【Real Me 性別のない人~第九話 急接近】
ガシャガシャガッシャンッ
バイト中
客が食べ残した皿を重ねて
運んでいた最中のこと。
奈々との事が頭を離れない。
その事で頭がいっぱいだった俺は
汚れた皿を一気に
床に叩き落としてしまった。
客の目が一気にこちらに注がれる。
「も、申し訳ありませんでしたっ」
楽しく呑んでいた客に
丁重な謝りを入れ
片付けを始めようと
ロッカー室へ入ろうとした時
千祐さんがホウキと
ちりとり、モップを
持ってきてくれた。
俺の掃く割れた瀬戸皿を
千祐さんはちりとりで
受け止めながら
声をひそめる。
「想」
「はい」
「お前らしくないな、大丈夫か?」
「……すいません」
「上がったらルームに来い」
「うっす…、わかりました」
きっと、怒られる。
そう思っただけで
胸は締め付けられて
店の床を眺める目に
涙が滲んだ。
それでも
涙を必死に堪えたのは
この涙に気付かれたくない…
そんな意地だった。
「想くん、おつかれさまー」
「おつかれっす」
「また明日な」
高校生のバイトは
22時の上がりが
義務付けられている。
もっと働きたいけど
法律が物をいう世界だ。
スタッフが未だ
忙しく働き詰める中
俺は、
チーフルームのある
店の2階へと上がった。
コンコン
拳でノックすると
俺の気持ちとは裏腹に
軽快な音が響く。
「どーぞ」
返ってきた気の抜けたような
千祐さんの声に
心が跳ねた。
「失礼します」
一応の挨拶を済ませ
中に入ると
千祐さんは黒縁の眼鏡をかけ
店の書類に
目を通しているところだった。
部屋の戸を閉めると
書類を置いた千祐さんは
「呼び出して悪かったな」
と、柔らかく笑った。
その笑顔が痛い……。
「あの、お店のお皿割っちゃって……あの分、バイト代から差し引いといてください」
俺が勢いよく頭を下げると
千祐さんは笑み声のまま
俺に近寄り、頭を
ぐしゃぐしゃと撫でた。
「皿代なんかいいさ」
「え、でも」
「悪いことしたって思ってねえ奴からは天引きすっけど、想はちゃんと反省してんだからいーの」
ミスした時の
人の優しさが
こんなにも
心を温めて
こんなにも
涙を誘うのは
一体どうしてだろう。
千祐さんの優しさが
心を包み込む。
さっきの意地はどこへやら。
目を潤ませた涙は
容赦なく床に落ちた。
やばい
俺
情緒不安定。
プラス
意味不明。
それなのに
千祐さんは
俺の頭に手を置いたまま
心配そうに眉を下げる。
「想、やっぱお前なんかあったろ?」
「なんでも、ない……っす」
「お前嘘下手な」
千祐さんは俺の反応を待つように
しばらく無言で様子を窺っていた。
だけど
どう言っていいのか
わからない。
俺が本当に
嘘が下手な人間なら
とっくに
奈々にも「MTF」だと知られ
千祐さんにもこの想い
伝わっているでしょう?
