共同小説→三谷
『15のドラマ』㊤ 2
「ああ、行ってらっしゃい」
小さな背中からは、返事は来なかった。手も振らない。でも、届いてはいると思う。
俺の名前は浅川慧太(あさかわ けいた)。三十歳のフリーターだ。最近、不思議な中学生と出会った。愛未という名前らしい。
墓参りをしていると、同じ場にいた。自分でも何故かは知らないが、愛未に声をかけた。
いつも通っている河川敷で偶然再会し、俺がいつも吸っている煙草〝ハイライト〟を愛未が吸いたがった。俺は躊躇ったが、結局吸うことになった。
ついさっき、愛未の悩みを聞いた。苦しそうだった。俺みたいな社会の役に立たない人間には、励ましの言葉をかけることしかできなかった。解決策を出すことなんてできない。それがもどかしい。
帰ろう。今日は久々に早起きして、眠い。片手にぶら下げたビニール袋が重い。
着ているパジャマのズボンから、家の鍵を出す。それを使って扉を開けると、洗剤の匂いが立ち込めた。多分、家を出る前に回した洗濯機が止まっている頃だ。
ベッドの前の机にビニール袋を置く。中身を確認しながら取り出す。ハイライト、ライター、コンビニ弁当やおにぎり、お茶、サンドイッチを食べて出たゴミ、が入っていた。
洗濯機がある所に行き、中の洗濯物を取り出す。細いワイヤーでできたハンガーに全部をかけて、部屋に干す。
そろそろ煙草が吸いたい。部屋で吸うと匂いがこもるので、ベランダに行くことにした。ついさっき買ったハイライトとライターをセットで持っていく。
網戸が黒板を引っ掻いたような音を立てる。ベランダ用のサンダルを履いて、煙草を口に咥える。カチッと心地よい音をさせて、ライターで火をつける。
煙を吐くと、手すりに腕をかけて白い空を眺めた。さっき愛未を見送る時、嫌なことがフラッシュバックされた。そうか、あれから四年か。
「懐かしいな」
時間もあることだし、ゆっくり振り返ろう。
俺は高校を卒業してからすぐに就職した。大学に行くこともできたが、性にあわないと思ってやめた。
二十五歳になった頃、俺はとある一人の新入社員の面倒を見るよう言われた。その時、心の中で愚痴をこぼしたのを覚えている。
「よ、よろしくお願いいたします」
初々しいそいつは、田所奈緒(たどころ なお)という名前らしかった。
「ああ」
屋上で俺はいつも通り煙草を吸っていた。田所には俺の居場所を伝えていなかった。他の奴から聞いたのか、後を追って来たのか、もう知ることはない。
田所はなんだかんだで、できる奴だった。ミスはほとんどしないし、気が利く。
大学を首席で卒業したとかなんとか、噂で聞いた。ありえない話ではない。田所にはひとつだけ、少し変わった所があった。
「お前煙草吸うの?」
最初、屋上で隣で慣れた手つきで煙草に火をつけた時は驚いた。いや、吸うこと自体は珍しくないのだが。
「あ、すみません」
田所は口から煙草を慌てて離す。我に返ったような表情をした。
「いや、そのままで大丈夫だ」
「えっ、あ、はい」
戸惑いを残したまま、田所は再度口をつける。
「意外だな」
「はい。昔から憧れてて」
まるで恋する乙女のような、嬉しそうな顔をしながら言われたので、不思議に思った。その笑みは無意識に出たものだと見れば分かった。
「ふーん。そんなもんか」
「先輩はどうして吸い始めたんですか?」
「いや、うーん……親父が吸うんだよ。それで、どんな味がするのかなって思って、本当は駄目なんだけど、十八で吸い始めた」
グレていたわけではないと思う。普通にそこらを歩いている高校三年生だった。一度、制服を着た状態で吸っている時に、警察に見つかったことがある。
「そうなんですか」
「それなんの銘柄?」
「ハイライトです」
田所はポケットから煙草の箱を取り出し、俺の顔の前にやる。目の前が真っ黒だ。
「め、珍しい銘柄だな」
俺はそれを横にどかす。
「そんなことないですよ。結構スーパーとかで売ってます。色々試したんですけど、これが一番で」
屋上の手すりに手をかけたその横顔は、少し寂しそうに見えた。手でハイライトの箱を我が子のように優しくさする。
「それ、一本くれねえか?」
「これですか? いいですけど……」
たまには別の銘柄を吸ってみたくなったと言ったら嘘になるのか。特に理由はなかった。
