【 雲の速度を見ていた 】
原作 和歌:零宮 縒
作:沙織
「もう、こないで…」
「っ!」
ピピッ ピピッ
どこか無機質な音で
夢から覚める。
今日も同じ夢を見た。
なかなか開かぬ
目の変わりに、
手探りでスマホを探す。
適当に画面を押すと、
やっと音が止まってくれた。
今日は休みだから
起きなくていいや、と
もう一度布団に潜るが
もう目が覚めて
しまっていた。
少し不機嫌なまま
体を起こす。
この体が重たいのが
嫌いだから
朝が嫌いなんだ。
一人暮らし。
なんとか家事を
こなしている。
いい加減に、
この生活を変えたい。
あれからもう一年半、
だっけか。
スマホの日付を
見て実感する。
温まったシーツから
体を離す。
気づけばもう二十歳。
高校卒業後、新卒で就職。
普通に会社員をやっている。
恋人は、人生で
一人だけ
できたことがある。
カーテンの隙間から、
完全に締めきって
いなかった為か
細く温かい光が
差し込んでいた。
その光を
全身に浴びるべく、
厚いカーテンを
勢いよく開ける。
光が、まるで自分と
対照的な物のようで
気分が沈むばかりだ。
できればあの時、
十七歳の時のまま、
時が止まっていて
くれればよかった。
朝ご飯を簡単に済ませ、
パジャマから着替える。
とんとん、
靴の爪先を
玄関の床に
打ちつける。
「いってらっしゃいっ」
そう、弾んだ声が
聞こえた気がした。
勿論、あくまで
"気のせい"だが。
「……行ってきます」
今日は、適当に
散歩をするつもりだ。
*
十七歳の俺は、
ある廃ビルの屋上で
光が無い目で
空をただ見つめていた。
何が嫌なことが
あった訳でもなく、
ただなにも起きない
平凡な人生が
つまらなくて。
俺は、錆びた手すりに
体重をかけて、跨いだ。
空に背を向けて、
空に身を任せた。
ダッダッダッダッ
パシッ
すごく早い
足音が聞こえて、
両手首を掴まれた。
「え?」
「はぁ、危なかった!」
俺と同じくらいの
年齢だろうか。
ネクタイに
ブレザーの制服を着た
長い黒髪の少女だった。
「……なんで、死なせてくれなかったんですか…俺にはこの世にいる意味がないんですよ」
「意味なんて作ればいいじゃないですか」
当たり前のように
澄んだ声で言われる。
「俺を生かした理由はなんですか」
「理由なんて、私が助けたかったから、それでいいじゃないですか」
あまりにも
明るい笑顔で
言うものだから、
怒りがふつふつと
湧いてくる。
「ふざけないでください! なんで死なせてくれないんですか!?」
パン!
一瞬何が起こったのか
分からなかった。
少ししてから、
左の頬に鈍い痛みが走る。
平手打ちを
されたのだ。
「目の前で人が死んでいくのを黙って見てろって言うの!? 貴方こそふざけないで!!」
「ぁ……ぇ……」
清楚系女子が
声を荒らげるのは
なんとも
不思議なもので、
反抗する声も出ない。
あれ、俺、
怒られてる?
「……あ、ごめんなさい! 私なんてことを…!」
それが、出会いだった。
その後、
あの廃ビルに訪れるも、
俺が着く前に
必ず先に彼女はいる。
俺が死なないように
見張る為、らしい。
段々と俺達は
距離を縮めていった。
そしてやがて、
恋人同士になった。
ある日
「ねぇ、今度デートでもしない?」
「いいね。どこにしよっか」
たわいもない会話。
「そうだなぁ、遊園……」
最後まで言う前に、
力なく倒れた。
「え……?」
癌。
彼女の両親から聞いた。
俺は元気になることを強く願って、
毎日お見舞いに行った。
大切な人が、日に日に
痩せ細っていくのを見るのは、
こんなにも辛いものなんだ。
「今日は花だ」
高校三年生、十八歳。
十一月、風が少し
冷たくなってきた。
今日もお見舞いに来ていた。
俺は彼女に、
一輪の赤い薔薇を買った。
「…ありがとう」
彼女はずっと、
花を見つめていた。
どこか悲しい顔をしていた。
微かに眉間に
皺が寄せられたように
見えたのは
気のせいだろうか。
「どうした? なんか元気ないね…?」
「頼みがあるの」
「俺が叶えられるものならなんでも」
彼女が望むものなら…
本当にそのつもりだった。
「もう、お見舞いにこないでくれるかな」
「え……?」
そこからのことは
よく覚えていない。
唯一、覚えていることは
細い背中を向けられて
「もう、こないで…」
と、彼女の
懇願するような
声がしたこと。
俺はそれに、
従ってしまったこと。
*
あれから俺は
一度も見舞いに
行っていない。
無理にでも
行くことはできた。
何故そんなことを言うの?
そう、問うことも出来た。
分かってる。
俺は、そうやって
行動することで
彼女に嫌われるのが
怖かったんだ。
彼女の生死さえも
分からぬまま
一年と半年の時間が過ぎた。
家の近くを散歩して、
カフェに寄ったりしていると、
空が橙色になってきていた。
「はっ、」
あまりにも
何も無い休日で
笑えてくる。
せめて、久しぶりに
あの場所に行こうか。
丁度、目の前にあった
駅の方へ行く。
どこか懐かしい
市の名前が入った
切符を買い、
所々使い古した跡がある
電車に乗る。
窓沿いに立つ。
暇つぶしに景色を
見ようと思う。
ガタン、ゴトン、
リズムよく
揺れる車両。
灰色のものばかりで
つまらなく
なってきた頃、
視界が広がった。
それは、湖だった。
水面には、
まだ少し青い空と、
ゆっくりと動く橙色の雲と
列車が映っている。
その中には俺もいて、
「臆病者」
そう言っている気がする。
……そんなことくらい
分かってるよ。
そう言い返したくなる。
そんな俺の
気持ちも知らずに、
水面は
今まで見たことが
ないほど、綺麗に
夕日に輝いていた。
*
「……うん」
「っ!」
ピピッ ピピッ
どこか無機質な音で
目が覚める。
またあの夢を見ていた。
私が突き放した時の夢。
もうこれ以上、
醜くい醜い姿を
見られたくなくて。
今でも後悔している。
頼れば良かった。
なんで、嫌われるのが
怖くなったんだろう。
優しく受け止めて
くれるって、
分かってたのに。
あれから私は
順調に回復した。
彼が今、どこで
何をやっているのか
それさえも分からない。
私は今でも彼氏を
作らないでいる。
人生で彼氏は一人だけ。
……あの人だけ。
今日は、久しぶりに
あの廃ビルに
行こうと思う。
*
廃ビルは
まだあったらしい。
錆びた階段を上り、
屋上の入口へ着いた。
ドアノブをひねる。
押すと、
ギギギ…音がした。
コンクリートに
踏み込むと、
懐かしい風の
匂いがした。
「うー……さみっ」
ポケットに入れた
両手を手すりにかける。
あの時みたいに。
あの澄んだ声が
聞こえてきそうだ。
「まさか、飛び降りないよね?」
微笑み混じりの
懐かしい声がする。
そう、まさにこんな感じの…
え?
「!!」
振り返ると、
マフラーをめくって
笑っている彼女がいた。
「久しぶり。ふふっ」
二人の嬉し涙は、
コンクリートに滴り落ちて
静かに消えた。
二人の髪を揺らした風は、
雲の速度を上げていった。