はじめる

#姜維と香蓮

読んでると、
思わず胸がギュッとしめつけられる、
そんなポエムを集めました。

全54作品・

千八百年前でも
恋する想いは
きっと
今の私たちと同じ

泣いて、笑って
悩んで、迷って

恋する喜び
恋する悲しみ
同じ想いに胸ときめかせ
同じ痛みに涙する

そう思えば
遥かなあなたを
身近に感じることができる

千華・2020-09-24
姜維と香蓮
遥かなあなたへ
万年妄想乙女

今、投稿中の「姜維と香蓮」は
実は、拙サイトの方でも
完結しているわけではなくて
いつ出来上がるかどうか
先行きの全く見えない連載中の作品。

いつか、創作できる環境と
「書きたい」気持ちが戻ってきたら
そのときは頑張って
続きを書きたいと思っています。

さて、次の第4章は、これまでとは少し
文章のニュアンスが変わります。
というのも、次の「後出師表」という話は
私がものすごく若い頃(笑)に
書いたものの焼き直しになっていて
かなり堅い文章なんですよね。

それを無理やり
「姜維と香蓮」シリーズの中に
押し込めてしまったものですから
ちょっと戸惑われるかもしれません。

かなり長い話になります。
ゆっくりと読んでいただけたら
幸いに存じます✨


千華・2020-10-05
姜維と香蓮
遥かなあなたへ
内輪話

はあ。よかった…。
戻ってこれたぞ🤨

「姜維と香蓮」シリーズ
4章があまりにも堅すぎて🙄
こちら側に戻ってこれない感じだったけど💦
5章で何とか元に戻れたでしょうか。

どこが青春ラブストーリーだって⁉️って
自分でツッコミ入れるわー😅

てことで、これからも
お気楽に書いていこうと思います🤭
よろしくお願いしますm(__)m

千華・2020-10-19
姜維と香蓮
内輪話

これらの作品は
アプリ『NOTE15』で作られました。

他に54作品あります

アプリでもっとみる


「姜維と香蓮」 5

第2章 芽生え (1)





私の名前は香蓮。
孤児(みなしご)だった私は、故あって蜀漢の丞相である諸葛亮孔明さまに養われ、成都で孔明さまのご家族と一緒に暮らしていました。
最初の北伐が失敗に終わった後、漢中に撤退した孔明さまのもとを訪れた私は、そこで魏から降ったという姜維伯約さまと出会います。
孔明さまが「自分の後継者に」とまでおっしゃった俊才だということでしたが、最初の印象が悪かった私は、どうしても伯約さまのことを好きにはなれませんでした。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


その日から、香蓮は姜維と同じように諸葛邸に住んで、かいがいしく孔明や喬、姜維らの身の廻りの世話に勤めた。
寝食をともにし、身近に接してみると、姜維が決して最初の印象のように、意地悪な男でも粗野な男でもないことが分かってきた。
かれは、誰に対しても礼儀正しく、真摯な態度を崩さなかったし、決して人前で感情的になることもない。
そんな姜維の静謐さは、香蓮の目には、少々冷淡に過ぎると見えなくもなかったのだが。

もっとも、姜維の今の立場を考えれば、そうすることが一番いい身の処し方だったろう。
目立たず、でしゃばらず、ただ孔明の意を解し、その企図するとおりに動いていれば、余計なやっかみや猜疑を受けることもないからだ。
己はあくまでも黒子に徹し、すべてはただ孔明のために。それが、漢中における姜維の全てだった。
(他の方は皆、どんな些細なことでも、自分の手柄や功績にしようとこだわるものなのに。姜維さまときたら、自分のことなどおかまいなしで、ひたすら孔明さまのためだけに心血を注いでいる。この方は、それでいいの?)
特に打ち解けて親しく言葉を交わすようなこともなかったが、香蓮は、いつも不思議な思いで、この寡黙な男の立ち居振る舞いを見つめていた。


◇◆◇


秋が深まるにつれ、南鄭の城下では、目に見えて人や物資の出入りが激しくなってきた。
孔明の眼は、早くから次の北伐の機会を見据えていたが、いよいよ軍の再編成や調練の見直しなど、実戦に備えた具体的な調整にかかりつつあるのだ。
そして、姜維はといえば、かつて馬謖がそうだったように、片時も孔明の側を離れず、遠征軍の構想を練り上げていた。
ここ数日は、二人とも部屋にこもりきりで、軍備の補充や兵糧運搬の工夫に余念がない。
そんな師弟の傍らにあって、香蓮の漢中での日々は、幾分の緊迫をはらみつつも、静かに過ぎていく。
彼女のただひとつの気掛かりは、諸葛喬の病が一向に回復の兆しを見せないことだった。


ある日のこと、香蓮は、義兄の薬草を摘むため、南鄭城から南に広がる丘陵地帯を歩いていた。
そこは、以前漢中に来たとき、初めて姜維と出会った場所に近かった。
丞相府に出入りしている商人から聞いてきたのだが、なにしろ慣れない山道である。
知らぬ間に、かなり奥深い所まで入り込んでいたのだろう。
気がつくと、すっかり帰る道を見失ってしまっていた。
(ああ、どうしよう――。もうすぐ日が暮れてしまう)
目当ての薬草は見つからぬまま、いたずらに歩き回ったせいで、足が鉛のように重い。
途方に暮れた香蓮は、泣きそうな思いで、その場に座り込んでしまった。

その時。
彼女の耳に、聞き覚えのある笛の音が聞こえてきた。
それはまぎれもなく、姜維と別れた帰途、この山道で耳にしたものだった。
「この笛の音は……姜維さま! 今日も、ここに来ていらしたんだわ」
遠くから切れ切れに流れてくる笛の音をたよりに、香蓮は、その方向をめがけて夢中で駆けた。
ようやく、いつぞやの淵の場所まで来て、そこに姜維の姿を見出した時、彼女は不覚にも泣き出してしまった。

「……姜維さま!」
「え? ええっ? 香蓮どの? こんなところで、いったいどうしたのです?」
森の中から突然現れた香蓮に抱きつかれて、さすがの姜維も狼狽したらしい。
「よかった……。私、喬兄さまの薬草を摘みに来て、道に迷ってしまって。怖くて、寂しくて……このまま日が暮れてしまったらどうしようかと」
安堵感が一気に押し寄せてきて、香蓮は人目もはばからず、男にすがって泣きじゃくった。
「そうしたら、あなたの笛の音が聞こえてきて……。もう、夢中でここまで走ってきたの」
そこまで言って、ようやく香蓮は、自分が姜維の胸にしがみついていることに気づいた。

「ご、ごめんなさい!」
恥ずかしそうに身を離そうとする香蓮に、姜維は、この男にはめずらしく、いとおしむようなまなざしを向けた。
初めて見る香蓮の女らしい姿に、かれは少なからず驚いている。
「ここで出会うあなたには、いつも驚かされる。私がここへ来たのは久しぶりのことですよ。偶然とはいえ、香蓮どのは運がよかった。ともかく、何事もなくて、本当によかったですね」
思いがけない口調の温かさ。
意外な思いにうたれて、香蓮はまじまじと男の顔を見つめ返した。
この人は、こんなに優しい目をする人だったのか――。
初めて、その眸子の中に、血の通った姜維の素顔を見たような気がした。





❣️

千華・2020-09-22
姜維と香蓮
姜維
三国志
遥かなあなたへ


「姜維と香蓮」 3

第1章 いじわるな出会い (3)





その日、午後も遅くなってから、香蓮は南鄭城に入った。
南鄭の城下は、成都よりはずっと小さかったが、活気にあふれている。
軍令がよく行き届いているのだろう。
街並みは明るく清潔で、行き交う人々の表情も穏やかだった。
(孔明さま、やっと着きました!)
丞相府の門を警護している衛士に訪ないを入れ、孔明の執務室に案内されるまでの間に、香蓮の足取りはこれまでになく軽くなっていた。
衛士が取り次ぐ声さえ耳に入らないほど、気持ちが高ぶっている。

香蓮が通された部屋には、両側の壁面いっぱいに、おびただしい書簡や図面がうずたかく積まれていた。
一段奥まった場所に、帳に隠れるようにして卓がしつらえられており、人の動く気配がする。
香蓮は、思わずその方向へ駆け出した。
胸の奥がつんとする。じわり、と熱いものがこみ上げてくる。
「孔明先生……!」
そこには、日ごと夜ごと目蓋に思い描いた、懐かしいひとの姿があった。

