小さきもの
煙草盆を小脇に抱え玄関から出て、大きな開放窓がある東のリビングの前で盆を置いて、男の老人が腰を据えようとすると、我が身より大きなパン屑を運ぶ一匹の小蟻が目に入る。
小蟻を潰さぬように盆を据え、その隣に腰掛けると老人は煙草に火を点けた。
蟻は生きている。懸命かどうか。それはわからぬ。だが、生きている。やがて死がその時を分かつまで生きている。生を早める真似は、こちらからはしたくない。人が一生の間に無意識の内に踏み潰す蟻という無垢の魂の数は、一体如何程ばかりであろうかと、幾何学的な模様を描いては漂い消える紫煙が沁みた男は目を擦りながら、詮無い事をふと思う。
力の強いものが力の弱いものの死を早め、生を奪うことが当たり前であるのなら、この世など何の意味も、価値もない。
悲しいかな、幼い内はそれを知らぬ。
幼子は、かつて身近であった小動物や昆虫を意識的に、或いは、無意識的に殺めてしまうことで、こういう行いをするべきではないと自然という教室に学ぶ。学舎であった田畑や山、川が随分遠くなった。アスファルトの照り返し、コンクリートで囲まれた土の無い庭とも呼べない庭の、しかも家の中でゲームに興じる昨今の子供達は何を学び、育つのであろう。
こういう考えは下らぬことか。それさえも知らぬ。人として、してはならぬと思うことをただ思うのみである。暇なのですね、と問われたら、そうかもしれぬと男は応えるであろう。
煙に酔った世迷言と思いつつも、皐月も間近の陽光に、束の間、身を暖め終えると、燃え尽きてしまった煙管の灰をカンと叩いて皿に落とし、家に入ろうと玄関に向かった。入る時の路中、足下に気をつけながら戻ったのは言うまでもない。
裏口から侵入していたまだ若い敵兵のアサルトライフルが容赦なく火を噴き、男は間口に崩れ落ちた。蟻を潰してしまわないか、その思いを巡らせる時間を連れて逝った。男にとっては気の毒なことに、倒れた時に一匹の蟻を圧し潰してしまっていた。他の仲間の蟻がそれを見つけ、咥えると巣穴へと持ち運ぶ。
男を撃った兵士の部隊は、家の中の目ぼしい物を漁れるだけ漁って略奪してしまうと、地下シェルターの隅で蹲って震える家族達に銃口を向け、惨憺たる殺戮現場を後にした。
立ち去る時に、横たわった遺骸と化した老人と、先程の仲間の死骸を運ぶ蟻を踏み潰し、行軍していった。
踏み潰した事にすら気づいてなかった。
彼等には、そんな暇など無いのだ。