はじめる

#殉志

読んでると、
思わず胸がギュッとしめつけられる、
そんなポエムを集めました。

全22作品・



あの日
あなたの命とともに
砕け散ったのは

亡き人に誓った
見果てぬ夢

残されてなお
最期まで貫いた大志

蜀漢の空に舞う
遥かな希望は―

今、花と散る






旧暦1月18日は姜維の忌日です。

千華・2022-01-18
花が散る
三国志
姜維
遥かなあなたへ
殉志
墓碑銘


◇◆鎮 魂(レクイエム)◆◇




私が死んだら
この胸の思いは どこへ行くのだろう

丞相から託された大いなる志
追いかけ続けた遠い夢
今もなお 沸々とたぎる熱い願い


行き場をなくした情熱は
大地に流れた私の血を伝って
どこまでも深く染み渡り

砕け散った夢の欠片は
いつまでも消えることなく 
中空に漂い続けるのだろうか


すべてを賭けた 起死回生の奇策は
誰に明かされることもなく
ただ 我が胸中に在るのみ

この身が塵と消え果てるとき
最後まで信じ抜いた 回天の奇跡も
また 永遠の封印の中に閉ざされるのだ



ああ、私は死ぬのか―



遠のいてゆく意識の底に
あざやかに浮かんだのは
今は亡き尊きひとの 懐かしい笑顔
そして
あの日あなたとともに見た 五丈原の空


もはや 何も感じない
痛みも
悲嘆も
後悔さえも―


香蓮
きみに会えてよかった

愛しき子らよ
そなたたちの父であることを誇りに思う

丞相
あなたの期待に応えること能わず
このような所で無様に果てる
不甲斐ない私を
どうかお許しください



ああ 願わくば
我が思い天に至りて
夜空に輝く星となれ

せめてこの身は
天地を照らすささやかな灯火となり
胸にあふれる思いを
永久(とわ)に注ぎ続けよう

この悠久の大地に
愛しき者たちの上に





◆◇◆

蜀漢の最後を飾る武将 姜維伯約。
旧暦1月18日は、彼の命日です。
起死回生を賭けた最後の秘策が破れ、押し寄せる敵兵の刃に斃れた時、姜維は何を思ったのでしょう。薄れゆく意識の中に、何を見たのでしょうか…。
生まれ育った天水の大地。懐かしい母のこと。愛する家族の面影。
あるいは、自分に新しい生命を与え、進むべき道を指し示してくれた丞相 諸葛孔明への思い。
その孔明の遺志を継ぎ、ひたすらに駆けてきた己の生涯。
追い続けた、ただひとつの夢。
そして今、己が魂とともに砕け散った、希望―。
すべての思いは、天に還ったのでしょう。
あの日、孔明とともに見た五丈原の空に。







🔹

千華・2020-01-18
三国志
姜維
殉志
遥かなあなたへ
昔の詩
墓碑銘

◇◆殉志◆◇


―六十有余年、ただひたすらに戦い、駆け続けて…、今我が手に残りしは、この一本の剣のみか。

姜維伯約は、腰にはいた一剣を静かに抜いた。
それは、幼い日に死別した父の形見。
数えきれぬほどの戦場を、ともにくぐり抜けてきた業物だ。
剣は、一点の曇りもなく、静謐な輝きを放っていた。
「我が生涯にも、一片の悔いなし!」
眼前には、殺到する魏兵たち。
殺気をみなぎらせて押し寄せる敵の只中へ、伯約はまっすぐに眉を上げ、飛び込んでいく。

前へ―。ただ、前へ。
この足が動く限り、一歩でも、前に進むのだ。命果てるそのときまで。

阿修羅のごとき奮戦も、やがて剣折れ、力尽きる。
抵抗を失った伯約の五体は、敵の刃によって斬り刻まれ、血汐の海に沈んだ。
(…丞相。私は、ついに叶えることができませなんだ。丞相から引き継いだ夢を、大いなる志を。お許しくだされ―)

夢を追い続けた男の人生が、その夢とともに潰えた瞬間だった。
二六四年春一月のことである。




*旧暦1月18日は、三国志に登場する蜀の武将 姜維伯約の命日です。

千華・2019-01-18
三国志
姜維
殉志
遥かなあなたへ
創作文
墓碑銘

これらの作品は
アプリ『NOTE15』で作られました。

他に22作品あります

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「遠 志」




蜀の建興七年、春三月。
漢中城内は、上巳の節句を祝う人々のさざめきに満たされていた。
そちこちにつるされたぼんぼりの灯りが揺れて、春宵に艶かしさを添えている。
そんな世間の喧騒とは関係なく、いつものように仕事を終えた姜維伯約が丞相府の執務室を出たのは、すっかり空が暗くなってからのことだ。

かれは今、丞相府と地続きにある諸葛邸の一室に寝起きしている。
その方が何かと都合がよかったし、何よりも敬愛する諸葛亮の傍らに少しでも長く侍していたいというのが、姜維の唯一の望みだったからだ。
そんな姜維の帰宅を待ちかねたように、かれの自室を訪ねた人がいる。
屋敷の主で、蜀漢の丞相である諸葛亮孔明そのひとだった。

「これは丞相。何かご用ですか?」
驚いて居住まいを正す姜維の前に、孔明は錦の袱紗に包まれた文箱を差し出した。
「文? 私に?」
「今日、天水からの使者と申す者がこれを届けて参った。そなたの母御からの文だそうだ」
「母の……!」

姜維には、故郷に残してきた母があった。
孔明に降伏した際に離れ離れとなった後は、消息を尋ねることもままならなかった。
そんな母の手紙が思いもよらず手元に届けられた。しかも、正式な魏の使者からだという。
これはどういうことなのか。
受け取った文箱をどうするべきか、とっさに判断できず、姜維はそっと師の顔を見守った。

「この書簡の扱いについては、いろいろと口うるさく言う者もおっての――」
やはり、そうなのだ。
降将である姜維に、魏に残る母から届いた書簡となれば、内容は推して知るべしである。
魏に戻って来い、という誘いであろう。
そんなものをわざわざ本人に見せる必要はないという者から、使者を斬ってしまえと強硬論を述べる者まで、蜀の廷臣の反応はさまざまだった。

蜀に降ってからまだ日の浅い姜維を、すべての蜀将が信用しているわけではない。そこをねらっての離間の策とも考えられる。
「いずれにせよ、まずは、そなたに見せぬわけにはいくまい。ただ、皆への配慮として、私が同席することを承知してもらいたい」
孔明は多くを語らなかったが、廷臣たちを納得させるために、ずいぶんと骨を折ってくれたであろうことは想像に難くなかった。

「もちろん、私に見せる必要はない。それを読んで、どうするか。それはそなた自身が決めることだ。そして、その決定に、蜀漢の宮廷が何ら口を挟むものではないことを、私が約束する」
「かたじけなく存じます」
孔明にうながされ、ふるえる手で袱紗を解き、文箱の蓋を開ける。
目に飛び込んできたのは、紛うかたなき懐かしい母の筆跡。
姜維は我を忘れ、むさぼるように母の手紙を読んだ。