「香蓮? 本当に香蓮なのか?」
卓から立ち上がりかけていた孔明は、不意の来訪者が香蓮であるのを認めて、驚いたようだった。
「先生、お久しゅうございます」
久しぶりに見る孔明の姿は、少し疲れているようで、香蓮は一瞬言葉をためらったが、すぐにいつもの清雅な表情に戻ったのを見て、ほっと安堵の胸をなでおろした。
「突然で驚いたぞ。知らせてくれれば、迎えをよこしたのに。道中さぞ難儀であったろう」
「先生にお目にかかれるうれしさを思えば、道中の難儀なぞ、少しも苦にはなりません。成都からここまで、空を飛んでいるようでしたわ。待っていてもいっこうにお帰りにならないので、奥さまにお許しをいただいて、私の方から来てしまいました」

香蓮の声は、水のきらめきに似ている。
話すたびに、きらきらと明るい光が飛び散るようだ。
その光が反射して、孔明の胸にも温かいものが灯ったように思われた。
「相変わらずのお転婆だな。少しは落ち着かぬと、嫁のもらい手がないぞ」
「結構です。わたくしはどこへも嫁になど参りません。いつまでも孔明先生のお側におりますから」
孔明は、いつもの香蓮の軽口と思って破顔したが、香蓮がそのとき感じた小さな胸の痛みが何なのか、それは彼女自身にも分からないことだった。


ひととおりの挨拶を終え、香蓮は桂華から預かってきた文を孔明に手渡した。
孔明は、しばらくの間じっと感慨深そうに妻からの手紙を手にしていたが、
「……まだしばらく成都には帰れぬ。あちらは皆、つつがないか?」
そう尋ねる表情は、父親の顔だった。
「奥さまも、瞻坊ちゃまもお元気です。あ、それに喬さま、均さまのご家族もお変わりなく。奥さまからは、くれぐれも先生と喬兄さまの身の回りのことをよろしく頼むと、言い付かって参りました」
「さてさて、困ったものじゃ。桂華のお墨付きとなれば、そなたを早々成都へ帰らせるわけにもいかんな」
「勿論ですわ。先生とご一緒でなければ、私、決して成都へは戻らぬ覚悟で参りましたもの」
あまりにきっぱりとした言い方に、孔明は思わず声を出して笑ってしまった。
香蓮もわれながらおかしかったらしく、く、く……と忍び笑いをもらした。

「はは……。あいかわらず愉快な女子じゃ。まあよい。その調子でそなたがここにいてくれれば、私の気も晴れるであろうし」
香蓮の顔が輝いた。
あるいは、すぐに成都に立ち返れと孔明に叱られるかもしれない、と内心びくびくしていたのだ。
「本当でございますか? ここにいてもよろしいのですか?」
「帰れと言うてもきかぬであろうが。それに、喬の身の回りの世話をそなたがやってくれるのであれば、私も安心だ」
「よかった――」
香蓮は、ほっと安堵のため息をついた。


そのとき。
「失礼いたします」
凛とした声とともに、ひとりの背の高い若者が扉を開けて入ってきた。
「孔明先生。例の兵糧の輸送のことですが――」
言いかけてから、男は香蓮の存在に気づき、はっと言葉を飲み込んだ。
その顔を見たとたん、香蓮も「あっ!」と声をあげて、その場に立ちすくんでしまった。
忘れもしない、つい先刻、泉で水浴びをしていた時に出くわした男だったからだ。
「どうした姜維? 香蓮を知っておるのか?」
孔明の言葉が、香蓮の驚きをより大きなものにした。
(姜維? では、この方が、姜維伯約さま?)

声を失って呆然としている香蓮に向かって、件の男は優雅に拱手の礼をとり、にっこりと笑った。
「いいえ、このように美しい女性には会ったことがございません。まるで洛水の女神のようですね」
(まあっ……)
男の言葉に、泉での出来事が生々しく思い出され、香蓮はひとり赤くなった。

――嘘つき!

叫びたいのをじっと我慢して、香蓮は、非難をこめた目で姜維と呼ばれた男の顔を見つめたが、男は聖人君子のように取り澄ました態度を崩さず、その表情には、少しの動揺も見られなかった。

「失礼いたしました。来客中とは知らず、申し訳ありません。出直してまいります」
広げかけた地図をたたみ直し、退出しようとする姜維を、孔明が呼び止めた。
「いや。かまわぬ。そなたにも紹介しておこう。これは、私の養女で香蓮という者だ。しばらくここで私や喬の世話をしてくれることになった。世間知らずのお転婆ゆえ、何かと迷惑をかけるやもしれぬが……。よろしく頼むぞ」
孔明の言葉に姜維は、怜悧な印象のまなざしに幾分いたずらっぽい笑みを含ませて、うなずいた。
「そうですか。こんな美しい方が近くにいてくださるとは、うれしい限りです」





❣️

千華・2020-09-17
姜維と香蓮
姜維
三国志
遥かなあなたへ


「姜維と香蓮」 11

第3章 静 夜 (1)





私の名前は香蓮。
孤児(みなしご)だった私は、故あって蜀漢の丞相である諸葛亮孔明さまに養われ、成都で孔明さまのご家族と一緒に暮らしていました。
最初の北伐が失敗に終わった後、漢中に撤退した孔明さまのもとを訪れた私は、そこで魏から降ったという姜維伯約さまと出会います。
そして、孔明さまのご養子であり、私と実の兄妹のように育った喬兄さまは、重い病の床に臥せっておられたのですが……。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


諸葛喬が死んだ。
漢中に引き上げてから急に体調を崩したかれは、三月余りの闘病の後、あっけなく逝ってしまった。
香蓮が漢中に出向いてから一月半もたたぬうちに、諸葛喬伯松は帰らぬ人となったのだった。


諸葛喬の死から四日後。
深更――。
南鄭城の中にある孔明の屋敷は、重苦しい空気に包まれて、ひっそりと静まり返っていた。
もう冬の訪れが近い。
盆地である漢中の夜は、しんしんと冷えた。
(兄さま……)
香蓮は、眠れずにいた。
身体は綿のように疲れていたが、目が冴えきっている。気持ちが高ぶっているせいだろう。
諸葛喬の容態が急変してからというもの、夜を徹して看病し、最期を看取り、葬儀の手配、弔問客の対応と、嵐のような数日間だった。

ようやく時間が空いた。
同時に、どっと悲しみが押し寄せてきて、香蓮は何度も声を[殺]して泣いた。
ひとり静寂の中にいると、義兄と過ごした日々の記憶が次々と思い出されて、眠るどころではない。
居ても立ってもいられなくなり、そっと部屋を抜け出した香蓮は、奥庭の一隅、月明かりの下に立つ人影を認めて足を止めた。
青く冴えた月光に照らされ、彫像のように立ち尽くしているのは、香蓮と喬の義父である孔明そのひとだった。


「お風邪を召しますよ?」
ふいに目の前に現れた香蓮に、孔明はひどく驚いた様子だったが、ふっと深いため息をつくと、慈愛にあふれたまなざしをじっと香蓮に注いだ。
「眠れぬのか」
「はい――。孔明先生も?」
「やはり無理をさせすぎたのであろうか。弱音を吐かぬ子であったゆえ、私がもっと気をつけてやっておればよかった」
「………」
孔明の口から義兄の話を聞かされると、こらえていた涙が、またあふれてきてしまう。

「もう少し早くあれの病に気付いておれば、戦になど連れていかなかったものを。私があれの命を縮めたのかもしれぬ」
「いいえ。たとえ出師の前に病であることがわかっていたとしても、兄さまは決して成都に残ることを承知なさらなかったでしょう。そういう方でしたわ」
「そうだな。今となっては、何を言っても気休めにすぎぬが……」
孔明の頬が青ざめて見えるのは、決して月光のせいばかりではあるまい。
諸葛喬の人柄を誰よりも愛し、その将来に大きな期待を寄せていたのは、ほかならぬ義父 孔明であった。

「私は明後日、喬の遺骸とともに成都に発つ。とにかく陛下にご報告せねばならぬ。呉の兄上(諸葛瑾/喬の実父)からも弔問が来るであろうし」
諸葛喬は、主君である劉禅の妹を娶っていた。
名実ともに諸葛家の跡継ぎとして、その地歩を固めていたのだ。
「そなたも一緒に参るか?」
「いいえ。……私はここで、孔明先生がお帰りになるのを待っています」