いつも吸っているものより細い煙草を受け取り咥える。勿論違和感があった。なにか物足りない。
持っていたライターで火をつける。感想は、微妙といったところか。でも、久しぶりに新鮮な気持ちを味わった気がする。
一年後、俺はまだ田所の面倒を見ていた。お互い冗談や愚痴を言い合えるような仲になっていた。
「先輩。悩み聞いてくれますか」
ある日、珍しく田所が言った。こういうことは今まで言われてこなかった。
「いいぞ。仕事関係か?」
「それもありますけど、もっと個人的なことで」
少し言いずらそうだった。話しかけたはいいものの、まだ相談すべきか迷っているみたいだ。
「んん」
「……いや、やめときます。個人的なことは自分で解決しなきゃですよね」
俺には田所が笑顔を作ったように見えた。
「おん。まあ、無理すんなよ」
「はい」
次の日。田所が無断欠勤をした。真面目だから、そんなことをするような奴じゃない。まあ、たまにはやってしまことだってあるだろう。そう思って俺はいつも通り仕事をした。
夕方。もうすぐ定時になろうとしていた。俺はノルマを達成しようと必死になってパソコンを見つめる。
すると、課長が慌てた様子でやってきた。嫌な予感がする。
「き、聞いてくれ! 大変だ。田所が」
その先は聞きたくないと思った。吐き気がした。息ができない。続く言葉が想像できてしまう。
「自宅で」
やめろ。
「亡くなったって」
そんなの嘘だ。
「やめてくれ……やめ……」
俺は頭を抱え、今にも叫びそうだった。喉が締まって苦しい。
これは後から聞いた話だ。想像もしたくないが、首にロープが。本人の筆跡の遺書が足元に置いてあったらしい。そして、身体中に切り傷。おそらく自分でやったものだと。
そこから俺は落ちぶれた。いや、元々落ちぶれていたようなものだが。
なんで田所の悩みを聞いてやれなかったのだろう。自分を責めた。
墓参りは行った。合わせる顔がないと、最初の一年は行かなかったが。毎回、ハイライトを供えた。
仕事の方はろくにしないでほったらかし。会社の屋上でずっとハイライトを吸うだけ。このままではいけないとは思った。思いはした。だから俺は辞表を提出し、会社を後にした。
「ふふっ」
頭悪いな昔の俺。そう思うと笑みさえこぼれた。
いつの間にか手に持ったハイライトは短くなっていた。やっぱりハイライトを見て吸う度に、田所を思い出して心が痛む。
考えると、出会いや台詞が愛未の時と似ているな。俺がそうしてしまったのかもしれない。
俺には愛未を救えない。でも、まだ未来ある奴を空へ行かせたくはない。前を向かせたい。考えれば考えるほど、自分には無理だという考えばかりが深まる。
もう、辛い記憶を思い出したくない。
*
いつもより気楽に門に入れた。後ろからアサカワさんの優しい声が聞こえたが、どう答えたらいいのか分からなかった。
「うげえ!」
男子の大きな声が聞こえた。どうやら、転んだらしい。周りの友人達が笑いながら手を差し伸べる。
羨ましいなあ。そう思う自分が嫌いだ。私だって、昔は友達がいた。でもみんな遠ざかっていった。
あれは小学校三年生くらいのことだと思う。私は父の仕事の都合で引越し、転校した。
黒板に自分の名前が書かれていく。
「津島、愛未さんです。仲良くしてくださいね」
今思えば投げやりな担任の言い方。
周りと少し違うデザインのランドセルを、指定された席の机に置く。
「ねえねえ、愛未ちゃん」
声がする隣を向くと、可愛い女の子がいた。
「ん?」
「仲良くしてね!」
無邪気な笑顔に、どこか安心した。クラスに馴染めそうだと。
話しかけてくれたこの子は内海舞花(うつみ まいか)という名前らしかった。休み時間に積極的に話しかけてくれる。いつも周りには人がいて、人気者だということは確実だった。
可愛い見た目と中身。でもそれは、ただの天使の皮。実際は真っ黒な悪魔だった。
「愛未ちゃんって、思ってたのと違うね」
内海の冷たい笑顔が痛い。
「舞花ちゃん!」
「……」
勇気を出して話しかけても、完全無視。それを真似て周りの人も私を無視し始めた。何も嫌なことは言っていなはずなのに。
国語の時間に時々ある発表の場が地獄だった。拍手が一つもなく、しんとした空気が私を殴ってくるみたいだった。担任は何もしてくれなかった。