「妾は、最初、裏切り者の大罪人の家族として、死罪になるところだった。
けれども、息子は自分から進んでそうしたわけではなく、進退窮まってやむなく降伏したのだからと、とりなしてくれる人があって、ようやく命を永らえることができました。
それからは獄に下されて、つらい毎日を過ごしていたが、一日とてお前のことを忘れたことはない」

「その後、恩赦にあって罪一等を許され、またこうして便りを書くことができるようになりましたが、牢獄の苦労がたたったのか、病に伏せることが多くなりました。
年老いたこの身には、先の不安ばかりが思われてなりませぬ。
息子よ、維児よ、母を哀れと思うなら、どうぞもう一度、こちらに戻って来ておくれでないか」

(母上……。申し訳ございません)
もともと孝心の篤いことで知られた男である。姜維は、手紙を握りしめながら、しばし天を仰いだ。
だが。
母の筆跡をなぞるように目に焼き付けながら、なぜかその文面に違和感を感じずにはいられなかった。
母は決して、息子に対してこんな恨み言を書いてよこすような女人ではなかったはずだ。
(私が孔明先生のもとで蜀漢のために働いていることは、すでに魏に知られていよう。とすれば――?)
今になって届いた母の手紙。
魏の監視下にある母が書いたものだとするなら、ここに書かれていることは母の本心なのだろうか。



そのとき、文箱の底にしのばせた麻袋が目に入った。
おずおずと手に取り口を開くと、中には一束の薬草とおぼしき植物が入っていた。
「伯約、それは?」
孔明が身を乗り出す。
「これは……。『当帰(とうき)』ですね」
「『当帰』、まさに帰るべし――。そなたに帰ってきてほしい、ということか。いや、表立っては聞けぬゆえ、帰ってこられるか?という謎かけであろうな」
「はい。手紙はおそらく、誰かに脅されて書いたものでしょう。母の真意は、この『当帰』に込められているのだと思います」

隠さねばならないことは何もない。姜維は孔明に、母からの手紙を見せた。
孔明は、くいいるように文面を見つめていたが、読み終わった手紙を丁寧にたたむと、だまって姜維の手に返した。
「伯約。たとえここに書かれていることが母御の本心ではないとしても、そなたと離れ、さぞ心細い思いをしておられることは事実であろう」

姜維は幼くして父を失い、母親に育てられた。
孔明もまた、子どもの頃に父親と死別している。
もっともかれは、実の母の記憶もあまり持っていなかった。孔明の生母は、弟の均を生んで間もなく、病死したからだ。
そんな孤児の境遇の近しさが、孔明と姜維の間を、師弟よりもっと、情感において近いものにしていたといえなくもない。

「返事は急ぐ必要はない。皆には私から話しておくゆえ、ゆっくり考えるように」
「いいえ!」
孔明の言葉を、姜維は即座に切り返した。
「丞相のもとに参りました時より、すでに私の心は決まっております」
その場にがばと身を伏せ、かれは続けた。
「おそらくは母も、私の志を分かってくれるでしょう。『まさに帰るべし』とは、お前の心の赴くところに帰れ、という意味だと思っています」

姜維の言うように、蜀に降った息子の選択を認めた母は、健気な覚悟を決めているのかもしれない。
たとえ己の命と引き換えても、息子の未来を守ろうと。
「しかし、そなたが魏に帰らぬとなれば、母御の命にかかわるやもしれぬ。何とかして、母御をこちらに呼び寄せることはできまいか」
「それは……、とても叶わぬかと――」
「そなたは、それで良いのか?」
孔明の深く澄んだ双眸にみつめられて、姜維は沈黙した。

若くして夫に先立たれ、幼子をかかえての母の苦労。
けして裕福といえぬくらしの中で、人並み以上の学問と武芸を学ばせてくれた情愛の尊さ。
孔明のまなざしの中には、母との過去をあざやかに思い起こさせる優しさがあった。
今、ひとり敵国にとり残された母は、どのような思いで毎日を過ごしているか。それを考えると、かれの心は千々に乱れる。
そっと視線をそらした姜維の目頭に、熱いものがにじんだ。
しかし、もう戻ることはできない。

すべての懊悩を振り払うように、姜維は眉をあげて、正面から孔明の眼光を受けとめた。
「丞相。私の心は、とうに決まっております。そして、それは決して覆りませぬ」
「―――」
「たとえ家を捨て、母を捨て、不孝者のそしりを受けようとも、ただただ丞相をお助けし、その理想の実現のため、天下万民のために、命の限り戦う所存。あの日私は、そう己に誓ったのです」

必死に言い募る姜維の心根が、孔明には無性に悲しくてならない。
この至誠の若者が自分と出会ったことで、手にするものはあまりに小さく、失うものはあまりに大きいと思えたからだ。
「結果的に、そなたとそなたの母御を引き離すことになってしまった。許してくれい」
血を分けた家族が離れ離れにくらさねばならない辛さ、悲しさは、身にしみてわかっている自分なのに……と孔明は思う。
たとえそれが、この戦乱の世に、一族の血脈を残さんがための方策であったとしても。



深夜、姜維は、長い間かかって、母への返書をしたためた。
「あなたの息子は、諸葛孔明先生という最良の師に出会い、己の大義を全うするために生きる覚悟でおります。遠志を抱く者は、故郷を顧みぬものと申します。もはや、母上のもとに戻ることはできません。不孝なこの身をお許しください。どうぞ、私のことは、死んだと思ってお諦めください」
ごく短い文面に万感の思いをこめて、母への訣別とするつもりだった。

だが、このまま送り返せば、あるいは孔明が言うように、母の命はないかもしれぬ。
そう思い返して、書き上げたばかりの手紙を破り捨てたかれは、そっと諸葛家の納屋に向かった。
そこには、多種多様な道具類のほかに、さまざまな肥料や薬草などが保管されている。その中から、姜維は『遠志(おんじ)』と記された薬草を持ち帰った。
母が送ってよこした『当帰』。それが入っていた麻袋に『遠志』を入れ、文箱に収める。
『当帰』も『遠志』も血のめぐりをよくする薬効があり、子どもの頃から母が煎じて飲ませてくれた薬草だった。

(母上ならば、きっとこの意味を、そして私の思いを分かってくださるはず――)
たとえ二度と会うことはかなわずとも、最期まで母の誇りとするに足る息子でありたい。
姜維は文箱を母と思い、その前に拝跪すると、長い間身じろぎもせずに額づいていた。
そして、その日以来、母のことはきっぱりと忘れた。
過去に拘泥することなく、真に、蜀の姜維伯約となったのである。




🔸

千華・2020-05-13
三国志
姜維
殉志
遥かなあなたへ
創作文

今日は、姜維さまのご命日。
もう何十年も前に、吉川英治氏の
「三国志」で出会い、柴田錬三郎氏の
「英雄 生きるべきか死すべきか」で
恋に落ちました。

最期まで、師である諸葛亮の
大志を果たすために奮戦し、
漢室再興に生涯を捧げた姜維。

熱い漢(おとこ)の生き様を想う度、
胸が震えるのです。

千華・2020-01-18
歴史語り
三国志
姜維
遥かなあなたへ
殉志


今日(旧暦1月18日)は、大好きな三国志の武将 姜維伯約の忌日です。

姜維サマの最期。
考えれば考えるほど、想いを馳せれば馳せるほど、やりきれない切なさばかりが募ってしまいます。

命尽きるその瞬間、彼は何を思い、何を望んだのだろうか。
泣いていたのか、それとも笑っていたんだろうか。
薄れゆく意識の中で、彼の胸に去来したものは何だったのだろうか、と。

それこそ言葉では言い尽くせないほどの、さまざまな思い、記憶の断片が浮かんだことでしょう。

やるだけのことはやった、という充足感とはうらはらに、こんなところで、こんな形では死んでも死にきれない、という断腸の思いもあったでしょう。

でも、私はやはり、その瞬間彼に訪れたのは、安らかな最期だったと思いたいのです。

ようやく、ようやく、いろいろな「くびき」…重圧や責任といったもの…から解放されて、敬愛する師のもとへ旅立つことができたのですもの。

どうか安らかに…。





千華・11時間前
花が散る
姜維
三国志
歴史語り
墓碑銘
遥かなあなたへ
殉志


「成都の風」




――貴様に……貴様らごときに、丞相の何がわかる?