諸葛喬が死んだ今となっては、香蓮が漢中にいなければならない理由もない。
孔明とともに成都へ向かえば、おそらく再びここへ戻ってくることはないだろう。
できることなら、もうしばらく、孔明の側にいたかった。
「奥さまの悲しまれるお顔を見るのが辛いのです。父(趙雲のこと)も漢中におりますし、もしお許しいただけるなら、もう少しこちらに置いていただけませんか」
香蓮の嘆願をじっと聞いていた孔明は、やがて静かにうなずいた。
「そうか。では伯約とともに、留守を守っていてくれ」

「ありがとうございます」
香蓮は、ほっと安堵の息をつき、小さく頭を下げた。
「伯約さまは、成都へは行かれぬのですか?」
「うむ。陛下にお目通りするよい機会ゆえ、私は連れて行きたかったのだが」
漢中の守りを疎かにするわけにはいかないという理由で、姜維は孔明の誘いを断ったのだという。
「確かに、伯約が残ってくれれば、私も安心してここを空けられるというものだ。石亭での戦以来、魏と呉の国境が騒がしい。いつ何が起こるか分からぬ状況だからな」


先に、魏討伐の兵を挙げるにあたって、孔明は、同盟国である呉でもなんらかの軍事行動を起こしてくれることを期待し、そのための工作に力を傾注した。
蜀と呉、ふたつの国が力を合わせなければ太刀打ちできぬほどに、魏は強大だったのだ。
その甲斐あって、この年五月、呉は魏領に侵攻した。
そして八月には、石亭において魏軍を散々に打ち破る大勝利をおさめた。
春に街亭で大敗を喫した蜀にしてみれば、呉の動きは、いかにも遅きに失した感は否めなかったが、おかげで関中方面の守りが手薄になっていた。
一度撤退した蜀軍が再び攻めてくるにしても、まだまだ先のことであろう――。
魏には、そんな油断があったのかもしれない。

孔明も好機到来とみていたのであるが、ただひとつ、気掛かりな点があった。
「気掛かりなこと、ですか?」
「伯約はすぐに言い当てたぞ」
「まあ! 先生の意地悪。どうせ私には、難しいことは分かりませんよーだ」
「これこれ、若い女子がそんなにふてくされるでない」
相変わらずの子どもっぽい仕草がおかしかったのか、孔明は思わず苦笑した。
「私が恐れているのは、司馬懿仲達」
「司馬懿?」

魏の文帝曹丕の死に際して、世嗣曹叡を輔佐するようにとの遺詔を受けたのは、曹真、陳羣、司馬懿の三人であるが、孔明が、その中で最も油断できない人物とみていたのは、司馬懿だった。
今、司馬懿は、荊州方面の軍事司令官として宛城にいる。
「我が軍に動きがあれば、すぐにも司馬懿が出てくるだろう。宛城ならば漢中にも近い。何とかこれを抑える手立てを考えているのだが、なかなかよい策が浮かばぬ。このような時期にここを離れるのは、いかにも不安なのだが、伯約であれば留守を任せられると思うてな」
「先生は、本当に伯約さまのことを信頼しておられますのね」
ほんの少し、胸が痛い。嫉妬――など、幼稚で場違いな感情なのに。

「だが、人を本気で信じることは難しい。あまりに信頼しすぎては、その者にとって重荷にもなる」
「それは、馬謖さまのことですか?」
「………」
沈黙が肯定を意味していた。
「幼常(馬謖の字)が今ここにあって、伯約とともに私を輔けてくれていたなら、と思う」
「そして、喬兄さまも元気でいらっしゃったなら――」
「ああ。そうであれば、どれほど心強かったかしれぬ」

――大切なものが、次々と失われていく。
なす術もなく、私はひとり取り残される。深く暗い悲しみの底に……。

夜空を見上げる孔明の双眸に映る虚無の色が、香蓮の心を訳もなくざわめかせる。
このまま、孔明の存在自体が虚無の中に呑み込まれてしまうのではないか。
そんな不吉な予感に捉われて、彼女は小さく肩を震わせた。
(何とか孔明さまのお力になりたい。たとえ、この命に代えてでも!)
香蓮は、眼前に立つ孤高の人の姿を、ひたと見つめた。
潤んだ眸子に、ひたむきな熱をたたえて。
この燃えるような思いがどこからくるのかということは、彼女自身にもはっきりとは分からなかったけれど。





❣️

千華・2020-10-01
姜維と香蓮
姜維
三国志
遥かなあなたへ


「姜維と香蓮」 8

第2章 芽生え (4)





「やあっ!」
静まり返った早朝の練武場に、裂帛の気合が響いた。
先に仕掛けたのは香蓮だ。
目にも留まらぬ速さで突く。払う。
飛び退ったかと思うと、また踏み込み、さらに突く。
香蓮の槍は、力強さではやや劣るものの、速さと瞬発力では並の男に引けを取らない。
鋭い技が次々に繰り出されて、さすがの姜維も防戦一方かと見えた。
だが――。
実際には、香蓮の攻撃はすべて見切られていた。
姜維は、香蓮の打ち込みを一合も返してはいない。
疾風のように襲ってくる彼女の槍を紙一重でかわしつつ、慎重に後退するのみである。

「姜維さまっ!」
香蓮が鋭く叫ぶ。
「遠慮はなさらないで、と言ったはずです」
彼女は、いつまでたっても姜維が反撃してこないことに、そして、そんな闘いを相手に許せるほど、自分の実力が遠く及ばないことに、苛立ちを覚えていた。
「遠慮などしておりませんよ」
姜維は、息も乱さず、冷静に言い放った。
「あなたの腕を見極めていたまで」
「ならばっ!」
怒りにまなじりを上げて繰り出した槍は、しかし、またしてもかわされてしまった。
渾身の一撃はむなしく空を切り、相手の肩先をかすめたにすぎない。

――私が女だから、最初から力を抜いて、適当にあしらうつもりなのか?

かあっと頭に血が上る。
「かわしてばかりでは、勝てないわよ!」
だが、香蓮が熱くなればなるほど、姜維の表情は冴え冴えと静謐になっていく。
「天水の麒麟児の本気を、いつになったら見せてくださるんですか? 趙雲さまが相手でなければ、やる気が出ないとでも?」
「………」
一向に反応しない相手を前に、口惜しさがこみ上げる。
「これ以上私に、惨めな思いをさせないで!」
香蓮の悲痛な叫びが練武場に響き、そして――。
ふいに、空気が変わった。


それまで氷のように冷たく無反応だった姜維の表情に、変化が現れた。
物憂そうな視線が、一転、険しくなる。
「どうも、おしゃべりがすぎるようですね、香蓮どの。あなたがそこまで言われるのなら――」
ふわりと、姜維の全身から青白い気が揺らめいたように見えた。
「お見せしましょう。……これが姜伯約の槍!」
言うなり、姜維の身体が沈み、視界から消えた。 次の瞬間。
何が起こったのか、一瞬、香蓮には理解できなかった。
冷たい殺気が頬を掠めたような気がする。
あっ、と思った時には、彼女の槍は遥か遠くへと弾き飛ばされていた。

(しまった――!)
恐ろしい重さの一撃を受けて、衝撃で手がしびれる。
反射的に飛び退ろうとしたが、それより速く、姜維の槍が香蓮の胸元を捉えていた。
かわす暇も、防ぐ術もなく、彼女はその場に突き倒された。
さらに、姜維は香蓮の抵抗を封じるべく、倒れた彼女にのしかかり、その自由を奪った。
男の槍で両肩を押さえられ、身動きどころか息もできない。
(く、苦しい……)
悔しいが、完敗だ。
実戦なら、間違いなく止めを刺されていただろう。


目を開くと、驚くほど近くに姜維の顔があった。
いつもと同じ、冴え冴えと暗い翳をまとった眸子が、じっと香蓮を見つめている。
「本当にあなたというひとは……無茶ばかりする。あまり丞相に心配をかけるものではありませんよ」
「………」
「負ける戦はしないことです、香蓮どの」
そう言うと、かれはさっと立ち上がり、茫然と言葉を失っている香蓮に手を差し伸べた。
香蓮は、一瞬その手にすがりかけ、そしてあわてて払いのけた。
「痛っ――」
槍を跳ね飛ばされた時の衝撃で、まだ手が疼いている。

