「遅いね」
スマホを見つめながら、妃真李はそう言い放った。温度の無い言葉に胸がひやりとする。
「寝坊した、ごめん」
その一言で僕の頭の上へ視線を移す。
「…その頭でわかった」
僕の髪の毛が、一束だけ変な方向にうねっているのを見ると、妃真李の表情が柔らかくなった。今日僕は寝坊したわけだが、それを直す余裕もなく家を飛び出してきたのだった。
「かわいいから許す」
背伸びをしたと思えば、寝癖の部分をくしゃりと撫でてきた。
🃗…🃗…🃗…🃗…🃗…🃗…🃗…🃗…🃗…🃗…🃗…🃗…🃗
❁❁❁❁❁❁『I'm in wonderland』
❁❁❁❁❁❁❁❁story 7
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春になった。ついに僕らは受験生である。前々から受験生だ、3年0学期だとは言われていたわけだけど、やっぱり3年になってからではないと実感は湧かなかった。
同じように変わったことがあって、それが妃真李だった。選択科目も進路も似ているからか、妃真李とは今年も同じクラスになったわけだが、それがある意味問題だった。この頃、僕の言動に何やら不満を持っているような素振りを見せることも、彼女自身の言動に冷たさを感じることも多くなった。
「私が来る直前、女の子と話してなかった?」
僕の席の前に立って、口を開いたかと思えば、次は芽在さんのことだった。確かに妃真李と会う前、芽在さんと話した。あの英語の授業以来、芽在さんが話しかけてくることが多くなって、見かけたらよく話すようになっていた。
「おはようって言って軽く今日の小テストの話をしていただけだけど……」
釈明しても、まだ不機嫌そうに僕を見つめる視線の直る気配はない。
「何か問題あったかな」
彼女から大きなため息がひとつ零れる。
「…え、僕たちが付き合っているからってこと?そういうの駄目なんだ、初めて知った」
「…嘘でしょ…」
ふたつ目のため息が零れた。
「ごめん」
「……まあいいけど」
言葉を濁すような態度に少し苛立ちを覚えた。言いたいことがあれば言えばいいのに。
「おはよう、ひまりん」
妃真李が自分の席に戻ろうとした時、聞き馴染みのない声が前からした。猫森千瀬(ねこもり ちせ)だった。彼のどこかこなれた紫色の長い癖毛、華奢な体、首にかかっているヘッドフォン。二年の春に転入してきたことに加えて、その個性的な見た目からも、同級生で彼を全く知らない人はいない。去年から彼と同じクラスじゃなかったとしても、僕だって彼の存在は知っていただろう。
「白時くんもおはよう」
彼は糸のように目を細めて笑う。その特徴的な笑顔が僕にまで向けられるとは思っていなくて少し驚いた。
「…おはよう」
あまり接点のない僕にまで挨拶をしてきたことから、悪い人間ではないのだろう。しかし、彼は彼女のことを馴れ馴れしく「ひまりん」と呼んだ。そこまで二人は仲が良かったのか?
「猫森おはよ」
「ねえ、今日の小テストって入試対策のワークから出るんだっけ~?」
「そう、ついに受験生って感じ、いやだよね」
「仕方ないさ、いつかはこうなる運命だったよ」
「わかっているけど今日はモチベがだめ」
二人の会話が繰り広げられていく。僕はそれをただ座って眺めているしかなかった。
「はは、そんな君に糖分を授けよう」
猫森の手の中に、赤色の銀紙が見えた。どうやらそれは、チョコレート菓子らしかった。
「え、なんで私に?」
「いらなかった?」
「いる!」
その答えに満足したのか、猫森はにたりと微笑むと、すぐに妃真李の手に直接菓子を渡す。彼女の返答がやけに食い気味だったことが引っかかった。
「ありがとう、餌付けされちゃった」
「餌付けしちゃった、俺は今から小テストの範囲に目を通すよ~わ~ん」
大げさな走る動作で、猫森は自分の席へ去っていく。人々は単に「転入生の彼」ではなく、彼の人間性そのものに惹かれるのだと、今わかった気がした。それを横目に、妃真李はふっと笑って、すぐに包み紙を広げて、嬉しそうにチョコレートを口にする。
「これ、好きなんだよね」
包み紙を広げてこちらに見せてきた。
「可愛くない?」
「…可愛い?」
そのチョコレート菓子はバラの形をしていて、味は苺とホワイトの2種類が売られている。僕には馴染みのあるもので、可愛いとは一度も思ったことはないが、妃真李が思うならそうなんだろう。
「でもホワイトは元々嫌い」
「へえ」
ここまで嫌いなものをはっきり口に出す場面はなかなか無いので、よほど嫌いなのだろう。覚えておこうと思った。
「だけどなんで妃真李に?好きな食べ物を?」
「もしかして妬いてる?」
「え?」
僕の机に手をかけてもたれると、妃真李はにやっと笑う。
「ついに界兎が!そういうのを気にするようになった…!」
「気にするというか、それはありなのかって、ほら、僕が朝に女子と話すのは駄目なわけじゃん」
僕の釈明を聞いて、妃真李は呆れるように笑う。そのため息に混ざって、苺の甘い香りがほのかに漂った。
「私も今おはようって言って小テストの話をしただけよ、軽くね。これを貰ったのだって、その延長線上にあるだけ。ちなみに猫森に私の好きな食べ物を教えた覚えはないし、偶然よ」
窓から入った光を反射して、妃真李が見せてきた包み紙の赤色が一瞬だけきらめく。
「やっていることはあんたと同じ、ほらあんたも嫌なんじゃん?」
妃真李が首をかしげるのと同時に、長い黒髪もつやりと光っていた。彼女が言っていることは間違っていない。反論のしようがないことが悔しかった。それをよくわかっているからなのか、初めから彼女の語り口は穏やかだったし、すました表情を浮かべている。僕の頭に、じわじわと血が上っていった。
「それとも、私が猫森のほうに行くか不安になった?」
「そういうわけじゃ…」
「ちなみにさ、」
僕の言葉を遮ることなど構わず、妃真李は平然と話し続ける。
「私、そう思われるの嫌いじゃないよ」
悪戯そうに笑って、その言葉を注いできた妃真李を見た瞬間、気づいてしまった。彼女を疎ましく思った僕がいたことに。
何かが違う。こんなはずじゃなかった。彼女の知らなくていい部分まで知ってしまった。それだけなら良かったものの、僕の知らなくていい部分までも知ってしまった。こんな僕に気づきたくなかった。自分勝手なことはわかっている。だけど、猫森くん、君のことは嫌いだ。
ふたりのせいで僕の青春観は歪んでしまった気がした。どんなに悔やんだって、時計の針はもう戻らないのだ。
_Missing Rabbit Never Sees The Dawn .続
猫森 千瀬(ねこもり ちせ)
高校3年生。2年の春に転入してきた。宿題は「全然終わってないんだけど」と言って仲間を作っておきながら、直前になると「え?終わったよ?」ってけろっと言っているタイプ。
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