彼女がいるということも
千祐さんに咄嗟に秘密にした。
友達にも親にも
体と心の性別が
真逆であるという事を
話せていない。
嘘、嘘、嘘、嘘だらけ。
何処が嘘下手な人間だろう。
何も言えず突っ立って
涙を落とし続ける俺に
千祐さんはとうとう
ため息をついて
こう、呟いた。
「……ま、俺じゃ頼りになんねえか」
「え…ちが、そんなわけじゃ」
「わかってるわかってる、コウコや兄貴の方が物腰柔らかいから、相談しやすいよな」
そんな風に笑う千祐さんは
どこかとても寂しそうで…
やがてその心中を物語るように
千祐さんの手のひらは
俺の頭から離れていく。
「……やっ」
咄嗟に俺は
その腕を両手で掴んで
そう、声をあげていた。
「想……?」
「あ、あ、頭……な、撫でて下さい」
「は……?」
「す、すんげええ気持ちいいんでっ!」
何を血迷った、俺っ。
さすがにこんな事、言うなんて
男が男に……おかしいだろ。
自問すると血液は
一気に上へと昇り
俺の顔を熱くさせる。
「え、あ、……おう」
ところがどうだ。
驚きながらも千祐さんは
俺の「変な要求」を優しく受け入れ
俺の頭を撫で続けてくれた。
涙は、まだ止まらない。
それでも伝えたい事。
「俺が……そ、尊敬してるのは、紗季さんでもコウコさんでもなく……千祐さんです。自分から2人と比べて、勝手に……落ち込まないで下さい。俺はちゃんと千祐さんのこと……」
ありったけの気持ち。
まっすぐではないけれど
伝えられるだけの最大級の表現。
「お、想ってますから」
落ち込んで欲しくなくて
ここにちゃんと
千祐さんを敬愛する奴が
一人はいるんだってこと
わかってほしくて
口にしたはずの言葉。
だけど伝えた直後の
ウラハ
心恥ずかしさが
とてつもない後悔を連れてきた。
ドキドキと
心臓の音ばかりが
耳に響く中……
千祐さんは
頭を小さくかくと
真剣な眼差しで
俺を見つめ、言った。
「……あー……どー…しよ」
やっぱり
引くよな……。
「お。男が、男に、ははは、な、何気持ちわりーこと言ってんしょーね」
気がつけば俺は
伝えたくて伝えた言葉を否定し
また自分の気持ちに
蓋をしようとしていた。
でも、嫌われるより
ずっと、いい。
涙を飲み込んで
俺は無理に笑って見せる。
「いや」
千祐さんはそう呟いて
「え…?」
言葉を繋ぐ。
「今、なんか俺……すげえ、」
「……はい?」
「ドキドキしてるわ」
「……は?」
「心臓の音…聞いてみるか?」
唖然とした俺の答えを待たずして
千祐さんは俺をトンっと
優しい手のひらで抱き寄せた。
途端に、跳ね上がる心音。
どくどくなんて
生易しいものじゃない。
ドドドドドド
騎馬隊が身体中を駆け巡る。
でも、本当だ……。
千祐さんの鼓動も
負けちゃいない。
「な、すげえだろ」
内部から耳に響く、
くぐもった千祐さんの声
決して背丈が
大きい方ではない俺が
長身の千祐さんに
すっぽりと包まれる。
仮病を使ったあの日より
ずっと近くに感じる息遣い
優しい体温。
仕事服からふんわり香る
店の料理の匂い。
俺と千祐さんの服が
衣擦れる音……。
「ち、千祐……さん」
やばい。
心臓、止まりそう。
頭に血が昇ってふらついた。
俺が裏返った声をあげると
千祐さんは我に返ったように
すぐさま俺を引き離す。
「はっ、あは、あはは……おっ男が男に、何してんだ!!あほか、俺は!」
どこかで聞いたような台詞を
慌てふためきながら
復唱する千祐さんの顔は
俺と同じくらい赤かった。
「そ、想、お前、顔赤すぎだぞ」
「なっ、千祐さんこそっ!」
「あ?そ、そうか…?」
「そー…っすよ」
「……おう、そいつは悪かっ…た」
嫌な汗をかきながら
俺は左
千祐さんは右
互いに
ちぐはぐな方向を見ゆる。
異様な雰囲気が
部屋中に漂っていた。
これは気まずい。
「あ、あの、俺」
この場を逃れるべく
俺は声をあげた。
「お、う。なんだ」
「か、帰ります」
なんて捻りのない逃れ方だろう。
それでも千祐さんも
俺が捻り出した駄策に
乗っかってきてくれた。
「そうだな、親御さんも心配するから」
「うっす」
じっと、千祐さんを見つめる。
理由はどうあれ温もりをくれた。
その事が嬉しかった。
言葉にはできない代わりに
俺は千祐さんに
深深と頭を下げて
踵を返すと
チーフルームの
戸を開く。
「あ、想っ」
呼び止められて
振り返ると
未だ茹で上がった顔をした千祐さんが
黒縁メガネをかけ直しながら
「気をつけて帰れよ」
そう、優しく
微笑んだところだった。
ああもう…かわいい。
いつものしっかり者の千祐さんとの
ギャップにやられ込んで
俺は、店を後にしたのだった。
【Real Me 性別のない人~第九話 急接近(終)】