないでくださいよ」
ぼくがビールのジョッキを持っていくと、さっき手を上げたコがにっこりと笑った。
「ねえ、キミ、アルバイトくん? なんていう名前?」
「え? ぼくですか」
「そう。さっきからこっちの大喬お姉さまが、聞け聞けってうるさいの」
「ちょっと、小喬!」
大喬と呼ばれた女性は、真っ赤になって僕の方をちらりと見た。
――え? それって、どういうリアクション?
思いがけない展開に、ちょっとドギマギするぼく。
我ながら分かりやすい性格だよ、全く。
「はい。アルバイトの姜維です。どうぞよろしく」
「ふ~ん。姜維くんっていうんだ。ここのお店にはいつも出てるの?」
「ええ、まあ。テスト期間以外は」
「ですって。大喬お姉さま、これから毎晩通う?」
「ばか……」
恥ずかしそうに目を伏せるしぐさが、何ともいえずかわいらしい。
(かわいいひとだなあ。ぼくよりは年上みたいだけど)
何と答えたらいいのか、言葉に詰まって、そんなことをぼんやりと考えていたぼくに、趙雲マスターの厳しい声が飛んできた。
「姜維くん、2番テーブルのオーダー上がりましたよ」
「あっ、はい! すみません」
いけない、いけない。仕事中だぞ。
ぼくは、あわててカウンターに戻り、渡された料理をテーブルに運んだ。
他の客がいるときは、特定のお客さまとあまり馴れ馴れしく話したりしないように、とはいつもマスターに言われていることだ。
そんなことも忘れてしまうほど、ぼくはのぼせ上がっていたんだろうか。
確かに今だって、彼女の視線が気にならないといえば嘘になるけど。
けだるそうにカウンターに頬杖をついていた孔明さんが、料理を運び終えて戻ってきたぼくの顔を眺めて、にんまりと笑った。
「姜維ちゃんってば、過剰なサービスはだめよ~。ここはホストクラブじゃないんだから」
「ちょっ……孔明さん。何を言うんですか、いきなり」
「うふ。まあ、舞い上がるのもわかるけどねえぇ」
孔明さんは、ギムレットのグラスを一気に飲み干すと、何がおかしいのか、くっくっと喉を鳴らして笑った。
隣に座っていた張飛さんも、楽しそうにウーロン茶割りのグラスを傾ける。
「よかったな、姜維。今からがんばれば、今年のクリスマスに間に合うぜ。カノジョいない歴20年の俺としちゃ、青春真っ最中の姜維くんがうらやましい限りだよ」
「な……。張飛さんまで……」
「うふふ。ほらほら、顔がにやけてる~♪」
だめだ。孔明さんったら、今夜はお店が休みだからって、完全にまわっちゃってるよぉ。
「もう、やめてくださいよ、二人とも」
こんな会話、奥の女性たちに聞かれたくない。困り果てたぼくに、見かねた趙雲マスターが助け舟を出してくれた。
「はいはい、姜維くん。ここはいいから、裏へ行ってお水のボトルを2本持ってきて」
ぼくは、これ幸いと、逃げるようにその場を離れた。
「はあ……」
ストックヤードの冷蔵庫を開けて、「ごろごろ水」というラベルが貼られたペットボトルを2本取り出した僕は、何だかやり切れない思いでため息をついた。
――みんなしてあんなにからかうなんて、ひどいよ。まだ、何がどうなったっていうわけでもないのに。
何がどうなったどころか、まだ何も始まってすらいないのだ。
この調子だと、「ピーチ・ハート」で働いている限り、ぼくには恋愛なんてできないんじゃないだろうか。
(何言ってるんだ。それじゃまるで、「ピーチ・ハート」がぼくの生活のすべてみたいじゃないか)
ぼくにだって、大学生としての日常があるんだ。あんまり熱心に授業には出てないけど。
合コンや合ハイのお誘いだって来るかもしれない。まあ、部活もやってないし、サークルもうざくて半年でやめちゃったから、どこからもお呼びがかかりそうにはないけど。