「大丈夫ですか? あちらで傷の手当てをしましょう」
「平気です。怪我なんてしていないもの。ただ、手が少ししびれただけ」
男の手を借りずに立ち上がった香蓮は、意外にもさばさばとした表情をしていた。
「だめだわ。とてもかなわない。さすがは天水の麒麟児、完敗ね」
「香蓮どのこそお見事でした。女の方で、という言い方をするとまた叱られるかもしれませんが、あなたほど鋭い槍を遣われる方は初めてです」
どこかぎこちない姜維の賛辞に、香蓮はくすりと笑った。

――お世辞に決まってる。だって、私の槍はかすりもしなかったのだもの。

これほど鮮やかに叩きのめされたことは、未だかつてなかった。
圧倒的な相手の強さに対して、正直、手も足も出なかったのだ。
それでも、妙に心は晴れ晴れとしている。
「最後の一撃だけは、本気で打ち込んでくれたわね?」
「あなたの闘志に敬意を表したかったのです」
姜維は、この男にはめずらしく、翳のない微笑を見せた。
「ありがとう、姜維さま。最後まで適当にあしらわれていたら、耐えられなかったもの。あの一撃は、私を認めてくださった証だと思っていいのね?」





❣️

千華・2020-09-23
姜維と香蓮
姜維
三国志
遥かなあなたへ


「姜維と香蓮」 10

第2章 芽生え (6)





夢にまで見た父子の対面を果たした日。
初めて目にした趙雲の容姿、その一挙手一投足を、香蓮は今も鮮やかに覚えている。
父は、香蓮の顔をひと目見るなり、絶句した。そして、幼い我が子の手を握りしめて、潸々と落涙した。
その存在すら知らなかった娘。
十年前、胸の奥底に、固く封印した女性の忘れ形見……。
眼前に現れた少女は、紛れもなく愛しい翠蓮の面影をその可憐な面にとどめていた。
驚きと、懐かしさ、愛しさに、言葉よりもまず感情が胸にあふれ、それとともに遠い日の苦い過ちや主君の大恩などが思い起こされて、趙雲の涙はいつ止まるとも知れなかった。

だが、香蓮を娘として正式に認められてはどうか、という孔明の提案に対しては、ついに趙雲は、頑として首を縦に振らなかった。
「荊州でのことは、もはや時効でありましょう。この上は、晴れて香連をお手元に引き取られてもよろしいのでは?」
「いや、それはできませぬ。香蓮にはかわいそうだが、やはり私は、今でもあの時の己の過ちを許すことができないのです。香蓮は、言うならば『罪の子』。むろんこの子自身には何の罪科(とが)もないが……。しかし、私は己自身への戒めとして、香蓮と父子の名乗りをすることは許されぬと思うのです」

一旦こうと思い定めれば、梃子でもこの男の決意は動くまい。
それが趙雲なりの、けじめのつけ方なのであろう。
孔明は嘆息しつつも、かれの意志を認めざるを得なかった。
「せっかくのお心遣いを、申し訳ござらぬ」
「いや、子龍どののお気持ちは、この孔明、誰よりもよく分かっています。それでは、香蓮は、私の養女としてお預かりいたしましょう。表立って父子の名乗りができずとも、香蓮は正真正銘子龍どののお子。私の手元に置いておけば、いつでも遠慮なく会っていただくこともできましょうから」
「かたじけない。軍師どの、香蓮のこと、なにとぞよろしくお願い申し上げます」
趙雲は心からの感謝を込めて、孔明に頭を下げたことだった。

「父子の名乗りもしてやれぬが、けしてそなたやそなたの母をなおざりに思うているのではないのだ。それだけは、わかってほしい」
父も哭き、子も泣いた。
傍らにあった孔明とその妻桂華もまた、二人の運命の厳しさに哀惜の涙を禁じ得なかった。
だが、その日のことは、どこまでも四人だけの密かごととして、それぞれの胸の内深くおさめられた。
こうして、香蓮は、孔明の養女として諸葛家に引き取られることになったのである。


(蜀にその人ありと知られた、常山の趙子龍どののご息女であったとは……)
趙雲の血をひく娘であるならば、彼女の人並みはずれた智勇も、なるほどと納得された。
姜維は、初めて聞く香蓮の数奇な運命に驚くとともに、彼女の踏み越えてきた道の遠さ、険しさに胸を痛めた。
だが、今それを語る香蓮の瞳には、みじんの暗さもない。
香蓮は、明るく澄んだ眸子で、静かに微笑していた。

「姜維さま。今度は、私が尋ねていい?」
「もちろんかまいませんが。あ、その前に、香蓮どの。これからは、伯約と呼んでください。その方が堅苦しくなくて落ち着きます」
「わかりました。では、姜……いえ、伯約さま。孔明さまは、あなたが帰順なされたとき、わが後継者を得たとたいそうお喜びになられたそうですね?」
孔明のことを語るとき、香蓮の頬はうっすらと紅に染まる。
姜維は、まぶしそうに目をそらした。
「丞相にそう思っていただいただけで、私は生まれてきた甲斐があるというものです。あとはこの身をなげうっても、その大恩に応え、ご期待にそえるよう力を尽くすのみです」

「うらやましいわ……」
香蓮は立ち上がると、つと顔をそむけた。
「私はもう何年も、孔明さまと一緒に暮らしてきました。学問も見てくださる、みなしごの私を、実の娘のように慈しんでくださる。でも――」
香蓮の声音は、どこか寂しげに聞こえる。
「それだけなのです、結局。あの方にとって私は、それ以上の存在にはなれない」
「あなたは、丞相を……」
愛しているのか、と言おうとして、姜維は言葉を飲み込んだ。
孔明には桂華という妻女がいるのだ。

かれはそっと香蓮の細い肩に手を置くと、温かいまなざしを注いだ。
「そんなことはない。あなたがここに来られたとき、丞相は、それはうれしそうな顔をしておられました。私がお側にお仕えしてからもうずいぶん経ちますが、丞相のあんなお顔を見たのは初めてのことです。香蓮どのが思っていることとは少し違うかもしれぬが……。丞相にとって、あなたがとても大切なひとだということだけは、確かなことではありませんか?」
一瞬、冷徹を装う姜維を覆った殻が剥がれ落ち、やさしい素顔がのぞいた。
真摯ないたわりの感情が、香蓮の心にさざなみのように広がってゆく。
「――ありがとう」
香蓮は、精一杯の笑顔を返した。
今、胸の奥に芽生えた小さなときめきは何だろう、と自問しながら。





❣️ 第2章 完

千華・2020-09-24
姜維と香蓮
姜維
三国志
遥かなあなたへ


「姜維と香蓮」 4

第1章 いじわるな出会い (4)





(――もう、何よ、あいつはっ!)
孔明の執務室から退出した香蓮は、用意された居室に引き取ってからも、腹立たしい気持ちがおさまらなかった。
冷静に考えれば、香蓮のことをかばってくれたのだと分かる。
事の次第を明かして、孔明に余計な心配をかけるべきではないと、姜維は判断したのだろう。
(それにしたって……!)
小馬鹿にしたような視線が頭から離れない。
「こんな美しい方が」と言いながら、その実心の中では、「こんなじゃじゃ馬娘が」と思っていたに違いないのだ。
「ああ、ほんのちょっとでも興味を持って、損しちゃったわ。あんな奴、喬兄さまの爪の垢でも煎じて飲めばいいのよ!」

香蓮のいらいらした気分は、しかし、諸葛喬を見舞ったとたんに、どこかへ吹き飛んでしまった。
義兄の容態が、想像していたよりもずっと思わしくなかったからだ。
「喬兄さま――」
「え? ……あ、香蓮?」
寝台に臥せっていた諸葛喬は、入ってきたのが成都にいるはずの香蓮だと知り、驚いて目を見張った。
「私は、夢を見ているのかな」
「いいえ、夢じゃありませんわ。奥さまに無理を言って、兄さまや孔明さまのお世話をさせていただくために、こちらへ来たんです」
香蓮は、なるべくいつもどおりの調子で話そうと努力したが、気持ちとは裏腹に、視線はいつの間にか、頬骨が尖るほどにやつれた義兄の顔をくいいるように見つめてしまう。
「明日からは、私が腕によりをかけて滋養のあるものをお出ししますから。それを食べれば、病なんてきっとすぐに良くなります」
「ああ、そうだね。ありがとう、香蓮」