一週間ほど内海が休んだ時があった。私にとっては、ものすごい天国に感じる。ある日、担任の先生が、気のせいかいつもより明るい声のトーンで言う。
「内海さんが先週事故にあいました。後遺症が残るかもしれない。車椅子での生活することになるかもしれないとのことです。リハビリのため、しばらく学校には来られません」
嬉しいとは言いづらかった。骨にひびが入っちゃえ、とか思ったことはあるけれど、ここまで望んだことはない。
クラスのみんなは残念がっている。私はその中で、一切の表情を変えずにいた。どんな顔をすればいいのか分からなかった。
そんなことをこの一瞬で考える。転んだ男子生徒は、既に立ち上がって歩き始めていた。
もしどこかで内海らしき人を見つけたら、私はどうするのだろう。
教室に入るのを躊躇う。私なんかが注目なんてされないのは分かっているけれど。
一歩踏み出せば、床が軋んだ。歩く度に鳴るので嫌だ。足音を立てないように、見られないように、気づかれないように、シューズを床に擦りつけながら歩いた。
机にリュックを置くと、丁度、朝のホームルームを知らせるチャイムが鳴った。
*
今日はいつもよりマシな学校生活だったと思う。一人ぼっちには変わりなかったが。帰りにアサカワと会えると思うと、乗り過ごせた。
当たり前のように河川敷へ足を運ぶ。
アサカワの隣に座る。沈黙が何分か続いた。こういう時アサカワは、笑顔で私の方へ向くはずだ。でも今ここにいる男は、ただ真面目な顔をして夕焼けを眺めている。
「アサカワさん?」
「今朝はありがとな。話してくれて」
いつもより落ち着いた声。なんだかぎこちない。
今朝、とはなんのことだろう。でもそう思ったすぐ後に分かった。私は今朝に昔の話を洗いざらいアサカワに話したんだっけ。
「いえ」
なんだかんだでこの後一時間くらい話したと思う。
そういえば、アサカワと出会ってまだ二、三日くらいか。流れる時間が濃くて、二週間くらいには感じた。
「吸うか?」
その投げやりな言い方に、私の顔が苛立ちで歪んだ。敷き詰められた煙草が目の前に来た。返事せずに、黙ってその中のひとつを手に取る。
アサカワが持つライターが、私の咥えた煙草に火をつける。弱く風が吹いたので、その火に自分で手をかざした。
「大分慣れてきたな」
すう、と私は煙草を吸う。やっぱり肺の奥から咳が出た。自分の口から出た煙が、視界を覆う。
「そんなことないですよ」
「……高校生になったらやめろよ。本当は駄目なんだぞ。な?」
「はい」
一瞬黙りかけたが、そうしたら叱られる気がした。
私はどうして、こうやって煙草を吸うのだろう。グレたのか、なんなのか。最初はただの好奇心だったことは覚えている。
いつかはやめなければいけないのは分かっている。でも、そうすればアサカワと、こうして話せなくなる気がした。
「来月は大雨が降るらしい」
雲ひとつない夕闇に向かって、アサカワはそう吐き捨てた。今は月末だが、そんな漠然としたことを何言ってるのだろう、と私は笑った。
約二週間、私は河川敷へ通い詰めた。両親には適当な言い訳をして、以前より遅めの時間に家へ帰った。
その間ずっとアサカワはどこか浮かない顔をしていた。
今日も学校帰りに、河川敷へ向かう。朝のニュースで雨が降ると予報があったので一応傘を持って行ったが、今になるまで一度も降らなかった。空は灰色に曇っている。
「こんにちは。アサカワさん」
「おう」
私にしては珍しく、自分から声をかけた。アサカワは心ここにあらずという感じのまま振り向く。無理やり笑顔を作ったように見えた。
「今日は曇ってますね」
「ああ」
さっきからなんなんだろう。最近はいつもこうだ。私から煙草をせがむみたいになったし。良い気分にはなれない。
「雨が降りそうだな」
アサカワは気を紛らわすかのように、久しぶりに内容のあることを言った。
「うん」
私が敬語を使っていないわけではなく、独り言で煙と共に吐いた。
こうして空を見上げながら煙草を吸っていると、大人になった気分だ。そう思う私は背伸びをした子供だ。
「もうすぐ帰ったらどうだ」
アサカワはハイライトを口から抜いて足元に滑り込ませ、靴で潰した。やけに強く、踏みつけた。そうした本人は、辛そうに眉間に皺を寄せたように見えた。