――だめだ。やっぱりおれの毎日って、「ピーチ・ハート」オンリーじゃんか……。orz
あらためて気づいた。
なんて寂しい、ぼくの学生生活。
これじゃカノジョなんて、永久にできるわけないよ~。(T_T)
げんなりして店内に戻ったぼくに、趙雲マスターから次々と仕事の指示が飛んだ。まるで、わざと忙しくさせてるみたいに。
まあ、そのおかげで、余計な気を遣わなくてもよくなったんだけどね。
ぼくがせわしなく動いているものだから、張飛さんや孔明さんの冷やかしも来なくなったし。
そうこうしているうちに、客足が引き始め、12時をまわった頃には、常連の張飛さんと孔明さん、それに奥の女性二人組だけ、といういつもの静かな「ピーチ・ハート」の風景になった。
「さあて、もういいでしょう」
グラスを片付けていたマスターが、ぼくに目配せした。
「このカクテル、奥のテーブルに持っていって。私のおごりですから。あ、少しゆっくり話してきてもいいですよ」
「え?」
きょとんとするぼくに、マスターが軽くウインクする。
「張飛さんも孔明さんも身内みたいなものですから、もう気を遣わなくても大丈夫。それよりも、こんな時間まで待ってくださったお客さまに、しっかりサービスしてきてください」
「マスター……」
いつもながらあざやかな趙雲マスターの気配りに、じわっと胸が熱くなる。
なんでこの人は、こんなにかっこいいんだろう。やっぱりぼくとは格が違うんだ。(←いえいえ、単なる年の功:作者)
ぼくは、おずおずとマスターからカクテルを受け取り、ちょっとうきうきしながら奥のテーブルに運んだ。
「これ、マスターからのサービスです」
「きゃっ、うれしい~~」
ぼくがカクテルグラスとおつまみをテーブルに置くと、彼女たちは、黄色い歓声を上げた。
「それから、お客さまと少し話してきてもいいって、マスターのお許しが出ました」
「わっ、ほんと?」
「じゃ、どうぞ、ここに座ってくださいな」
大喬さんが、自分の座っている位置をずらして、ぼくに隣の席を勧めてくれた。
「失礼します」
律儀に断ってから、ぼくはソファの隅っこに腰を下ろした。
ここで働き始めてもう結構経つけれど、こんな風にお客さまの横に座るなんて初めてだ。
やたら体が緊張してる。
ぼくは、思い切って大喬さんに話しかけた。
「こんなに遅くなって、大丈夫なんですか?」
大喬さんは、びっくりしたように顔を上げると、ぼくを見てにっこりと笑った。でも、言葉で答えてくれたのは小喬さんの方だ。
「うん、平気よ。アタシも大喬お姉さまも、家近いから。タクシーで帰ってもすぐだし」
「そうですか。それじゃ、どうぞ今夜はゆっくりしていってくださいね」
ええっと、それから……。
一体、何を話せばいいんだろう?
ああ、何だか顔がにやけているのが自分でも分かる。
だって、思いがけず、幸福の女神が突然目の前に降りてきて、宝くじが当たったよと告げられたみたいなものなんだから。
それからも、いろいろ他愛のないことをしゃべった気がするのだが、話の内容は上の空で、全く覚えていない。
ただ、大喬さんの指が細くてきれいだなとか、目を伏せると睫毛がすごく長いんだなとか、そんなことばかり考えていた。
🥃 続きます✨
「星に願いを」 -プロローグ-
ほら
あれが 夏の大三角形
わし座のアルタイル
こと座のベガ
天の川をはさんで分かたれた ふたつの星
そして
隔てられた空間をつなぐ架け橋のごとく
銀河に輝く はくちょう座のデネブ
..........................................
