僕は雪が好きだった。
よく遊んだんだ。
雪の日にこの河川敷で。
お前は犬だから寒いの好きだろって
御主人様がフリスビーを投げてくれて
僕は一生懸命、それを追いかけて
上手くキャッチできると
よくやったって
頭をいいこいいこしてくれた。
ねえ御主人様、お願いです。
もう一度…僕の名前を呼んでくれませんか。
――僕の名前は…なんですか。
くぅんくぅんと鼻を鳴らせて
彼は月を見上げた。
闇に雪が舞う光景を彼は
とても幻想的で冷たく感じる。
小さなダンボールに
薄汚れた毛布が一枚敷かれていて
その中に彼はいた。
体がかゆいのか
しきりに首をかいている。
身体の至る所は毛が抜けて
赤くなった皮膚はところどころに
血もにじんでいるようだ。
余分な肉などない。
その証拠に腹は
えぐれて肋が浮いていた。
目には目やにがびっしりとこびりつき
その目やにを縫うようにして涙が零れ落ちた。
「お月様、お月様」
寒くて、寂しくて、悲しくて、辛くて
ぽろぽろと泣きながら彼は月を呼んだ。
月は閉じていた目を開いて
キョロキョロと下界に目をこらすと
降りしきる雪に紛れた彼を見つけた。
「どうした、そんなに泣いて」
「お願いします、お願いしますお月様」
項垂れた彼の
耳までしょげている様子を見た月は
まあまあ、となだめて彼に尋ねる。
「どうしたんだい」
「僕の御主人様が帰ってこないんです」
「飼い主が?」
「いい子にして待ってろよって、
そしたらすぐに迎えに来るよって…
そう言ったのに」
月は、心でうなってまた尋ねた。
「お前、名は?」
「コロ」
「コロ、どのくらい、飼い主を待っている?」
「もうずっと、ずっと待ってる…」
ダンボールの置かれた場所を見れば
ああ、なるほど。
河川敷の草丈の高い場所に
放置されたようだった。
彼は捨てられたのだろう。
恐らく死んでも構わないと思って捨てた。
そんな寂しい場所に彼の居場所はあった。
彼は涙を零しながら
独り言の様に不安を口にする。
「御主人様に何かあったんじゃないかな…」
「御主人様、事故にあったんじゃないかな」
「御主人様、辛いことがあったのかな」
月は心が潰れる思いがした。
犬というのは忠誠心に厚すぎる。
彼は、十もつぶやいたあとで月にこう頼んだ。
「お月様、お願いです。御主人様が
今どこで何をしているのか教えて下さい」
「聞いてどうする」
「僕、御主人様のところへ行きます」
「行ってどうする」
「寄り添って顔を舐めてあげたいんだ」
それは叶わぬ事だった。
月には見えるのだ。
ボロボロになりながら彼が飼い主を探して
たとえ飼い主を見つけたとしても
飼い主には彼より大事なものが出来たのだ。
「あの犬、あなたの事みてるよ」
「……知らねえー、気持ち悪」
彼は傷つけられる運命を背負っている。
心には深い傷がつき
その傷はたくさんの負を生み出し
生んで体中に毒が回って……。
コロは死ぬ。
真っ直ぐに、月を見つめる無垢で
忠義に厚い彼の視線が痛い…。
ここで真実を告げて
諦めさせようとも思ったが
それでは彼があまりにも不憫で
まして、願いを叶えては
ますますに彼が 不幸で…。
一計を案じた月は
意識を集中し探した。
そして、見つけた。
「コロ、その防波堤を真っ直ぐに歩くんだ」
「歩いたら、御主人様に会える??」
「……ああ、会えるさ、歩けるか?」
「うん、僕、歩くよ、だってここの川原、御主人様とよくお散歩したんだ、思い出なんだ!」
「そうか、ならば行きなさい、後ろを振り向いてはいけないよ」
“振り向けば…”とは言えなかった。
どんな人間ともさよならは、悲しいものだ。
「うん!お月様ありがとう」
降り積もった雪を
ぷるぷると体を振って散らすと
彼は、ダンボールをまたぎ
肉球で一面雪の地面を踏みしめた。
冷たいシャーベットみたい。
彼は思った。
そういえばシャーベット
御主人様が僕にくれて
くれて………あれ?
なんだっけ?
彼は真っ直ぐ真っ直ぐに歩いた。
真っ白けの雪景色、
彼は思った。
そういえば僕も
雪が積もって真っ白けになって
御主人様が
御主人様が……
あれ、なんだっけ?
彼は飼い主を求めて歩いた
向こうには街の灯りが見える
彼は思った
御主人様はいつもあの街から
僕をここへ連れてきてくれたんだ
……あれ?何をしに
ここにきたんだっけ??
彼はひとつひとつ
想い出をなくしていった。
そして彼がとうとう
生まれてから
ずっと呼ばれていたコロ
という名を忘れた時
「はやて!」
彼の後ろから、そんな声がした。
そこには一人の男の子が
息を切らせて立った。
彼はじっと彼を見据えると
耳をぴんと立て鼻をくんくんと鳴らした。
尾は自然と振られる。
「ご主人様っ!!」
彼は、男の子を主人と呼んで
嬉しそうに駆け寄った。
その姿を見ると男の子も
彼に向かって駆け寄って
しゃがみこむと両手を広げる。
彼は、その腕の中に飛び込んで
願い続けた飼い主の顔を
ぺろぺろと一心になめた。
男の子はダニだらけの彼の身体を
愛しそうに強く抱き締める。
「はやてっ、心配したんだぞ、どこに居たんだよお前」
「ごめんね、ご主人様、ごめんね、ありがとう」
想いを伝えるようにくーんくーんと
鼻を鳴らしながら
彼は飼い主の顔を舐め続けた。
「こら、舐め過ぎ!ほら帰ろ、お前どこ行くかわかんないから、今日は僕が抱っこしてやるよ、明日は病院行こうな」
男の子はそう言って
彼を抱き上げ、雪積もる家路を
ゆっくりとあゆみ出したのだった。
新しい日々は此処からはじまる。
ねえ、ご主人様、お願いです
僕をずっとずっといつまでも
「はやて」と、呼んでくださいね。
HM企画/STORY
―完結―