ヴィオレッタ 上
彼女は謳う。
毎日、まいにち。
陽の光も入らない薄暗い部屋で
可憐なその手を伸ばす。
"不思議だわ!…不思議だわ!
心に刻み込まれたあの言葉
今まで知らなかった、愛し愛される喜び
それを否定することが出来るのかしら。
あぁきっとあの方なのね。
寂しい心が密かに憧れ描いていたのは…”
「舞桜…。すまない。」
眉間に皺を寄せて
男はもうずっと開けていない
その格子戸を握りしめた。
牢を背に仄暗い階段を登ると
歯切れの悪い声が聞こえる。
「おい、武市、どうだった?」
「いつも通りだ」
「はぁ…だと思ったよ。
それじゃ、今日は飲みに行くかっ!」
「今日もだろ。」
煙草をふかしながら、そうだったかと
桧山は笑う。
「お前はほんとにくそ真面目だなぁ、
俺にゃあ無理だっあっはっは」
酒癖の悪さは10年前から何も変わらない。
だがそれに救われていたりもする。
ヤツの目の前の徳利を端に寄せながら
ふとそんなことを思った。
「もうそろそろ終われ。桧山」
「ぁあ…。ったくほんとに
お前も、あの娘も、もう終わりに…」
寝ぼけ眼の桧山の言葉で
一気に酔いが醒める。
"終わり” その言葉を聞きたくはなかった。
だがもうこれ以上、
見ないふりする訳にはいかないのだ。
「もう4年か…。」
舞桜が、屍血になって。
時は大正十二年。
突如現れた得体の知れないものは、
世間を大いに賑わせた。
特務機関が発足され、全国に広がっていった。
"屍血”…それは人を喰う。
屍血の血が体内に入り順応したものは
またヤツと同じようになる。
4年前、目の前で妻が、舞桜が死んだ。
二人で買い物に出かけた時、屍血が現れた。
あっという間に周りの人を喰い殺し
ターゲット
次の目標として
俺たちを狙った。
いや違う。妻を狙った。
逃げようとした妻の首筋に噛み付いた時
俺はただ呆然とその光景を見つめていた。
噴き出した彼女の血は風に舞う桜のようで
それからはほとんど覚えていない。
たくさんの憲兵がやって来て
そして妻を殺したその獣を
どこかに連れていった。
残ったのは血塗れのあの惨状だけだった。
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"びょ、病院に行かなければ…。
まお、今すぐ治してもらうから、
だから…"
"あつい…、遥一…さん”
"ぁああ、どうして、そんなっ…"
俺の方を見たのは、数分前見たばかりの
それと同じ血走った赤い目だった。
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「...お客さん!」
「あっ、あぁすまない。
勘定お願いする」
最後の一杯を水のように流し込むと、
考えたくもない未来に靄がかかった。
「どーもー!」
「なぁ、たけいちぃ、
これかあどうすんだぁ?」
千鳥足でぶつかりながら桧山がいう。
「帰る」
「そうじゃなくてなぁ、お前も
覚悟しなきゃねぇんじゃねえのか?」
「分かっている!」
思いがけずに出た怒鳴り声に
驚いた顔で尻もちをついた桧山は
焦点のあってない目でこちらに顔を向ける。
「くそっ!」
「お、おい!武市ぃ!」
未だ酔いの醒めぬ声の桧山を無視し
俺は繁華街に闇雲に歩き出す。
くそ、くそくそくそくそっ!
分かっている。
ずっとこのままでいられる保証もない。
このままでいていいはずなどない。
特務機関にバレれば実験動物のように扱われ
朽ちて逝くに決まっている。
分かっている。
けれどあんな妻でももしかすると
我を取り戻してくれるのではと期待している。
まだ生きていると何度も言い聞かせた。
でも、4年経っても彼女は
同じ日々をずっとずっと繰り返す。
劇場でオペラを歌うのだと
輝くような瞳で夢を語ってい彼女は
今も一人、あの冷たい部屋で
歌をうたう。
あるはずのないスポットライトに手を伸ばし
見えない相手に恋を謳う。
なんて残酷なことだろうか。
いっそ人を襲うことにしか目がない
獣に成り下がってしまえば良かった。
あの日私が二人で外に出ようと言わなければ
あの日私が妻の位置にいたら
あの日私が庇えていたら
「あぁあぁあぁああぁあぁああぁ゛」
眠る気配のない街の中
店の明かりに照らされた慟哭は
彼女に届くことはなかった。
上巻・終
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