今日は七夕
幼い日に 母から聞いたおとぎ話
天帝の怒りにふれ
遠く引き離されてしまった織姫と彦星が
年に一度だけ
逢瀬を許された日だという
人はみな
恋人たちの悲しい運命(さだめ)に
涙するけれど
わたしは
今 頭上に輝くふたつの星に
嫉妬さえ覚える
一年に一度でもいい
あなたに逢うことが叶うなら
夢でもいい
あなたをもう一度
この手に抱きしめることができるのならば、と
叶わぬこととは知りながら
今宵はせめて
星に願いをかけてみようか
もう一度 あなたに逢えますように
あなたに わたしの思いが届きますように
翠蓮――
◇◆◇
数いる三国武将の中でも、姜維や関平と並んで大好きなのが趙雲です。
最初に三国志にはまった頃は、孔明さま一直線!だったのですが、いつの間にやら孔明サマは別格(神棚の上の方)になり、趙雲が一番になりました。
その後、姜維によろけ、関平に萌え……(笑)。
いろいろはまってきましたが、やっぱり今でも趙雲さまが好き!
ということで、まだ七夕には早いのですが、素敵なphotoが3枚出ましたので(笑)、ずっと前に書いた七夕趙雲小説を、こちらにもアップしようと思います。
ところで趙雲というと、しばしば「女嫌い」というふうに解釈されていることがありますね。
実際にはどうだったのか、知るよしもありませんが、もし彼が一生妻帯しなかったのだとしたら、それはそれで趙雲らしいなあという気もします。
乱世に生きる男の心構えとして、いつ戦場で果てても悔いはないという覚悟だったでしょうから、妻子など必要以上に未練となるものを持ちたくなかったとしても不思議ではないし、残される者の悲しみを思えば、最初からそういう関わりを持たないように心がけていたかもしれません。
何よりもお仕事第一の真面目な趙雲のこと、女性なんかにかまけている暇はなかったということでしょうか。
まして、その場限りの女性を相手にする、というような不実な行為は、彼にはできなかったんじゃないかな(……と、ものすごい聖人君子だと思い込んでいる私)。
後に趙雲の後を継いだ趙広、趙統も、実子ではなく養子だったとも考えられますし。
で、「女嫌い」なんてレッテルが貼られたりするわけですが、私としては、どうしてもそれでは納得できないんです。
妻帯しなかったのは事実かもしれない。浮いた噂も聞かないし。
でもそれは、女が嫌いなんじゃなくて、あまりにも深く愛しすぎた女性がいたから……。
一生をかけて、一人のひとを愛し抜いたからだ、ってそんなふうな解釈はできないでしょうか。
そんな訳で、私の脳内設定では、趙雲が愛したただひとりの恋人というのが存在します。
この詩に出てくる翠蓮というのが、その人(もちろん、拙サイト限定設定です)。
けれども彼女との恋は、結局悲恋で終わってしまい、趙雲はその後翠蓮の面影だけを守り続けて、死ぬまで妻帯しませんでした。
もう、想い出の中でしか逢うことのできない女人の、寂しげな笑顔を思い浮かべる度に、趙雲の胸は激しく痛みました。
ひとを愛したのは、おそらく、それが最初で最後だったのですから。
――たとえ一年に一度でも、逢うことが叶うのなら……。
なんとうらやましいことでしょう。
そんな趙雲の切ない思いを、七夕の宴に託して。
では、本編をどうぞ。
🌌
「夢を継ぐ者」 ー姜維と馬謖ー
〈1〉
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魏の中郎将だった姜維は、諸葛亮に出会い蜀の人となる。
新参の姜維にとって、諸葛亮の信任を一身に受ける馬謖(ばしょく)は、まぶしいと同時にどこかほろ苦い存在でもあった。
やがて、街亭守備の大任を受けた馬謖は、勇躍出陣するが……。
馬謖には心中に深く秘した、姜維に負けられない理由(わけ)があった。
劉備が諸葛亮に託した「大いなる夢」。
その夢を継ぐのは、果たして姜維か、それとも馬謖か?