喉まで出掛かった言葉を、姜維伯約は暗い失望とともに飲み込んだ。

長年ともに国事に奔走してきたというのに、ここにいる連中は、何ひとつわかってはいないのだ。
諸葛亮孔明という、類まれな巨人のことなど。

丞相が晩年、どのような思いで魏討伐の軍を進めておられたか。
命を削るような激務の中、それでも中原への冀望を諦めなかったのはなぜか。
すべては天下のため。先帝劉備玄徳さまより引き継いだ大いなる夢をかなえるため。

それを……蜀さえ、我が身さえ安泰ならばよいと言うのか。
狭い四川盆地に閉じ込められ、漢王室再興の旗印も、万民が安寧に暮らせる世の中の実現という崇高な大義も打ち捨て、未来への望みまでをも押し込められて。
この偽りの平穏が、それほど価値のあるものだと言うのか!


蜀漢の柱石ともいうべき丞相 諸葛亮孔明が、中原回復の壮図空しく五丈原に陣没してから、はや五年が過ぎようとしていた。
孔明の後は大将軍となった蒋エンが引き継ぎ、ここしばらくは戦もなく、蜀の国は、一見平和な日々を送っているかに見えた。
しかし――。
北には曹魏、東には孫呉が、以前にも増して国力を強めている。孔明が生きていた頃と、状況は何ら変わってはいないのだ。

この年一月、魏の明帝曹叡が没した。
後を継いだ曹芳は、わずかに八歳。さらに、その後見をめぐって内紛が起きた。
「この好機を逃してはならじ、今こそ大軍を率いて関中に撃って出るべし」と、姜維はすぐさま参内して後主劉禅に進言したのだが、あっさりと退けられてしまった。
生来暗愚な劉禅は、今の平穏な暮らしに満足していたから、敢えて困難な魏との決戦に臨むことを快く思わなかったのである。
主のこのような反応は、もとより予想していた姜維であったが、かれが何より苦々しく思ったのは、宮廷の重臣たちが皆、口を揃えて出師に反対したことだった。


姜維は、蜀では新参者である。
どれほど知略武勇に優れ、また生前の孔明から大きな信頼を寄せられていたとはいえ、ほかの者から見れば、ついこの間、敵国である魏から投降してきた若輩に過ぎない。
古くからの家臣たちは、そんな姜維に対して、侮蔑とも嫉妬ともいうべきどす黒い感情をたぎらせていた。
孔明が死んでからは、なおのこと風当たりはきついものになった。
(自分のことはいい。どれほど蔑まれようと、疎まれようと、苦にはならぬ。だが、丞相のあの鬼気迫るお姿を、忘れたとは言わさぬぞ!)
廟堂を退出し、長い回廊をわざと履音高く歩きながら、やりきれぬ怒りに姜維は唇をかんだ。

今も。
脳裏には、あの日の光景が焼きついて消えぬ。
渭水をはさんで、司馬懿率いる魏軍と対峙すること数ヶ月。
筆舌に尽くせぬ心労と激務に倒れ、死期を悟った孔明は、最期に姜維を枕元に呼び、凛呼とした声で告げたのだ。
「姜維伯約。すべてを、そなたに託す――」と。
「すべて」とは。
蜀漢の、いやこの国の未来。
中国の大地に生きる、すべての民草の幸福。
そして、劉備から孔明へと受け継がれてきた大志、見果てぬ夢。
孔明の身から抜け出た魂が、己が身に宿ったような気がした。
その瞬間から、姜維の孤独な闘いが始まったのである。


――やらねばならぬ。何としても!

決意をこめて見上げた目に、春霞にくすんだ空とは対照的に、輝くような薄紫の花が飛びこんできた。
回廊を縁取るように、藤の老木が見事な花房を垂らしている。
姜維はふと、以前孔明が、今の自分と同じようにこの花の下にたたずんで、ひとり思索をめぐらせていた姿を思い出した。
(丞相にも、ひとには言えぬ深い悩みがおありだったにちがいない)
今は亡き尊きひとの思い、その身に負うた荷の重さが、我がことのように思われて、姜維は目蓋を熱くした。

「丞相。見ていてください。この姜維、必ず丞相のご期待に添い奉ります」
必死の呼びかけに、むろん答えはない。
けれども、姜維の耳の底には、今も孔明の声がしっかりと刻まれている。
あの日、魂を受け取ったとさえ感じた、凛たる声だ。

そのとき、早や初夏の匂いを含んだ風が、一斉に花穂を揺らし、姜維の横を通りすぎていった。
吹き渡る風の中に、懐かしい声が聞こえた。

――姜維よ。己が信ずる道をゆくがよい。私は、いつも、ここにいる。









千華・2020-05-10
三国志
姜維
殉志
遥かなあなたへ
創作文


「散りても後に匂ふ梅が香」




夜気にまぎれて、どこからともなく花の香りがただよってくる。
夏侯覇仲権は騎馬を停め、おぼろに霞む夜空を見上げた。
春はまだ浅い。
上着を通してしみ込んでくる寒さに身が引き締まる。
甘やかな香りに誘われるように紛れ込んだ路地の奥には、一本の白梅が見事な花を咲かせていた。



「私は、この梅の花のようでありたいと思っている」
かつて夏侯覇にそう語ったのは、姜維伯約という男だ。
自分と同じように、一度は魏に仕えながら、故あって蜀に降った武将である。
蜀漢の丞相諸葛亮は、彼の才を深く愛し、己が後継者たるべく育てたという。
姜維もまた師の期待によく応え、常に諸葛亮を支えて戦った。
だが、偉大な指導者であった諸葛亮が死んだ後、蜀漢の宮廷における姜維の立場は微妙なものになっていた。

その日も、北伐の重要性を説いて早晩の出陣を主張した姜維だったが、廷臣たちの激しい抵抗に合い、断念せざるを得なかった。
宮殿からの帰途。
後ろに従っていた夏侯覇に、姜維は無念の胸中を吐露した。
「もう幾たびになるだろうか。忸怩たる思いに身を震わせながら、こうして家路につくのは」
手綱を握る拳が怒りに震えている。
「これまでも、折にふれては魏への出師を上奏してきた。しかし私の進言は、その都度あやつらの反対にさえぎられてきたのだ。もはやこの国は、建国の理念すら忘れてしまったのかもしれぬ」
深いため息とともに、姜維は灰色にくすんだ空を振り仰いだ。

