少しくだらないことを。
自分は教師という生き物が基本的に嫌いで、その中でも選りすぐりの奴らがいるのだが、ダントツが小学5年の時の教師。やたらめったら自分のやることを否定する人でした。まあ一応相性が最悪という意味で。悪いことは悪いと言ってくれる人であったのは認めようと思うし、自分もその頃真面目系クズの上位互換的な存在でしたので、自分が全部正しかった、などというつもりも無い。しかしそれを差し引いても言葉を濁さずにいえば、本当に大嫌いな(もう生理的に無理)人間でした。まぁ、自分を褒めてくれることもなかったので(笑)、好きなことを好きなだけやらせてくれなかったし自分の性格をある程度一人の人間として認めてくれることもなかったので(笑)。まあ所謂、『常識を重んじ疑うことをせず思考放棄をする量産型な生徒を作るタイプ』だったんですよ。変人が大嫌いなわけです。ほんとに、安らかな眠りにつくことをお祈りm、、、、言い過ぎか(笑)。まあこんな所で憂さ晴らしや陰口を叩く時点で自分も中々クズではあるし、こんな自分も嫌いなんですがね。
ただまぁ自分が言うと説得力がないけど、こんなクズな自分が得たそこからの教訓として。時に教師というのは、間違うことがある。もちろん人間なので当然!と思えるけど、なかなか若い人ではそう思うのが難しい人っているんで。ましてや教師ですから、ものを教える人達ですから間違えるなんてなんて奴らだということも多い。で、間違ってるよコイツと思ったのが教師だった場合についての対処法。まず理想の解として、
『ふざけんなよクソが!てめえはこことここで間違えとるんじゃボケが!!二度と私に指図するな!!』
言えれば気持ちいいが、なかなかこんなの言えないじゃないですか。ましてや教師です。講師ではなく教師。コミュニティの手綱を持っている相手にこんなこと言ったら、間違えなく自分の人生ヤベェなという恐怖がある。なので、こっちの一般解(とりあえず最適解としてもよい)。
『(あー、こいつこういう主張すんのか。まぁ、合っているかどうかわからんけど、とりあえず自分は間違ってないけどそれが証明できねぇから、従ったフリしておくか。)』
はい、これ要するにその教師に対してなんにも期待しないでおくことですね。コツは神になったイメージを持つってやつです。難しい言葉を使うと、客観で物事を見ると言いますが、自分という殻を捨てて論理だけで人を見るっていう。
但し、これに初期条件などが加わった場合の解、即ち特殊解の場合。例えばこういう例。
『へ?そうなんですか?自分はそうは思いませんけど。』
こちらは諦めてはいますが(会話を切る形にしているため)、どうしても賛成したくなくて相手が何を言っても大丈夫そうな人(つまり、ある程度意見を聞く人)なら、これでいい。これとは異なる特殊解は存在すると思いますが、各々の条件等が違うと思いますので今回は割愛。まぁ要するに、
教師だって間違えることあるし(小学校と中学校は基本的に間違えてること多い)、それから離れて時間が経った時「なにこれ、あいつが言ってたのやっぱり違うじゃねぇか!」なんてことはざらにあると思うので、教師に何も期待せず諦めてください。それで全然違うと思ったらそれでいいし、悔しいけど合ってたならそれを取り入れればいい。言ってたことを理解出来て納得できるかどうか判定できるまでの人生経験を得たことに価値があるし、それが貴方の人生という生きたことの証明のための材料になる、というわけです。