◽️◾️◽️◾️◽️◾️◽️
その日、突然私のもとを訪れたそのひとは、印象的な澄んだ眼で私に語りかけた。
「姜維どの。私が出陣した後は、丞相のこと、よろしくお願いいたします」
胸に染み込むような声でそれだけを言い、かれは来た時と同様、静かに幕舎を出て行った。
これまでは、互いに顔を合わしても、会釈をする程度で親しく言葉を交わしたこともない。
思いがけない申し出に、返す言葉もすぐには見つからず、私は黙って後ろ姿を見送った。
静かなまなざしの中に、懐かしむような温もりを感じた気がしたのは、私の思い過ごしだったろうか。
馬謖幼常――。
それがかれの名前だ。
蜀漢の丞相 諸葛亮孔明にその才を愛され、常に側にあって数々の難局を乗り越えてきた。自他ともに、諸葛丞相の後継者として認められた逸材だという。
蜀漢に仕えるようになってからまだ日の浅い私にとって、馬謖幼常の名は、まぶしく、またかすかに苦い存在でもあった。
その馬謖が、諸葛丞相と蜀全軍の期待を一身に負って、街亭の守りに赴くことになった。
かれが私のもとを訪れたのは、出陣の前日である。多忙な準備の合間をぬってのことだったにちがいない。
◇◆◇
蜀漢の先帝劉備玄徳の遺志を継いだ諸葛亮孔明が、何年もかけて周到な計画を練り、準備を重ね、ついに魏討伐の軍を起こしたのは、蜀の建興五年のことである。
蜀漢の命運を賭けた北伐は、当初順調に展開した。
またたく間に南安、天水、安定の三郡を平定した蜀軍は、翌年には祁山に進出し、長安を窺う構えを見せた。
魏の中郎将 姜維伯約は、このとき、太守とともに天水を守っていた。
だが、「蜀軍攻め来る」の報に恐れをなした太守は、あろうことか姜維ら部下を残して城から逃げてしまったのである。
その上姜維には、謀反の疑いまでかけられていた。
進退きわまった姜維は、やむなく蜀の軍門に降る。
自分と行動を共にした部下の命を助けんがため、あえて縄目の恥辱を受けたかれは、やがて丞相諸葛孔明の前に引き出された。
(即刻打首は覚悟の上――)
だが、足元に引き据えられた敗残の将に向かい、意外にも孔明はこう言ったのだ。
「姜維とやら。蜀に降り、私を輔けてはくれぬか」
「何と?」
「私の夢をそなたに語りたい。そなたなら、ともに同じ夢を語れるのではないかと、そう思ったのだ」
おだやかな、それでいて強い意志を秘めた双眸が、じっとこの身に注がれている。
姜維は、思わず頬が熱くなるのを感じた。
「孔明どの……」
それが、姜維と孔明の出会いだった。
◇◆◇
(このお方にお仕えするために、私は生まれてきたのだ――)
確信といっていい。
私はその瞬間、若者らしい感性で、この出会いを運命的なものだと信じた。
二十七歳のこの日のために、今日まで生きてきたのだと。
主を裏切り、祖国を捨てるに至ったのには、それなりの経緯がある。だが、何を言っても言い訳にしかならないだろう。
しかし、私は決して後悔していない。
敗残の将に対して、丞相は自ら縄を解き手を取り、自軍に招いてくださったのだ。自分の後を継いで蜀漢を支えてほしいとまで言ってくださった。
諸葛丞相こそ、この命を捧げるに足るただ一人の人だ。そのためなら、不忠不孝の汚名をも甘んじて受けよう――。
涙をぬぐうことも忘れ、私はまっすぐな瞳をそのひとに向けた。
「姜維伯約、今日よりこの命、孔明どのに捧げまする」
こうして、自分は蜀の人となった。
あの日の心の泡立ち、決意の厳粛さを、私はまだ昨日のことのように覚えている。
街亭は交通の要衝であり、関中深く進入した蜀軍にとって、生命線ともいえる場所だ。