「姜将軍。気落ちなされますな。いずれまた、風向きが変わることもありましょう」
我ながら苦し紛れな慰めだと思う。諸葛亮亡き後の逆風の厳しさを、誰よりも強く感じているのは姜維その人なのだから。
固い表情の夏侯覇に向かって、姜維は自嘲に似た笑みを投げた。
「それにしても、蜀漢の宮廷で、魏を討たんといきまいておるのが、その魏から降った私とお主の二人とはな。おかしなものよ」
事実その通りであったから、夏侯覇はただ黙って馬を進めるしかない。
沈黙の中、肌をひりひりと焦がすような痛みが胸をしめつける。
(自分以外の誰が、この方の抱える孤独を理解し得るだろう……)
蜀という異郷にあって、同じ境遇にある者だからこそ分かる寂しさであった。

やがて一群れの梅林の傍を通り過ぎようとしたとき、ふいに姜維は馬を停めた。
まだ花の盛りにはほど遠い。
一輪二輪と開き始めた蕾が、寒さの中で身を震わせるように咲いている。
仲権どの、と姜維は字で呼んだ。
「私は、この梅の花のようでありたいと思っている」
「それは……」
「梅の木は、枝を切られ、手折られるほどに強くなるという。冬の寒さに耐えて凛と咲き、散った後にも香りを残す――。
そのような生き様でありたいと、私は願っているのだ」

その言葉のごとく、姜維伯約という人物は梅の花のようだ――と、夏侯覇は思った。
自分より幾つか年若いその男は、あらゆる艱難辛苦を乗り越えて今や蜀漢の衛将軍の地位にある。
しかし、いかに地位を上りつめても、彼の志は、亡き師諸葛亮の遺志を継ぐという、どこまでもただその一事だった。
おそらく姜維は、己が斃れるその場面すらすでに脳裏に思い描いているのではないか。
散った後にも、――とは。

「伯約どの。それがしは、あの日あなたにこの命を預けると誓いました」
理不尽な理由で祖国を追われ、敗残の末に逃れてきた蜀の地。
そこで出会った姜維は、投降者である自分を無条件で受け入れ、旧知の友に接するごとくもてなしてくれた。
衷心からのいたわりと慈愛にあふれた彼のまなざしを、今もはっきりと覚えている。
彼に出会わなければ、自分はおそらく深い絶望の中で生ける屍となっていたことだろう。
さればこそ。
この男の花を、見事に咲かせてやりたい。
散った後などではなく、咲き誇る花の盛りに、馥郁と香る様を見届けたい。

夏侯覇は、青年のような初々しさの残る姜維の顔を、ひたと見つめた。
「あの日より、あなたの夢はそれがしの夢であり、あなたの大志はそれがしの志でもあるのです。夏侯仲権、この命ある限り、どこまでも伯約どのについてまいりましょう」
「仲権……」
姜維は息をのみ、静かに目蓋を閉じた。
胸にあふれる思いがあったのだろう。
しばらくして、彼は少年のような笑顔で夏侯覇に言った。
「君が傍にいてくれて、よかった」



あれから幾度の春を見送っただろうか。
今年もまた、梅の花の季節がめぐってきた。
その間、何度か姜維に従って北伐に従軍した夏侯覇だったが、未だ夢は果たされぬままだった。
――いつか、いつか必ず咲かせてみせる。この花のように。
夕闇迫る中、ひときわあざやかに咲く白梅の白さが目にしみた。

その後も、常に姜維の傍らにあって奮戦した夏侯覇は、ついに八度目の北伐で、敗走する姜維をかばって討死したといわれている。






🔸

千華・2020-05-17
三国志
姜維
夏侯覇
殉志
遥かなあなたへ
創作文


「托 生」 - 奇しき縁(えにし) -

〈1〉




魏の嘉平元年(蜀漢の暦では延煕十二年)。
征蜀護軍の地位にあった夏侯覇仲権が、突如、魏を出奔して漢中に亡命した。
それは、魏にとっても蜀にとっても青天の霹靂だったが、知らせを受けた姜維伯約の胸は、わけもなくざわついた。

魏の重鎮として関中を守っていた夏侯覇とは、これまで幾度も戦場で干戈を交えてきた仲である。
颯爽と指揮を取る夏侯覇の勇姿を思い起こし、姜維は複雑な思いにとらわれずにはいられなかった。
その境遇が、いやでもかつての自分の姿を思い起こさせたからだ。

蜀漢の丞相 諸葛亮孔明が起した魏討伐の戦。当時姜維は、魏の中郎将として、太守とともに天水を守っていた。
その攻防戦のさなか、太守に内通を疑われ、敵中に孤立した姜維は、自分に従う将兵たちの命を救うべく、やむなく諸葛亮に投降したのだった。
(あのとき私は、死を覚悟していた――)
諸葛亮とは不思議な縁があり、以前から心の師と仰いでいた姜維だった。
それでも、一旦魏に仕えると決めた以上は、一命にかえてもこの地を守り抜かんと、固く心に誓っていたのである。
その身に、あろうことか謀反の疑いがかけられるとは。
昔日の深い絶望と虚無感を、二十年たった今でもはっきりと覚えている。


◇◆◇


やがて夏侯覇は、わずかばかりの部下とともに、姜維のいる南鄭城に護送されてきた。
とりあえず一党を城内の一角に落ち着かせてから、姜維は心尽くしの宴を開いて夏侯覇をもてなした。
「夏侯覇どの、よく参られた。これからはここを我が家と思うて、遠慮なくお過ごしくだされ」
「かたじけのうござる」
傷心の降将は、感情のない声で礼を述べ、淡々と頭を下げた。逃亡戦の際に負ったと思われる傷痕が痛々しい。

「どのような事情であれ、あなたが我が蜀漢を選んでくだされたこと、うれしく思います」
「別に、選んだわけではない。こうするしか、道がなかったのだ」
「………」
宴席に沈黙が落ちる。
己の身に起こった不幸な運命を、彼は未だ受け入れられずにいるのだ、と姜維は思った。
「私ごときが何を申し上げても、将軍のお心のなぐさめにはなりますまい。見え透いた世辞は申しません。今はただ、何もかも忘れ、お心を静めて、ゆるりとご逗留なされませ」

魏の明帝(曹叡)の死後、宮廷の実権を握ったのは、宗室に連なる曹爽だった。
しかし、やがて彼は、対立する司馬懿のクーデターによって政権の座を追われ、一族すべて滅ぼされてしまう。
この「正始の変」以後、魏帝の力は目に見えて衰退していくのである。
夏侯氏は、魏国では曹氏と並ぶ地位にあり、夏侯覇もまた、縁戚に繋がる若き俊英として、順調に出世の階段を上っていた。
彼の父は、建国の功臣 夏侯淵である。名族中の名族といっていい。
魏帝の地位を簒奪しようと企てる司馬懿にとって、夏侯覇の存在は邪魔なものでしかない。
突如、都への召還命令を受けた彼は、身の危険を悟り、わずかな手勢を連れて関中を脱出する。
魏を追われた彼が落ち行く先は、昨日までの宿敵、さらには父夏侯淵の仇敵である蜀の他にはなかったのである。