明るく笑った諸葛喬だったが、それでも拭いきれない病の影に、香蓮は黙って唇を噛みしめるほかなかった。
彼女は、わざと話題を変えた。
「そうだ。兄さまは姜維という方をご存じですか?」
「姜維伯約?」
「ええ。孔明さまがたいそうお気に召された俊才だというから、どんなすばらしい方かと思っていたけど、いけすかない奴だったわ」
思い出すとまた怒りがこみ上げてくる。香蓮の眉根が険しくなった。

「そんなことを言うもんじゃない。かれは立派な男だよ。私は一緒ではなかったが、わが軍が漢中へ引き上げる際も、趙雲将軍とともに殿軍を願い出て、それは見事な働きだったそうだ」
「そりゃあ武将としては優れているのかもしれないけど、私が言いたいのは人間としてです。もう、サイテーの馬鹿男!」
ぷっ、とこらえきれずに諸葛喬は吹き出してしまった。
幼い頃から兄妹のように育ってきたが、気の強いところは昔のままだ。
よく香蓮にやり込められて、泣きそうになった悔しさが、今は懐かしい感慨を伴って思い出された。
「姜維どのも、香蓮にいじめられるのかなあ」
「まあっ! それはどういう意味ですか!」
諸葛喬は、人差し指で香蓮の頬を軽くつついた。
二人は顔を見合わせ、そして声を立てて笑った。


「でもね、香蓮。考えてみてごらん」
諸葛喬は、寝台の上に半身を起こすと、傍らの香蓮に語りかけた。
「姜維どのは、ここ漢中で、心を許せる相手が一人もいないのだよ」
「え?」
「義父上のお気に入りとはいえ、つい先日までは魏の武将だった男だ。さらに、どんな事情があったにせよ、降伏して我が方に寝返ったのだからね。蜀軍の将兵たちからはよく思われていない。胸襟を開いて話せる友人も、まだいないだろう」
「―――」
見知らぬ人たち。
とげとげしい言葉と、敵意を含んだ視線。
裏切り者に対する蔑みと、いわれなき嫉妬。
そんな中に、あの男はその身を置いているのだ。
香蓮はようやく、漢中における姜維の立場が理解できたような気がした。

「それに、姜維どのは蜀に降る際、兄弟のように大切にしていた友人と、奥方を亡くされたのだそうだ」
「まあ……!」

――ああ、そうなのだ。 だから、あの方の吹く笛の音は、あんなにも悲しい音色をしていたのか。

泉で別れた後、姜維の笛を耳にしたときに感じた、身を引き裂かれるような悲しみ。
それは、かれの心の痛みそのものではないか。
顔は微笑んでいても、その目は決して笑ってはいない。
姜維の暗いまなざしを思い出して、香蓮はあらためてかれの孤独と心の傷の深さを思いやった。

「おそらくかれをここに繋ぎ止めているのは、義父上との絆だけだと思う」
「孔明さまとの絆、ですか?」
「うん。直接聞いたわけではないんだが、どうやらお二人は以前からの顔見知りだったらしい。何しろ義父上は、降伏してきた姜維どのの顔を見るなり、自らその手を取って、自分のすべてを伝えたいとまで言われたのだからね。初対面ではないはずだ」
過去に、孔明と姜維との間にどんな経緯があったのか。
それは、諸葛喬にも香蓮にも分からないことだった。

「私がこんな身体でなければ、かれともっと、いろいろな話をしてみたいのだけれど。魏の話も聞きたいし、兵法軍略についても教えてほしいことがいっぱいある」
諸葛喬は、湧き上がってくる好奇心に眸子を輝かせた。
「ああ、早く元気になって、お前とまた槍の鍛錬をしたいものだ」
「すぐに良くなられます。そうしたら、姜維さまもいっしょに、いっぱいおしゃべりしましょうね」
(本当に。早くそんな日がくればいいのに――)
香蓮の脳裏には、元気になった諸葛喬と、姜維、そして香蓮の三人が、仲よく武術の鍛錬に汗を流し、兵法の論議に花を咲かせている場面が浮かんでいる。
屈託なく笑う姜維の笑顔が見てみたい、と思う。
ほんの少しだけ、香蓮の中で、姜維の存在が大きくなった。





❣️第1章 完

千華・2020-09-18
姜維と香蓮
姜維
三国志
遥かなあなたへ


◇◆誰よりも近くて遠いひと◆◇
  -諸葛喬から香蓮へ-




きみの真っ白な笑顔がまぶしくて
ぼくはいつも遠くから見ていた

まっすぐなまなざしに
心の中まで射抜かれそうで
いつもきみの視線を避けていた

二人きりになるのが怖くて
たわいのない世間話ばかりして
時間をごまかしていたんだ

本当はもっと近くから
きみの眸子に語りかけたかった
本当はもっと別の
伝えたい言葉があったのに



あれからいくつもの季節が過ぎ
ぼくの背はきみより高くなった
きみは……本当に綺麗になったね



同じ家で家族として過ごした
懐かしい日々
振り向けばいつも
きみはそこに立っていた
変わらぬ微笑みと優しさで

でも
きみの心に住んでいるのは
ぼくじゃなかったんだ
ぼくと話している時でさえ
きみが追いかけているのは
別のひとの面影だった

天下に並ぶものなき大軍師
天翔る龍 諸葛孔明
ぼくの偉大な義父上



かなわないよ
あのひとには……

そう思ってあきらめてしまったけれど
自分から扉を閉じてしまったけれど

もしもあの時
ぼくの想いをぶつけていたら
略奪するほどの激しさで
きみを求めていたら――

きみは今も側にいてくれたのだろうか
ぼくのためだけに微笑んでくれただろうか



妹のようにあどけなく
母のように温かく
恋人のように愛しいきみ

こんなに近くにいるのに
ぼくの手はきみに届かない
決して

残酷だよ
香蓮……




◆◇◆


ここに出てくる諸葛喬は、呉の武将 諸葛瑾の次男で、叔父である諸葛孔明の養子になりました。孔明に長らく実子が生まれなかったためです。
後に劉禅の姉を娶ったといわれ、将来を期待されていましたが、二十五歳の若さで病死しています。
そして香蓮は、拙作「姜維と香蓮」に登場する架空の女性で、孤児であったのを孔明に引き取られ、後に姜維の妻になるという設定です。
ということで、ふたりはひとつ屋根の下で何年かをともに過ごしているんですね。
そんな中、当然の成り行きとして(?)喬は香蓮に淡い恋心を覚えるのですが、香蓮の方はというと、密かに孔明に対して家族以上の想いを抱いていて、喬のことなどまったく眼中にないといったありさまです(完全なる片思い……ああ)。
このタイトル、実は、いつかお題小説に挑戦してみるつもりでお借りしていたものです。
いずれこのシチュエーションで、二人の話を書いてみたいなと、ずっと思い続けてはいるのですけれどね。(^o^ゞ





千華・2020-09-22
姜維と香蓮
諸葛喬
三国志
遥かなあなたへ
昔の詩


「姜維と香蓮」 19

第4章 後出師表 (7)





「また、戦なのですね」
先日、孔明が成都に向かったのは、劉禅に再度の北伐の許しを得るためだったと聞いて、香蓮は表情を曇らせた。
「ようやく先の戦の傷が癒えてきたと思ったら、休む間もなくすぐにまた、孔明さまも、伯約さまもご出陣だなんて――」
心配だわ、と香蓮は姜維に不安げな眸子を向けた。
「喬兄さまが亡くなられてまだ日も浅いのに。あの時の孔明さまの落胆を見ている私には、とても戦などという気にはなれないもの」
成都から漢中に帰還した翌日。
久しぶりに空いた時間を、姜維の方から声をかけて、二人で槍の鍛錬に汗を流した。
こんな時間も、もうしばらくは持てないだろう。


「実は、成都に向かったおりに、先生からあなたとの祝言を薦められました」
「え?」
そんな話は初耳だ。
驚いて姜維を見つめる香蓮だったが、
「大丈夫です。きちんと私からお断りしておきましたから」
という彼の答えを聞いて、さらに目を丸くした。
「あ、誤解しないでください。決してあなたが気に入らないとか、そういうことではないのです」
真意を測りかねている香蓮に、姜維はあわてて言葉を続けた。