ここをもし魏軍に奪われるようなことになれば、補給路を断たれた蜀軍は撤退せざるを得なくなる。
馬謖が街亭守備の大任を命じられたことは、おおかたの予想を裏切っての大抜擢だといっていい。
羨望と嫉妬。期待と不安。
諸将の視線が、かれの全身に痛いほどにつきささる。
さらに。
「街亭を守り抜けば、そなたの軍功を第一としよう」
軍議の席で馬謖に向けられた丞相の言葉は、皆を驚かせた。
「これは、そなたに与えられた試練じゃ。将の中には、若さゆえにそなたを軽んずる者がいることは、そなたも知っておろう。だが、儂は馬謖幼常こそ、この諸葛亮の後を継ぐに足る唯一の男と思うておる――」
「丞相……。かたじけのうございます。この馬謖、必ず――必ず、丞相のご期待に添い奉ります!」
馬謖は感涙にむせび、勇躍出陣していった。
その後ろ姿が、いつしか自分の幻影に重なる。
あれが、私だったなら。自分が、丞相に選んでもらえたのであれば。
(丞相のためなら、あらゆる困難を排し、命をかけて任務を遂行しよう)
私もきっと、馬謖と同じ顔をしているにちがいない。
ふと、胸がしめつけられるような気がした。
これは、悋気(りんき)だろうか――。
馬謖を送り出して以来、丞相は落ち着かない様子だった。
「伯約――。儂の決断は正しかったと思うか? 幼常は大丈夫だろうか」
「馬謖参軍のことならご心配にはおよびますまい。必ず街亭を守りきられましょう」
出陣の前夜、私の幕舎を訪れた馬謖の双眸には、一点の曇りもなかった。
丞相の選択に誤りはない、この人こそ誰よりも適任だと、あのとき私は確信したのだ。
――街亭は砦もなく、攻めるに易く守るに難い場所じゃ。そなたは街道を守ってじっと動かず、ここを死守することだけを考えよ。
丞相の指示に何度もうなずいていた馬謖の顔が、今も目蓋に残っている。
自負と誇りにあふれた、あの眼。そう、あれは私自身の眼でもあるのだから。
「どれほど完璧な策を立てたとしても、すべてがその通りに運ぶとは限らぬ。まして相手は、魏随一の策士司馬懿仲達ぞ。その時、幼常はどう切り抜けるであろう?」
「………」
「言葉が足りなかったかもしれぬ。すぐに伝令を――。いや、あの者に限ってそのようなことは……。ああ、誤らねばよいが」
まるで幼子を気遣う老親のようだ。
丞相の祈るような思いが否応なしに伝わり、私の心はまたちりちりと痛んだ。
◇◆◇
やがて。
恐れは現実のものとなった。
魏に先んじて街亭に着いた馬謖は、何を思ったか孔明の指示に背き、街道脇の高地に陣を張った。
そして、魏軍に包囲されて水を断たれ、ほとんど戦闘らしい戦いもできぬまま全滅したのである。
街亭からの悲報が届いたとき、孔明はひとり幕舎の中にいたが、取り次いだ者がいぶかるほどに冷静だった。
大事を聞いて続々駆けつけた武将たちの前でも、とくに慌てる様もなく、粛々と漢中撤退の指示を出し続けた。
だが、感情を押し殺した怜悧な顔の下で、孔明の心は、今にも張り裂けんばかりに嘆き、血を流していたのだ。
(幼常よ――)
(そなたほどの者でも、軍令を誤ることがあるというのか)
(――なぜ、儂の命に従わなかったのだ?)
どれほどの後悔、どれほどの悲嘆を重ねても、こぼれた水はもとには戻らない。
気が遠くなるほどの準備を積み重ねて、ようやくここまできた孔明の悲願は、馬謖の信じがたい失策によって霧のように瓦解してしまった。
街亭に向かった軍は散り散りになり、指揮官である馬謖の生死さえわからぬ有り様だった。
🌌 続く