→続きます

千華・2020-06-17
三国志
姜維
夏侯覇
殉志
遥かなあなたへ
創作文


「托 生」 - 奇しき縁(えにし) -

〈2〉





次の日の夕刻、姜維は夏侯覇の宿舎を訪ねた。
特に用があったわけではないが、昨夜の彼の様子が、何とはなしに心にかかって離れなかったのだ。
夏侯覇は、夕闇が迫る部屋の中で、一人ぽつねんと座っていた。
憔悴しきった顔で、ただ茫然と己の手を見つめる姿に、姜維の胸が疼く。
(あの日の私も、こんな顔をしていたのだろうか――)
苦い思いを胸の奥で噛みしめながら、姜維はできるだけ穏やかな表情で声をかけた。
「ご不自由はありませぬか? 何か足りぬものがあれば、遠慮なくお申し付けくだされ」

不意の訪問者に向けられた夏侯覇の視線は、何の感情も表していないように見えた。その顔で、ふっと小さな溜息をつくと、彼は薄い笑みを片頬に刷いた。
「姜維どのか。あなたとは、なぜか他人のような気がしないな」
それは、聞きようによっては嫌味とも取れる。
「はい。将軍もご承知でしょうが、私もかつて魏に仕えておりました」
夏侯覇の横に腰を下ろした姜維は、淡々と言葉を継いだ。
「姜伯約の名は、魏国では、不義不忠の裏切り者、忘恩の大罪人として聞こえておりましょう。ですがそれは、ここ蜀漢にても同じこと。たとえどのような理由があったとしても、一度武士(もののふ)としての道を踏み誤った者には、世間の目は冷たいものです。あなたには、その屈辱を耐え忍ぶ覚悟がおありですか?」

夏侯覇の体がこわばる。
ぎり、と奥歯が軋んだ。
構わず、姜維は畳みかける。
「私のようなとるに足りぬ者ならいざ知らず、夏侯将軍ほどの地位と名誉のある方にとって、此度のことは筆舌に尽くしがたい屈辱でありましょう。まして蜀は、将軍にとっては父上の仇、不倶戴天の仇敵。これに膝を屈するご無念はいかばかりかと推察いたします。しかしそれ以上に、裏切り者の烙印を一生背負っていかねばならぬ辛さは、耐え難いものと言わねばなりませぬ」
『裏切り者』という言葉に、夏侯覇はひどく動揺したようだった。

己が忠誠を捧げてきた故国。
その簒奪者に対して反旗を翻すことが裏切りになるとは、どう考えても理不尽ではないか――。
夏侯覇は、苦渋に満ちた沈黙を破り、大きなため息をついた。
「私は、何を間違えたのであろう? 我が一族が命を懸けて守ってきた魏の国が、まさかこんなことになろうとは……」
「世の中とは、常に理不尽なものです、仲権どの」
失意の夏侯覇に、姜維はあえて字で呼びかけた。
「あの時、私も今のあなたと同じように、すべてを失った絶望に自失しておりました。後先のことなど考えることもできず、ただただ後悔と慚愧に苛まれ、己の生きる意味をも見失っていました。けれど、その時私には、幸いにもこの身を導いてくださる偉大な方がいらっしゃったのです。その方のおかげで、私は再び立って歩き出すことができた――」
「諸葛孔明どのか」
「はい」
誇らしげにうなずく姜維の顔を、夏侯覇がまぶしそうに見つめる。
亡き恩師のことを語るとき、姜維はいつも我知らず饒舌になるのだった。

――諸葛丞相と出会い、私は初めて自分が生きる意味、進むべき道を知った。
――丞相に、この命、いやこれから先の己の生き様のすべてを捧げようと思った。

「仲権どの、あなたは宿縁というものを信じておられますか。その人と出会うことで、己が運命が決まってしまう。それを宿縁というのなら、私が蜀の諸葛丞相に降ったことこそ、宿縁だったといえるでしょう」
そうして姜維は、屈託のない眸子で夏侯覇に微笑みかけた。
「願わくば、将軍にとってこの出会いが良き宿縁になれば、と思います」
「………」
あざやかすぎる笑顔に、夏侯覇は一瞬言葉を失い、そっと視線をそらした。

すっかり暗くなった部屋の中、座がしんとする。
彼のために紡ぐべき次の言葉が見つからない、と姜維は思った。
これ以上ここにいても、夏侯覇の負担になるだけだろう。
「今日はこれで失礼いたします。明日はぜひ、拙宅へお越しくだされ。ささやかながら成都から取り寄せた酒肴を用意しておきますゆえ」
姜維は、燭台に灯を入れるように人を呼んだ。
そして、できるだけ明るく振る舞いながら、その場を辞したのだった。






→続きます

千華・2020-06-17
三国志
姜維
夏侯覇
殉志
遥かなあなたへ
創作文


「托 生」 - 奇しき縁(えにし) -

〈3〉





その夜。
夏侯覇はなかなか寝付けなかった。
突然我が身を襲った不幸。
訳も分からぬままに過ぎた逃避行。
怒り、悔しさ、情けなさ。
様々な思いが胸の内に渦巻いて、いつしか彼は獣のような唸り声をあげていた。
その時ふいに、脳裏に浮かんだ顔がある。

――将軍にとってこの出会いが良き宿縁になれば、と思います。

屈託のない姜維の笑顔が、暗闇の中であざやかによみがえった。
真摯に己の過去と現在を語ってくれた彼の言葉が、夏侯覇の荒んだ心にさざ波を立てる。
かつて、自分と同じ絶望に打ちのめされたであろう彼。姜維ならば、わが胸のこの痛み、この闇を分かってくれるのだろうか。
姜維は、諸葛亮との出会いを運命と信じ、その宿縁のために己のすべてを捧げると言った。
(あの男を、これほどに突き動かす情熱とは、一体どのようなものなのだ? それが分かれば、私ももう一度、あの男のようにまっすぐなまなざしで生きられるのか――)
空が白む頃まで、ひたすら己の心と向き合い続ける夏侯覇だった。


◇◆◇


やがて、成都の蜀帝劉禅から、夏侯覇を都に上らせるようにとの使いが来た。
「仲権どの、大丈夫。何もご心配にはおよびません。陛下の皇后様(張飛の娘)は仲権どのの縁戚にあたられるお方です。宮廷でもさぞかし歓待されましょう」
その日も姜維は、いつも通りの穏やかな表情で、夏侯覇と酒を酌み交わしていた。
漢中に留まること十日余り。
ようやく胸襟を開いて語り合うことができるようになった二人である。

夏侯覇には、酔いとともにしだいに昂ってくる思いがあった。
おもむろに居住まいを正した彼は、姜維の前に向き直ると、
「私はあなたに礼を言わねばならん」
深々と頭を下げた。
「何を――?」
「言わせてくれ。あなたに出会えた僥倖に、この宿縁に、心から礼を言う」
「仲権どの……」
「これから先、裏切り者がどのような末路を辿るのか、それは誰にも分らぬ。だが少なくとも、絶望の底で立ち上がることはできた。何も見えなかった暗闇の中に、ひとつの灯りがともった。あのまま生ける屍となり果てるしかなかった己の魂を、あなたが救ってくれたのだ」
それならば、と夏侯覇は、初めて見せる晴れ晴れとした顔で言った。
「己が生きる道はひとつしかない」
濁りのないまっすぐな視線が、姜維に向けられている。
「姜伯約どの。これより私は、あなたを我が標としよう。あなたの夢を我が夢としよう。あなたが孔明どのにすべてを託したように、私はあなたに、我が生を託しましょう」
夏侯覇の言葉に、遠い日の自分自身の誓いがよみがえり、姜維は目蓋を熱くした。
「………」
「今日この日より、夏侯仲権、この命を蜀と伯約どのに捧げまする」