「私は武人です。いつかきっと、戦場で命を落とす。そのとき、香蓮どのを悲しませたくない。そう申し上げたら先生は、趙将軍と同じことを言う、と笑っておられました。それに――」
「それに?」
「香蓮どのには他に、胸に秘めた方がおられるのでしょう?」
はっと香蓮が顔を上げる。
姜維の眸子は、彼女の心の奥底まで見通したうえで、そっくりそのまま包み込むように優しく、温かかった。
「私、私は……」
――孔明さまの力になりたいの、と蚊の泣くような声で言い、香蓮は目を伏せた。

「できることなら、私も戦について行きたい。あの方の隣で戦い、あの方を守りたい。ずっと、幼い日に諸葛家に身を寄せたあの日から、ただそれだけを思ってきました」
長い年月、胸の奥深くに押し隠してきた情熱。それは、誰にも知られてはならない秘め事だった。
彼女の願いは、決して叶うことはないだろう。
それでも、消し去ることなどできはしない。
「伯約さまは、すべてご存知なのね」
香蓮は小さく息をつき、寂しそうに微笑んだ。
陽が翳り、彼女の笑顔に儚い陰影を添えていく。

(あなたの思慕の深さ、思いの激しさを、『恋』と呼ぶのですね――)
伯約は、目の覚めるような思いで香蓮を見つめていた。
叶わぬ恋に胸を焦がす香蓮を、これまでにないくらい美しいと思った。
思った瞬間、愛しさがこみ上げてくる。
その愛しさこそが『恋』なのだと、しかしまだ姜維は気づかない。
ただ、彼女の張り裂けそうな不安を、何とか和らげることができたら、と願うのが精一杯だった。
「孔明先生は、私が必ず、命に代えてお守りする。だから、安心して待っていてください」


◇◆◇


それから数日の後。
趙雲が突然倒れたという知らせが、孔明のもとにもたらされた。
取るものもとりあえず、孔明は、趙雲の娘である香蓮を伴って、趙雲の館へ駆けつけた。
案内された寝所の扉を開けると、驚いたことに趙雲は、寝台の上に端座して二人を待っていた。
「お父さま!」
思わず駆け寄った香蓮の姿を見とめて、
「香蓮か。よく来てくれた」
と微笑んだ趙雲の顔は、父の慈愛にあふれている。
「将軍。無理をなさってはなりませぬ」
「なんの、これしきのこと」
手を差し伸べて寝台に仰臥させようとした孔明に向かって、ことさらに平静を装って答えた趙雲だったが、その顔には病の色が濃かった。

趙雲は、この時すでに五十半ばを超えている。
劉備が旗揚げした頃から辛苦をともにしてきた家臣は、今はもうほとんど残っておらず、趙雲は蜀臣中の最長老といってよかった。
端座の姿勢を崩さず、孔明を見つめていた趙雲の視線が、にわかに鋭くなる。
「丞相には、成都へ行っておられた由。出師表を奉られましたか?」
「いや、陛下には、ただ出陣の許しをいただいてまいっただけです」
孔明は、真正面から趙雲の熱い視線を受けとめて、姿勢を正した。
「表は、亡き殿の墓前に捧げてまいりました」
「さようでしたか」
趙雲の眸子からふっと緊張の色が解けた。
そうと聞いただけで、彼の目には、恵陵で出師表を読みあげる孔明の姿が浮かんだのだろう。

「こたびの出陣には、もちろんそれがしもお供するつもりでござった。だが、どうやらそれも叶わなくなってしまいました」
「お気の弱いことを申されますな」
「いやいや。己の体のことは、己自身が一番よく分かっております」
父の言葉に打たれたように、孔明の後ろに控えていた香蓮が、声を[殺]してすすり泣いた。
そんな娘を見守りながら、趙雲は淡々と言葉を続ける。
「丞相。それがし、戦うことしか知らぬ無骨者です。丞相が日夜ご苦労なさっておられるのをお助けしたくとも、内治外交の才もなく……。それがしが丞相のお役に立てることといえば、戦場で敵将の首を挙げるくらいのことでござった」
「………」
「そんなこの身が、玄徳さまにも、雲長(関羽)どのや翼徳どの(張飛)にも遅れて、ひとり生きながらえてしまいました。それがしもできることなら、武人らしく、戦場で屍を前に向けて死にたいと思うておりましたが――」
お役に立てず口惜しゅうござる、と趙雲は唇を噛み、双眸に泪をにじませた。





❣️

千華・2020-10-14
姜維と香蓮
姜維
三国志
遥かなあなたへ


「姜維と香蓮」 7

第2章 芽生え (3)





翌早朝。
朝靄にかすむ練武場の中央に、いつものように一人、槍の鍛錬に汗を流す姜維の姿があった。
そして、遠くからじっとその様子を眺めているのは、香蓮だ。
昨日の礼を述べようと待っているのだが、なかなか声をかけるきっかけが掴めない。
しかたなく、もうずいぶん長いこと、黙って姜維の鍛錬を見守っていた。
そんなこととは知らない姜維は、一心に槍を振るい続ける。
まるで舞いでも舞っているかのような流麗な動き。だが、その身ごなしには一分の隙もない。
ぴんと張り詰めた静かな気合いが、朝の冷たい空気を通して、見ている香蓮の肌にも痛いほど伝わってくる。

そんな姜維の槍術は、五虎大将の一人 趙雲を彷彿とさせた。
(父上に似てる。槍さばきも、身のこなしも、全身から発する闘気までもが、父上と同じだわ)
趙雲は、香蓮の実の父親である。
訳あって、生まれてからずっと離れて暮らし、今もなお父子の名乗りさえできない二人だった。
それでも、香蓮が趙雲の子だと分かり、彼女が諸葛家に引き取られてからは、趙雲が自ら槍術を仕込んだ。
彼女の槍は、父親譲りなのだ。

そんな香蓮から見ても、姜維の槍は、惚れ惚れするほど見事だった。
天水での戦の折、姜維が、蜀軍随一と謳われた趙雲と戦って一歩も引けを取らなかったと聞いた時は、にわかには信じられなかった。
だが、こうして実際にその技を目の当たりにすると、さもありなんと納得させられる。


姜維の華麗な演武を見守るうちに、香蓮は手合わせしたくてうずうずしてきた。
趙雲に舌を巻かせたという男に、自分の槍がどこまで通用するか。
また、姜維の槍が、なぜ父のそれとこれほどまでに似ているのか。その答えも知りたい。
思ったときには、すでに声が出ていた。
「姜維さま!」
「―――!」
誰もいないと思っていたところに突然声をかけられ、姜維は驚いて振り向いた。
「香蓮どの。見ていらしたのですか」
姜維は大きく息をつくと、汗止めの鉢巻をはずして額の汗をぬぐった。
朝の冷気が、火照った身体に心地よく沁みてくる。

「姜維さまの槍は、趙雲さまにそっくりですね?」
大きな眸子が、じっと姜維の顔を見つめてきた。
問いかけの内容が予想もしていなかったものだったため、姜維は答えに詰まった。
「え? ああ、そう。そうかもしれないな。よく見ていらっしゃる」
「どうして? 趙雲さまとお知り合いだったんですか?」
香蓮は、興奮した様子で頬を紅潮させ、たたみ込むように尋ねた。
「いや、将軍と直接稽古をしたり、ご教授いただいたりしたわけではありません。私に槍術を伝授してくださった先生が、趙将軍の師匠でもあった、ということです」
「まあ、そうだったの」
昨日まで他人行儀だった口調が、知らぬ間にくだけ始めていることに、香蓮は自分でも気がつかない。


「私も一度、姜維さまと手合わせしてみたいわ」
続いて出た香蓮の言葉に、姜維は驚いて目を見張った。
「私は趙雲さまから直々に槍を教わったの。ならば、あなたとは同じ流派ということですよね? 趙雲さまと互角に戦ったというあなたと、ぜひ槍を交えてみたいのだけど」
香蓮の真意を測りかねて、黙って立ち尽くしている姜維にかまわず、彼女は、練武場の隅から稽古用の槍を二本持ち出してきた。
「香蓮どの。何を……?」
「女が相手ではお嫌ですか?」
「いや、そういう訳ではありませんが。ただ、あまりに突然のことなので」