「まだそんなに時間経ってないじゃないですか。どうしたんですか? アサカワさん、最近様子がおかしいですよ」
「くそっ……ああ、もう……」
アサカワがいらついているのは自分に対してなのか、分からなかった。溜息と共に立ち上がって、後ろのアスファルトの道で背伸びをした声がした。
「前にも言った通り、高校生になったら煙草は辞めるんだぞ。本音は、今すぐやめて欲しいもんだけど」
笑い混じりだが、顔が見えないのでその笑いが嘘にも思えてきた。
「……は、はい」
アサカワの隣に立つ。
「そろそろだ」
「え?」
そう言ったアサカワが空を見上げた瞬間、自分の頬に冷たい水が一滴、落ちてきた。反射的に瞼がぴくりと上下する。まあ、正体は雨だろう。
「あ……傘。そういえば、アサカワさん傘は?」
私の右手には傘が握られている。それに対してアサカワは手ぶらだ。
「ない」
「大丈夫なんですか?」
「フードでどうにかなる」
そういえばアサカワはパーカーを着ていて、今日は少し寒そうにしきりに腕を擦っていた。アサカワがパーカーのフードを自分の頭に被せる。
「このまま大雨になりそうです。そんなフードだけじゃ、しのげませんよ。折りたたみ傘持ってるので、私ので良かったら」
予備として、いつも登校用のリュックサックの奥に忍ばせていた折りたたみ傘の存在を思い出す。無地の黒なので、男性のアサカワも使いやすいだろう。
自分に傘をさすのを忘れ、肩からリュックサックを下ろしてチャックを開けようとする。
「辞めようと思うんだ」
弱々しい少年が初めて決断をしたみたいに、そう言うアサカワの拳は震えていた。
段々と強くなる雨に、制服が濡れ始めた。明日も学校だというのに。
「何をです?」
「ハイライト」
「煙草をですか」
「ああ。吸ってると思い出すんだよ。やなこと」
煙草を吸っている自分を小馬鹿にされたような、心に靄がかかったような気分になる。最初にくれたのはそっちなのに。
じゃあ、会うのも終わり? 一緒に煙草を吸うことも無くなる? そんなの嫌だ。
そんな考えをきっかけに、頭に血がのぼっていくのが分かった。
アサカワはいつの間にか、私が着ている制服の胸ポケットに、煙草の箱とライターを入れていた。お前が持っておけ、と言わんばかりに。
「これやるよ」
「なんでだよ」
自分でもびっくりするほどの低い声がアサカワの言葉を裂く。そしてアサカワを睨みつけた。でもやらなければよかったかも。雨の雫が目に入る、から。
「愛未? どうした?」
「辞めるなんて。私にとっての煙草は、二人で吸って、たわいも無い話をして……。アサカワさんは、年上の友達みたいな、兄貴みたいな存在なのに」
「……すまん」
謝るのは私の方だ。
「アサカワさんがいなくなったら、また私はひとりぼっちです! 私は……」
「そんなこと言うなよ。な?」
「うるさいです。アサカワさんなんて……どっか、行ってください」
もっと酷いことを言おうとした自分が信じられない。悲しい色をしたアサカワさんの目が、私の目とがっちり合う。思わず逸らして、そのまましゃがみこむ。
じゃりじゃりと足音がして、それが遠ざかっていく。やがて聞こえなくなって、叩きつけるような雨の音だけが私の耳に残った。
水を吸い込んだ制服が重りのようになっている。立ち上がって空を見上げた。晴天が広がっているわけでもないのに。
「私は何がしたい?」
変に冷静になって、自分に問う。
「何がしたかったんだろう」
アサカワと出会って、いい経験だったということには間違いない。でも、私はそこから何かを学んだか? 自分から行動を起こしたか?
アサカワさんには、もう二度と会えないのかな。
胸ポケットの膨らみに、目をやる。一箱のハイライトとライターだ。取り出して、ハイライトの箱を覗くと、残り半分くらいしか無かった。そのうちの一本を取り出して咥え、ライターをカチッと鳴らす。
もちろん、どしゃ降りの雨の中なので火はつかない。何度もつけようとするけれど、状況は変わらない。
「つかないよね」
私は自嘲するように笑った。
続き㊦→三谷
愛未/主人公。津島家の次女。
継美/愛未の姉。
内海舞花/愛美を無視し続けた小学校の同級生。
アサカワ/本名、浅川慧太。
田所奈緒/アサカワの会社員時代の後輩。故人。
父、母/仲の悪い愛未の両親,愛未は特に過干渉気味な母が嫌い。