二人の男の奇しき縁が、ここに始まる――。






*完

千華・2020-06-17
三国志
姜維
夏侯覇
殉志
遥かなあなたへ
創作文


◆星落つ秋風五丈原◆




諸葛亮(孔明)と姜維。
この師弟の交流の美しさ、その生きざまは、数ある三国志の人間関係の中でも、他に例を見ないほど純粋でひたむきなものに思えてなりません。


劉備から託された大いなる夢、その実現のために、文字通り粉骨砕身する孔明。
しかし、現実は容赦なく蜀の未来を塞ぎ、ついには病に倒れた孔明の命の灯火をも吹き消そうとするのでした。

この夢を、大いなる志を、託せる者はそなたしかいない……と、孔明はすべてを姜維にゆだねます。
それが、どれほど険しく困難な道であるか、いかに厳しい犠牲を強いることになるか、分かりすぎるほど分かっている。
それでも、死に臨んだ孔明が、この国の行く末を託すことができるのは、姜維以外にないのでした。
姜維もまた、すべてを承知の上で、まっすぐに孔明の願いを受け止めます。


姜維が孔明とともに過ごしたのは、わずか6年余りにすぎません。
けれどその6年間の交わりが、どれほど深く真摯なものであったか、その後の姜維の生きざまを見ればよく分かります。

人と人の結びつきは、本当に不思議なもの。
もともと魏の国に生まれ、魏に仕えていた姜維が、運命的な縁(えにし)で孔明に降り、敵国であった蜀の人となる。
この一事をとってさえドラマチックなのに、かれは、孔明亡き後の蜀をたった一人で支え続け、劉備から孔明へと受け継がれてきた「大いなる夢」を、最後の最後まで守り抜こうとしたのです。

孔明の遺志を守って戦う――それ以外の道が、姜維には見えなかったのでしょう。
かれには、孔明から託されたものの重さが分かっていたから。
星落つ秋風の五丈原で、今しも孔明の肉体を抜け出た魂魄が、己が身に宿ったかの如く思えたあの日から、姜維はただ「内なる孔明」のためだけに戦い続けるのでした。


やがて蜀は魏によって滅ぼされ、姜維も乱戦の中に斃れます。
けれども、ふたりの進んだ道には、ただ一片の私心もなく、ひたすら国のため、民衆のため、人の拠るべき大義のため……。
ともに最期まで己の信義を貫き通したのでした。
いささか現実離れしているのでは、とさえ思える清冽な生きざまも、この師弟であればこそ、と納得できるのです。




*一日遅れてしまいましたが、旧暦8月23日は諸葛亮の忌日です。

千華・2021-08-24
歴史語り
三国志
姜維
諸葛孔明
秋風五丈原
遥かなあなたへ
墓碑銘
殉志


「花が香るのは」 〈2〉





「父上が何を考えていらっしゃるのか、私にはさっぱり分かりません」
醒めた声に振り向くと、息子の姜啓が憮然とした顔で立っていた。
「人は皆、父上のことを悪し様に申しております。無駄な北伐を繰り返して何の益も上げられず、国家の財政を疲弊させた。国を統べる大将軍の地位にありながら、内政を顧みず、宦官をはびこらせて宮廷を腐敗させた。さらに、国家存亡の大事の折にのうのうと生き長らえ、あまつさえ敵国の将軍と好を通じて、己が保身のみを図っている――」
香蓮の顔色が変わった。
「おやめなさいっ! それ以上父上のことを悪く言うと、母が許しませんよ!」
「母上……」
「父上には、きっと何かお考えがあるのです。息子であるあなたが父上を信じてあげなくて、どうするのですか」

だが、息子の言い分にも理由がないわけではない。
剣閣で鍾会に降伏した姜維だったが、その後なぜか二人は意気投合し、今も行動をともにしていた。
鍾会は、姜維を客将として遇するのみならず、成都への進軍に際しては、兵五万を与えて先鋒としたのである。
やがて成都に入った鍾会は、謀反の企てありとして鄧艾父子を捕え、本国へ護送してしまった。
元々二人の仲は良くなかったし、成都攻略の手柄を立てた鄧艾を、鍾会が苦々しく思っていたことも確かである。
だが、その背後に、姜維の影を感じ取ることのできた人間が、どれだけいただろう。

訳もなく、胸が騒ぐ。
(なぜ夫は、おとなしく敵である鍾会のもとにいるのか?)
世間が噂するように、夫が保身のために鍾会に取り入っているとは、香蓮にはとても思えなかった。
きっと、何かある。
考えているはずだ。その胸の奥深く、何か、とてつもないことを。

――あの方は、決してあきらめたりしない。 孔明さまから託された夢を、途中で投げ出すようなことはしない。 枯れ果ててなお、己が生き様に執着する梅花のようでありたい、と言うあなたを、わたくしもまた、最後まで信じています――。



「蓮花。すまないけれど、表の梅の枝を少し手折ってきておくれ。そろそろ客間の花を替えなくては」
そう言って娘を外へ出した後、
「啓、これを見てごらんなさい」
香蓮は声音を改めると、懐から小さくたたんだ紙を取り出して、息子の手に渡した。
「これは、父上からの文ですか?」
「数日前に、董封どのが密かに届けてくれたものです」
董封は、かつて姜維の身辺を警護していた耳目である。
今は陳涛の後を継いで、荊州耳目の頭領となっていた。
そこには、余計なことは一切記されておらず、ただ「自分に万一のことがあれば、すぐに子どもたちを連れて逃げよ。すべては董封に任せてあるゆえ、その指図に従うように」という意味のことが簡潔にしたためられていた。

文章の最後に、小さく「起死」と書かれているのを認めて、姜啓は顔色を変えた。
「これは……! 母上、父上は何をしようとなさっているのです?」
「わかりませぬ。董封どのも、はっきりと答えてはくださらなかった。ただ、心を静め、万一の場合に備えておくように、と」
夫が何を思い、どんな策をめぐらしているのかは分からない。
だが、文を手にしたときから、香蓮には、姜維が最後の賭けに打って出ようとしているにちがいないという確信があった。
企てが失敗すれば、自身の身は言うに及ばず、一族郎党の命もない。
それほどの「起死回生」を賭けた大博打なのであろう。

目を上げると、啓の肩が小さくふるえている。
「啓。そなたも姜伯約の息子ならば、覚悟を決めておきなさい」
「母上――」
「父上はこう仰っていますが、母は、何があろうともここから逃げるつもりはありません。姜伯約の妻として、最期まで旦那さまとご一緒に参ります」
ごくり、と息子が唾を飲み込む。
「兄上は、このことをご存じなのですか?」
「孔には先日話しました。妻と娘を早く成都から逃がすようにと」
「あ! それで、義姉上は実家に戻られたのですね」
「他家に嫁いだ娘や孫にまでは、詮議の手も及びますまい。けれど、そなたたちは……」
そこまで言い、香蓮は絶句した。
(男子である孔や啓は、助かるまい。敵の手に捕らわれれば、おそらく死罪――)