姜維が躊躇している間にも、香蓮はさっさと身支度を整えていく。
上着を脱ぎ、飾り帯をほどいてたすき掛けにすると、裳裾の端を手繰り上げて高く結わえた。これで、袖や裾が邪魔になることはない。
手にした槍をニ三度軽くしごくと、彼女は「いざ」とばかりに身構えた。
その構えを目にした途端、姜維の顔つきが真剣になった。
香蓮の申し出が、決して冗談や酔狂ではないことが分かったのだ。
「本気ですか?」
「もちろん」
姜維も仕方なく、もう一本の槍を手に取る。
気は進まないが、このままでは済みそうにないと覚悟を決めたらしい。

練武場の中央へ移動した二人は、あらためて向き合った。
姜維がゆっくりと槍を構える。
それに応じるように、香蓮も静かに穂先を相手に向けた。
「姜維さま」
見事な構えを崩さず、香蓮は凛とした声で言った。
「分かっていると思いますけど、私が女だからとか、丞相の養女だからとか、妙な遠慮はしないでくださいね」
「………」
「これでも、趙雲さまから筋がいいと褒められたのよ」
挑むような鋭い視線。
可憐な雰囲気に似合わぬこの気迫は、いったいどこから来るのか。
「分かりました。それでは私も、本気でお相手しましょう」
姜維もまた、静かな闘志をその全身から立ち上らせた。





❣️

千華・2020-09-23
姜維と香蓮
姜維
三国志
遥かなあなたへ


「姜維と香蓮」 26

第7章 届かぬ想い (1)





私の名は姜維。
故国である魏を捨て、今は蜀漢の丞相 諸葛孔明先生に仕えている。
丞相が捲土重来を期した二度目の北伐は、しかしついに陳倉を抜くことができず、蜀軍は無念の退却を余儀なくされた。
傷心のうちに漢中に帰還した私を出迎えてくれたのは、丞相の養女 香蓮どのの笑顔だった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


まだ冬の寒さが残る曇天にむかって、はあ……と、姜維伯約は大きなため息をついた。
(どうにも、心が晴れぬ――)
陳倉での敗戦の悔しさは、今も生々しく胸に張り付いている。
殿軍を預かりながら、多くの将兵を失ってしまった己の不甲斐なさを思い出しては、慚愧に目がくらむ日々だ。
さらには、戦場で病に倒れた諸葛孔明の身も心配でならない。
孔明の容体は、取りあえずは安定しているものの、未だに病床に伏せったままだった。
あれを思い、これを憂い、考えれば考えるほど、思考が悪い方へと向かってしまう。
しかし。
それだけではないことを、当の伯約自身が誰よりもよく分かっていた。
折にふれ、ある女性の面影が脳裏に浮かぶ。
そしてその度に、彼は自分でも説明できない胸苦しさにおそわれるのだった。


今朝早くのこと。
いつものように孔明の寝室を訪ねた伯約を出迎えたのは、孔明の養女である香蓮の憂いに満ちた顔だった。
「伯約さま……」
「香蓮どの。丞相のお加減はいかがです?」
「昨夜から、ご気分は悪くなさそうなのだけど。ただ、今朝もまだお食事を召し上がってくださらないの」
香蓮は、伯約の視線から腫れた目蓋を隠すように俯いた。
彼女は、孔明が帰還したその日から、昼夜を問わず傍らに侍して、文字通り献身的な看護を続けている。
昨夜もほとんど寝ずに看病していたのだろう。
「それは心配ですね。ですが――」
と、伯約は言葉を継いだ。
「そんなに気を張り詰めていては、あなたが倒れてしまう。少し休んだ方がいいのではありませんか」
「ありがとう。でも、私なら大丈夫。これが、私にできる精一杯のことだから」
健気な笑顔を見ていると、それ以上何も言えなかった。

香蓮が、養父である孔明に父親として以上の感情を抱いていることを、伯約は知っている。
知っているからこそ、彼女に対しては特別な思い入れを持たぬよう、あくまでも友人あるいは同志としての関係を保とうと、固く己を律してきたのだ。
それが、あの日。
遠征から戻った伯約を出迎えてくれた香蓮の笑顔を見たとたん、心の中の何かが弾け飛んだ。
香蓮が孔明に寄せているであろう思いに対する遠慮も。
あるいは、伯約が亡き妻に抱いてきたこだわりも。
何もかもが弾けて消え、後にはただ、愛しさだけが残った。
そのひとの、無垢な笑顔がただまぶしくて。
自分に微笑みかけてくれる、そのひとの存在すべてが愛しかった。

――私はきっと、香蓮どのに恋をしているのだ。

だが、その思いを相手に伝える術を、伯約は知らない。


◇◆◇


「姜将軍。今よろしいですか」
調練の合間に、小隊の長を務める王讃という男が声をかけてきた。
「あの――」
どこか幼さの残る顔にただならぬ決意をみなぎらせながら、なぜか王讃は言いよどんでいる。
「どうした? 何かあったのか?」
しばしの沈黙の後、彼は意を決して伯約に問うた。
「丞相のご息女の香蓮さまというのは、どのようなお方ですか?」
「え?」
不意打ちに香蓮の名前を出されて、伯約は少なからず動揺した。が、むろん顔には出さない。
「なぜ、私に聞く?」
「それは――。将軍は香蓮どのとお親しいのでしょう? よくご一緒におられるところをお見かけしますし」

最初の口火を切ったことで、勢いがついたのだろう。実は、と王讃はたたみかける。
「丞相がかねてから良い婿殿を探しておられると聞きました。しかし、香蓮さまはどのような縁談も気に入らず、断り続けておられるとか。いったいどんな男なら、あの方の心を射止めることができるんでしょうか?」
(どんな男なら――か)
私がそれを知りたいのだ、とはさすがに言えない。
王讃がそこまで言ったとき、後ろにいた同輩が割り込んできた。
「こいつ、一度香蓮さまと一緒に出かける機会があったんですよ。そこで少し話をしたらしいんですが、一目惚れしたっていうか、何ていうか」
「茶化すなよ。俺は真剣なんだ!」
王讃が真っ赤な顔で同輩を睨む。
怒られた同輩は、渋い顔で頭をかきながら伯約に話を振った。

「しかし、なぜ将軍にはお話がないのでしょうね? 俺たちから見ても、一番お似合いだと思うんですが」
何気ない言葉だったが、(そうか。周りからはそのように見えるのか)と、伯約はあらためて気づき、苦笑した。
「安心しろ。私も断られたクチだ」
「ええっ、将軍もですか? ……じゃあ、やっぱり、俺なんかじゃとっても無理かあ」
「諦めんなよ、そこで」
すっかり意気消沈してしまった王讃だったが、伯約は肩を叩いて励ました。
「まだ無理と決まったわけじゃない。お前がその気なら頑張ればいい。ただ、香蓮どのは一筋縄ではいかんぞ。槍の腕前では、お前たちが束になってもかなわんだろうしな。何より――」
言いかけて、伯約はふっと言葉を濁した。
(香蓮どのの心には、すでにあの方がいるのだ……)


午後の調練が終わった後も、伯約は一人で槍の鍛錬に没頭していた。
槍さばきは体が覚えている。一心不乱に動いていれば、余計なことは考えずにすむ。
それでも、いつの間にか勝手に思考が膨らみ、腕が止まってしまうのだった。

考えたこともなかった――。
香蓮どのが、誰かの妻になる。私の手の届かないところに行ってしまう……。
そんなことが。そんな日が来るなどとは。

これまで伯約は、香蓮は孔明を慕うあまり、どこへも嫁がずにずっとこのまま孔明の傍に(すなわち自分の傍に)いるのだろうと、何の根拠もなしに思い込んでいた。
だが、冷静に考えてみれば、そんな不自然なことが許されるはずがない。
孔明の養女という立場からしても、また彼女自身の幸福のためにも、いずれそれなりの相手と婚姻の契りを結ぶのは当然のことだろう。

――その相手が、なぜ自分ではないのか。





❣️

千華・2020-10-27
姜維と香蓮
姜維
三国志
遥かなあなたへ


「姜維と香蓮」 6

第2章 芽生え (2)





