たとえばね。
あたしはこの画像のシーンには憧れられない。
あたしは女の子が好きだから!!
というのもたしかにあるけど。笑
まー同性愛のことは置いておいて、
ここは異性愛前提で考察してみよう。
(※同性愛でも同じ結論になるテーマです)
もしも
あたしに愛する彼がいて
あたしが愛する彼と抱き合っているときには
あたしの視界には、
彼の姿が大写しになるはずで。
だから、
第三者目線から
『ふたりが抱き合っている姿』を
見ている、というのは
ほんとうは、おかしい。
おかしい、というか
それだと、
当事者ではなく第三者、
なんなら窃視者とか盗撮者にすぎない
ことになる。
テレビとかで、
見慣れていると、
こーゆー第三者目線からでも
感情移入できるように、
なるものなのだろうか??
あたしに言わせれば
『愛し合っている』とは
最低でも、
第三者目線が消失すること。
第三者すべてが視界から消去して
彼だけが見えている状態のこと。
彼の姿が大写しになり、
しかも、抱き合うくらいまで接近していたら
確実に目を閉じてしまうから
『目を閉じていても見えている』
彼の姿、
こそが
あたしにとっては、
愛する彼の姿だ。
念のため付け加えると
至近距離で目を閉じることが
できない相手とは
そもそも愛し合うことも、できない。
警戒心を無くせない相手と
性˙欲だけで抱き合っていても、
(または寂しさを紛らわせていても)
それは愛とは関係ない。
それに、、、、、、
いかに愛し合っていたとしても
目を見開いて鼻の穴の中とか毛穴とか覗いても、
しょーがないと思うんだよね。
人間の顔つきは、
ある種の意図、意匠を持っている。
それはその人自身を反映しているので、
その情報には、じゅうぶん価値がある。
だから顔つきだけ見て一目惚れをするのは、
まちがってはいない。
しかし、顔つきが顔つきとして機能するのは、ある程度の距離があってのことで、抱き締めあってキスするくらいまで近づいたらもう、近すぎる。
その位置では視覚情報は当てにはならず
目を閉じていても見えているものだけが役に立つ。
言っている意味
わかるだろうか??
目を閉じていても見える姿なしに、
そもそもその人をほんとうには認識することすら不可能だというのに。
それ無くして、どうやって愛し合うことができるというのだろう。
心理描写だとか文学的な表現だとかのオブラートにくるんで、あたかもそれは現実ではないかのように扱っているかもしれないが、
ほんとうは誰しも、
『現実に』
肉眼を介さずに相手の姿を見ているし、
だからこそ恋愛には価値があるし、
だからこそ恋愛は美化されうる。
そうして、そんなことが可能になるのは、じつは、
第三者目線について考えるのを、やめたときなのだ。
(この画像では)
カメラ目線を意識して、真横から撮られている前提で抱き合っているふたりは、
ようするに、ふたりしてカメラのほうを意識しているのであり、いっしょに撮影というイベントをこなしているのは事実でも、
決して愛し合っては、いない。
なぜなら意識はカメラのほうを向いており
愛するその人に没頭しては、いないから。
すべてを第三者に担保させるのが
当然である、と考えられている
地球の文化では、
はっきりいうが、
そこに愛はない。
人間に愛は不可能なのではなく、
愛を第三者に担保させようとするから、
そこにあったはずの愛が消える。
ほんとうの愛が出現するのは、
第三者にそれを証明しようとするのを、
やめたとき。
いまここにある愛を、
未来への保障として確保しようとするのを、
やめたとき。
愛を体験するのが不可能なのではなく、
それを再現したり証明したりするのが、
不可能なのだ。
そんなことも理解できない地球では、
きょうもニセモノだけがまかり通る───。