董封から夫の文を受け取った香蓮は、取るものも取りあえず長男の姜孔を訪ねた。
文を一瞥するや、孔の顔色が変わった。
彼もまた、すぐさま父の企図するところが分かったのである。
しばらく沈思していた孔は、やがて真剣なまなざしを上げてじっと母を見つめた。
「私は、逃げませんよ、母上」
「孔?」
「姜伯約の血を引く男子となれば、たとえこの場は逃れても、どこまでも追っ手がかかるのは必定。それならばいっそ、潔く父上のお供をいたしましょう」
父によく似た横顔に、かすかな笑みが浮かぶ。
「ここで身の処し方を誤って、父上のお名前に傷がついては一大事です。私は、蜀漢の大将軍 姜伯約の息子として、立派に死にたいと存じます。母上も、すでに覚悟を決めておいでなのでしょう?」

覚悟。
(そう。覚悟はできている。何があっても、最後まで伯約さまの側を離れぬと。生も死も、あの方とともにと。伯約さまと結ばれたあの日から、わたくしの進むべき道も、またひとつ)
けれど――。
子どもたちまでを巻き添えにするのは、母として忍びなかった。
「母上。私は嫡男ですから、父上のお供をするのは当然としても、啓や蓮花は不憫ですね。できることなら、死なせたくない」

孔もまた、弟妹たちだけでも何とか助けられないかと考えていた。
「姜家の血を絶やしてしまっては、父上も悲しまれましょう。母上、何とか董封どのに、啓と蓮花だけでも無事に逃していただけるように頼んでくださいませんか」
「――そなたは、よいのですか? こんなところで、こんな形で終わっても……」
「言ったでしょう。私は、姜伯約の息子ですよ。何があっても、父上とともに参ります。できることなら、今すぐにでも父上の下に馳せ参じ、微力ながらお力になりたいところですが。それができぬのが残念です」
「孔……」
香蓮の中で、こらえていたものが堰を切ったようにあふれ出た。





💮続きます

千華・2020-09-03
三国志
姜維
姜維と香蓮
遥かなあなたへ
殉志
創作文


「花が香るのは」 〈1〉





魏の景元五年(264年)春一月。
蜀漢の都だった成都では、梅の花が満開だった。
城内のそこかしこに、紅白の可憐な花が乱れ咲き、馥郁とした香りを漂わせている。



かつて劉備が、諸葛亮が、天下統一の夢を掲げて降り立ち、その拠り所とした蜀の地。
かれらもまた、昔日、この地に咲き匂う梅の花を愛でただろうか。
やがて、劉備ら桃園の義兄弟は相次いで世を去り、大志を継いだ諸葛亮孔明も、途半ばで五丈原に帰らぬ人となった。
孔明の後を受けた蒋エン、費イは、一貫して専守防衛に徹し、先人の遺徳と天然の要害に守られてか、蜀は、それから三十年にわたってその命脈を保ち得たのである。

だが一方で、劉備が漢室復興の理想を掲げ、孔明が引き継いだ『蜀漢』は、常に曹魏と対極の位置にあることで、その存在理由があったともいえる。
孔明亡き後、蜀は、次第にこの存在理由を失っていくことになるのだ。
そんな『蜀漢』の行く末を、誰よりも激しく、歯噛みするような思いで案じていたのは、姜維伯約だった。

――今の蜀は、魏に滅ぼされるのを待っているようなもの。このままでは、先帝の理想、亡き丞相の悲願が雲散霧消してしまう。崇高な建国の理念なくして、たとえ百年千年永らえようと、何の意味があろうか。


姜維は元々魏に仕える将だった。
第一次北伐の際、動揺した上司に内通の疑いをかけられ、進退窮まって蜀に降ったのである。
以来、常に孔明の傍らにあって、漢室再興の旗印を掲げて奮戦した。
蜀の人々が偽りの平穏に慣れ、厭戦の空気が国全体を覆い始めても、姜維は、孔明の遺志を受け継ぎ、ただ一人戦い続けた。

晩年のかれの魏に対する執拗な攻勢は、狂気とも見えるほどだ。
まるで、孔明の魂が乗り移ったとしか思えない。
姜維が孔明とともに過ごしたのは、わずか六年あまりにすぎないが、その間かれは、師の悲願、志を、痛いほどその身と魂に浴び続けたのだろう。
故郷を捨て、不孝不忠のそしりを受け、それでもかつての己の故国に攻め入り続けたかれの姿を、天上にある孔明の魂魄は、どのような思いで見ていたのであろうか。


だが――。
男たちが夢を描き、姜維が守り抜こうとした蜀漢は、すでにこの世にはない。
昨年冬、魏の大軍に攻め込まれて成都が陥落すると、劉禅は早々と魏の将軍鄧艾に降伏し、ここに蜀漢はあっけなく滅亡したのである。
剣閣の要害で魏の大軍を防ぎ、後一歩で撤退させるところまで善戦していた姜維も、劉禅から直々に武装解除の命を受けては、武器を捨て、敵将鍾会に降らざるを得なかった。



「国が滅んでも、花は咲くのですね」
今年十三になる娘の言葉に、香蓮は声を詰まらせた。
「蓮花……」
「お父さまやお母さまが懸命に支えてこられた蜀漢は、もうなくなってしまったのでしょう?」
「そうね。でも、お父上は、今も戦っていらっしゃるのよ。最後の最後まであきらめずに。蜀漢のため、天下のため、孔明さまの夢を叶えるために」
庭先に、見事な花を咲かせている白梅の老木を眺めながら、香蓮は娘に言い聞かせる。
今を盛りと咲き匂う無数の花たち。
甘やかな香りに、胸が詰まる――。
凛と咲き誇るその姿に、一人戦い続ける夫の孤高の姿を重ね合わせた妻は、思わず目頭を熱くした。

香蓮は、姜維が蜀に降ってから娶った妻である。
二人の間には、二男三女の子があった。
上の二人の娘は他家へ嫁し、長男姜孔もすでに一家を成して別棟に暮らしている。
今、母とともにいるのは、十六歳になる次男姜啓と末娘の蓮花の二人だけだった。



あれは何時のことであったか。
長らく前線に駐屯していた夫が、数ヶ月ぶりに成都に帰還してきた。
生まれたばかりの末娘を連れて、郊外の梅林へ花見に出かけたことがある。
風の穏やかな、うららかな春の午後。
だが、すでに盛りを過ぎかけた梅は、半分赤茶けてしぼんでしまっていた。
「まあ、少し遅かったのですね」
十日ほど前までは満開でしたのに、と残念がる妻に、姜維は穏やかな笑顔を返した。

「香蓮。私は、この梅の花のようでありたいと思っている」
「確かに華やかさはないけれど、薫り高く、寒風の中で凛と咲く姿は、伯約さまらしいとわたくしも思いますわ」
――ああ、と頷いた夫の眸子は、不思議な情熱をたたえている。
「私のことをそんなふうに言ってくれるのは、そなただけだな。……だが、それだけではない」
「と申されますと?」
姜維はじっと妻の顔を見つめ、自嘲に似た笑みを浮かべた。
「梅の散り際は無様であろう」
「え?」
夫の言っている意味がわからない。