「それでは早く戻りましょう。きっと丞相が心配しておられますよ」
香蓮が落ち着くのを待って、姜維は彼女をうながした。
西の空が、淡い茜色に染まっている。
できれば、陽が落ちきる前に、山を出てしまいたい。
(問題は、馬が一頭しかいないということだ――)
考えてみたが、もとより答えはひとつしかない。
「香蓮どの、私のような者と相乗りでも、よろしいですか?」
「え?」
律儀に断ってから、姜維はまず自分が馬上の人となり、続いて香蓮に向かって腕を伸ばした。
一瞬ためらったものの、次の瞬間、香蓮の体は、男の胸に軽々と抱き上げられていた。

「少々狭いが我慢してください。ご無礼の段、お許しを」
華奢な体を右腕で抱き取るようにして自分の前に乗せると、左手に槍を提げたまま、姜維は器用に手綱をさばいた。
ほとんど太股だけで馬を操っていく。
姜維の馬術の見事さに、香蓮は目を見張った。
姜維には羌族の血が流れているらしい、と以前諸葛喬から聞いたことがある。
辺境の遊牧民たちは、生まれた時から馬上で生活し、馬を我が身同様に操ることができるのだという。
――この方がどこか異質なのは、そのせいかもしれない、と香蓮は頭の隅でぼんやりと考えていた。


秋の日暮れは思った以上に早い。
すでに暗くなりかけた山道を、姜維は、なるべく急ぎ足で降っていった。
周りの景色が飛び去るようだ。
「しっかりと私の背中に腕を回していてください。揺れますので」
「はい」
言われたとおり、香蓮は男の背中に回した腕に力を込めた。
肩、背中、脇腹……。
衣服を通して、たくましい筋肉の隆起と躍動が伝わってくる。
(喬兄さまとさえ、こんな近くに相手の身体を感じたことはなかったわ――)
最初の恥ずかしさと、苦しいほどの胸の高鳴りは、いつの間にか大きな安堵感へと変わっていた。
晩秋の風は冷たかったが、身体の触れ合ったところから互いの温みがしみ込んでくるようで、いつしか香蓮は目を閉じて、その心地よさに身をゆだねた。

「姜維さまは、いつもあの場所で笛を奏していらっしゃるの?」
男の胸にぴったりと頬を寄せたまま、香蓮がささやくように問いかけた。
はは……、と姜維は破顔する。
「笛ばかり吹いているわけではありませんよ。時間が空けば、いつもあの近くで槍の鍛錬をしているのです。稽古の後、あそこで馬に水を飲ませ、私は汗を流してから、笛を吹く」
姜維は懐に忍ばせた笛をさぐると、香蓮に示した。
「この笛は、死んだ妻の形見です。あの曲は、春英がいつも吹いていたものだった……。春英は、冀城では知られた笛の名手で、私も妻に手ほどきを受けたのです」
「まあ、奥さまの……」
何気なく顔を上げた香蓮は、姜維の表情がこわばったことに気づいた。
あまりふれたくない思い出だったのかもしれない。

姜維の長い沈黙に息苦しくなった香蓮は、そっと男の背中に回した手のひらを握りしめた。
「ごめんなさい。辛いことを思い出させてしまって」
「いいえ、あなたが謝ることはありません。悪いのは私の方だ」
「姜維さま?」
姜維の切れ長の眸子に、暗い翳が落ちる。
「私は女々しい男です。妻のことも、母のことも、忘れたつもりでした。過去は捨てたと、自分に言い聞かせてきました。だが、未だにこうして妻のことを忘れられずにいる――」
姜維の胸が、しんとした。

香蓮はそれ以上はしゃべらず、黙って男の身体に重心を預けた。
こうしていると、姜維の心の奥底の悲しみが、肌を通して流れ込んでくるようだ。
(――寂しい人。きっと、私など想像もできないほどの、辛い思いを抱いてこられたんだわ)
昨日までは。
近くにいても、心は遠かった。
今は――。
二人を隔てていた垣根が少しだけ低くなり、姜維の思いに寄り添うことができるような気がするのだった。





❣️

千華・2020-09-22
姜維と香蓮
姜維
三国志
遥かなあなたへ


「姜維と香蓮」 14

第4章 後出師表 (2)





陳涛が席を辞したのに合わせて、孔明のもとを退出した姜維は、奥庭の泉水のほとりでふと足を止めた。
水面から立ち上った靄があたりを覆い、月影をおぼろなものにしている。
その光景は、初めて孔明と対峙した日の記憶を思い起こさせた。
あれから幾年経ったか――。
胸にうずまく暗い感情は、未だ自分を捉えて離さない。
それを振り切るように歩き出した彼の前に、突然、あでやかな笑顔が咲いた。
「――香蓮どの!」
「どうかなさいました? 伯約さま、お顔が怖いですよ」
「ああ、いや……。まいったな」
ため息をつき、苦笑しながらも、どこかほっとした顔に戻った姜維を、香蓮は泉水の上の亭へといざなった。

「ここなら誰にも聞かれる心配はないわ。何を怒っていらしたの?」
「まったく、香蓮どのには下手な言い逃れもできぬ」
馬謖に対する複雑な感情。
自分自身にも説明できない焦燥を持て余しているのだ、と姜維は打ち明けた。
正直に己の気持ちを語る彼の言葉を、香蓮は生真面目な顔で聞いていた。
男と女の立場の違いはあっても、姜維の思いは身にしみて分かる。
その焦りも、苛立ちも、訳のわからない悲しみも、身に覚えのあるものだったから。

「伯約さまは、本当に孔明先生がお好きなんですね」
「香蓮どのに言われたくはないな」
「まあ――」
本当に、と香蓮は忍び笑いをもらした。
どうして二人とも、こんなにも孔明のことが好きなのだろう。
この世界の何よりも、かのひとが大切なのだ。
かのひとの夢、かのひとの願い、それを叶えるためなら、どんなことでもしよう。
己の命さえ惜しくはない。
嫉妬も焦燥も、孔明に対する思慕の深さゆえ。
香蓮は、我知らず熱いまなざしで姜維を見つめていた。
同じ思いに胸を焦がす人が、側にいる。ただそれだけのことが、うれしくて。


次の日の朝早く、香蓮と姜維は、魏へ発とうとしている陳涛を城外十里まで送った。
「どうぞ、お気をつけて――」
「臥龍先生には、十日で戻るとお伝えください。では、おさらば!」
陳涛を乗せた馬は、土煙だけを残して瞬く間に疎林の彼方に見えなくなった。
眸を上げれば、朝もやの中に、定軍山がなだらかな稜線を見せている。
足元の秋草はしとどの露にぬれて、漢中はすでに晩秋の装いだった。


◇◆◇


出立の際に告げたごとく、陳涛は十日で南鄭城に戻ってきた。
孔明がにらんだとおり、司馬懿は未だ宛城にあって、呉の陸遜に備えるべく軍備に忙殺されていた。
当分動く気配はないという。
好機である。
「やはり、陳倉か――」
孔明は独りごちて、陳涛の顔に視線をあてた。
かねてから今回の遠征は、斜谷道を通って散関から陳倉に出ると決めている。
「しかし魏のほうでも、陳倉城の守りを固めておりまするぞ」
「もとより予想しておったこと。守将は誰か?」
「守備兵は千人あまりの小勢ながら、その指揮をとるは音に聞こえた豪将、雑覇将軍カク昭にござる」

魏の大司馬曹真は、祁山進出に失敗した孔明が、次は必ず陳倉に出ると予想して、名将カク昭をその守備に配していた。
カク昭は城壁を補強し、厳重な警戒態勢をひいて蜀の進攻に備えているという。
「カク昭を曹真に推挙したのは、司馬懿だそうで」
孔明は、やれやれという顔でため息をついた。
「司馬懿の折り紙付きでは、調略はきかぬか。ならば、力攻めしかあるまい」
一口に城壁を補強するといっても、そうそう簡単なことではない。
力で攻めるならば、敵が守りを固めきってしまう前に叩いたほうが有利であろう。
孔明は、来春に予定していた出兵を年内に繰り上げることを決めた。
「陳兄、ご苦労だった」
「いよいよご出陣なされまするか」
「斜谷道は難路ゆえ、すぐにも前軍を派遣して道を補修せねばならぬ。さっそく準備にかからねば。成都の陛下にも、一日も早くお許しを頂きに参ろう」





❣️

千華・2020-10-05
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