「花の盛りに見事に散ってしまう桜などとは違い、梅は花が朽ち果てるまで、枝にしがみついておる。その姿は、決して美しくも潔くもない。いつまでも醜い姿をさらしていると、嘲笑う者もいよう。だが、私は、最後の最後まであきらめたくはない。万にひとつの望みでもあれば、その可能性に賭けたいと思っている。たとえ無様だと笑われようとも、最期まで己の生き様に執着する、この梅花のようでありたいのだ」
香蓮の胸がしんとする。
いつの間にか、夫の髪に白いものが目立つようになったことに、改めて気づいた。
蜀に降ってより今日まで、夫は、ただひとつの道だけを信じて、ひたすらに歩いてきた。
その生き様を、胸に秘めた熱い志を、妻である自分だけは、最後まで見守り続けたい。

――ああ。命尽きるその瞬間まで、この方の進むべき道はひとつしかないのだ。

枯れてもなお、その残滓をさらし続ける梅花のように。
たとえ人から何と言われようと。
決意に満ちたあの日の夫のまなざしを、香蓮は今も忘れることができない。





💮続きます

千華・2020-09-03
三国志
姜維
姜維と香蓮
遥かなあなたへ
殉志
創作文


‐五丈原余話 その2‐

「わが命尽きるとも」 〈2〉





「香蓮。無理をしていないか」
自分の幕舎に戻って戦袍を脱ぎ、ようやく落ち着いた伯約は、久しぶりに見る妻の顔を心配そうに覗き込んだ。
「ただでさえ、慣れぬ陣営での暮らしなのだ。まして男のなりをして――」
「大丈夫です。私は……大丈夫」
十日ぶりに見る夫の変わらぬ笑顔に、香蓮はほっと安堵のため息をもらした。
夫は、戦場での疲れも出さず、なお自分を気遣ってくれている。
その優しさに、胸がつまる。
この本陣に来てから、何度か夫と顔を合わせる機会はあったが、普段は挨拶さえ交わさない。
あくまでも、孔明の小姓としての立場を保っていたからだ。

ようやく伯約と二人きりになれた。
もちろん、甘い感傷にひたれるような状況でないことは、十分承知している。
それでも、高鳴る胸のときめきを自分では押さえられない。
「無理をしていらっしゃるのは伯約さまの方ではありませんか。それこそ毎日、身を削るようにして前線に立っておられるのでしょう?」
「その苦労も、こうしてそなたの顔を見れば霧消する」
伯約は、そっと香蓮を抱き寄せた。
たちまち、たくましい腕に包み込まれる。
「今日だけ、そなたを女に戻したい。小姓の趙子元ではなく、私の妻 香蓮に」
「伯約さま――」
(愛しいあなた。今は、香蓮に戻っていいのですね。その優しさに甘えていいのですね……)
自分の胸の鼓動が聞こえるようだ。
疼くような甘い痛みが、身体の中心から全身に広がっていくのを感じ、香蓮は目を閉じた。


山際に傾いた日差しが、幕舎の帳にぼんやりとした陰影を落としている。
秋の陽が沈んでしまうと、すぐに辺りは夕闇に包まれ始めた。
抱擁の後の心地よい疲れに、うっとりと身をまかせていた香蓮は、天地を包むような虫の声に身を起こした。
静かな寝息を立てている伯約の腕をそっとほどくと、寝台から滑り降りて、燭台に灯をともす。
温かい光が室内を満たし、伯約の寝顔を優しく照らし出した。
(きれいな顔――)
女の自分が見ても惚れ惚れする。
眉から鼻梁へと伸びる整った線。豊かな頬。繊細な顎。長い睫毛に縁どられた切れ長の眸子。情熱的な唇……。
ふいに訳もなく、香蓮は深い悲しみに襲われた。
この愛しい人を失ってしまうのではないか、という不安。
自分を包んでくれているすべてが、消えてしまうかもしれないという恐怖。
香蓮は我を忘れて、男の胸にしがみついた。

「―――?」
伯約が、驚いて目を覚ます。
「香蓮? どうしたの?」
「伯約さま。こわい……」
ただ泣きじゃくる香蓮の身体を、伯約はしっかりと抱きしめた。
「もう大丈夫。私が側にいるから。さあ、泣き止んで」
「……って言って」
「え?」
「決して死んだりしないって。どこへも行かないって。私をひとりにしないって」
出会った頃の、お転婆な口調に戻ってしまっている香蓮を、ひざに抱え上げると、伯約はいとおしそうにその髪をなでた。

「香蓮。心配しないで。私は死んだりしないよ」
「本当?」
「こんなに愛しいひとを残して、ひとりで死んだりしないから」
いつの間にか、伯約の口調も昔に戻っている。
孔明の下で、ともに研鑽を重ねた日々。
もう一度、あの頃に戻れたなら――。
だが、それはかなわぬ願いだ。
(もう、過去へは戻れない。昔を懐かしんでいる時ではない。今は、己の目の前の道を、指し示されたとおり、まっすぐに進むだけだ)
伯約は、香蓮の白いうなじに口づけを落とすと、しなやかなその身体をもう一度きつく抱きしめた。


◆◇◆  


夜が明けきる前に、伯約は出立の準備をすませた。
前線に戻った後は、また敵との対峙が続く。
先の見えない戦況である以上、次はいつ会えるかもわからない。
幕舎の外まで見送りに出た香蓮は、こらえきれずに、夫の手を握り締めた。
「できるならわたくしも、この手に剣を取り、あなたとともに戦場に立ちとうございます。待っているだけの身は、辛くて……」
「そなたなら、さぞ目覚しい活躍をするだろうな。敵も味方も驚くことだろう」
伯約は、楽しそうに笑った。
あまりに鮮やかに返されて、香蓮も苦笑せざるをえない。
張りつめていた気持ちが、ふっと緩む。

「これからは、伯約さまが丞相の重荷を背負ってゆかれるのですね。私が少しでも、それを軽くすることができるのなら……」
「その言葉だけで十分だ。そなたが側にいてくれるだけで、私は戦える。前に進むことができる。だから――」
薄明の中で、突然、息が詰まるほど強く抱きしめられた。
熱い息が耳元をくすぐる。
「どんなことがあっても、私より先に死んではならぬ」
「あなた……」
ふいに首筋に落ちたしずくの冷たさに、香蓮の肌が怯えた。
驚いて顔を上げたが、伯約は泣いてはいない。
「―――?」
不思議そうに見つめるその顔を、両手で包みこむようにして、伯約はそっと香蓮の朱唇に唇を重ねた。
「私は、笑って発つから。香蓮も、笑顔で見送ってほしい」
「……はい」
夫の言葉にうなずいた香蓮は、芙蓉の花が開くように微笑んだ。
愛しさが、波のように寄せてくる。
この笑顔を守るために、戦うのだ。

――私には、まだ守るべきものがある。
この命に代えて、守り抜きたいものがある。
それは、丞相から託された夢、
この国の未来。
そして、香蓮、そなたという花。


たとえ、わが命尽きるとも――。





🌼完

千華・2020-08-24
三国志
姜維
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遥かなあなたへ
殉志
創作文

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