I love youの訳し方
“I love you.”
午後の昼下がり。
お昼をたらふく食べ睡魔が襲う5時間目。
中でも眠たい教科1位の国語。
国語の先生特有の安心する声は私たちを眠りに誘う子守唄。
そんな声が発した突然の英語の告白は眠気を吹き飛ばすような衝撃を与えた。
それはもう、夢うつつの私が現実に帰ってこれるくらいに。
おっとりとした優しい先生は綺麗な発音を発した後、少し黙った。
私はついつい彼に目線をやった。
“皆さんは、なんて訳しますか?”
長く、でも短い沈黙から一言。
皆さんは、と言いながら先生は学級委員長を当てた。
私はぼんやり委員長の方に目をやった。
察した委員長が座ったまま答える。
“「私は貴方を愛しています。」”
模範解答を自信気に言った。
先生はにっこりと微笑む。
“そうですね。
英語の授業ならそれが正解です。
ですが、今は国語の授業なので別の視点から考えてみましょう。”
クラス中にはてなマークが浮かぶ。
“夏目漱石がI love youを「月が綺麗ですね。」と訳したのは有名な話ですよね?
もうひとつの例として、二葉亭四迷の片戀という作品では、女性が想いを告げた男性への返事に「死んでもいいわ。」と言っています。
二葉亭四迷はロシア語のВашаを「死んでもいいわ。」と訳したそうです。
Вашаとは英語訳するとyours。
直訳すれば「貴方のもの。」です。
つまり二葉亭四迷はyoursを「死んでもいいわ。」と訳しています。”
初めてきく人名と、先生の英語、ロシア語の発音の良さに呆気に取られる。
クラス中の口が開いているのもお構い無しに先生は続ける。
“皆さん、想像してみてください。
「月が綺麗ですね。」と告白する場面を。
どんな男性が、どんな場所で、どんな女性に想いを伝えるのか。
時間は?季節は?服装は?
男性から告白された女性が「死んでもいいわ。」と言った時の女性の心情は?
男性の表情は?この後の2人は?
…物語を読む上で1番大切なことは想像力です。
いかに物語に入り込めるか、想像できるかです。”
クラスの半分ほどが頷いた。
納得と困惑の半々になったクラスの空気を読んだ先生はまたにっこりと微笑んだ。
“ここで最初の質問に戻ります。
皆さんはI love youをなんと訳しますか?
もちろん、この質問に模範解答はありません。
想像力を働かせて見てください。
大切な人に想いを告げる時、皆さんはなんと告げますか?
きっと場所によって、相手によって違うでしょう。
もしかしたら季節によっても変わるかもしれませんね。
…皆さんにとってのI love youが見つかりますように。
では、今日はここまで。
号令お願いします。”
最後まで微笑み続けた先生は最後もにっこりと微笑んだ。
そのタイミングで授業終了のチャイムがなった。
しばらくI love youの話題で持ち切りだった。
女子同士でキャッキャと語り合ったり、男子同士で茶化しあったり。
しかし、普段仲良しクラスで有名なうちのクラスも、思春期という壁を乗り越えれず、男女間でこの話題が出ることはなかった。
1週間が過ぎ、あの話題も薄まってきた。
今日も眠たい5時間目。国語の授業。
先週の授業が嘘のように、淡々と授業を進める先生。
私は黒板を見つめつつ、あの話題を思い出していた。
私ならなんて訳すだろう。
私はまたついつい彼に目線をやった。
斜め前の彼は真面目に授業を受けている。
片想い中の彼とは1年の時もクラスが一緒だった。
帰り道が同じで、お互い部活がある日は一緒に帰ることがお決まりになっている。
女子とあまり喋らない彼が私とは普通に喋ってくれることに優越感を覚える。
車道側をさり気なく歩いたり、先生に押し付けられた重い機材を運んでくれたり、そんな優しさが好きだった。
高身長で女子扱いされない私を女子として仲良くしてくれる、それだけで好きになるには十分だった。
例えば私が想いを告げたら彼は答えてくれるのだろうか。
それとも振られて気まずくなるのだろうか。
嫌な想像はしたくない。
負のループに入る前に無理やり追い払って板書を急いだ。
“お待たせ!ごめん、部活長引いた!”
ミーティングが長引き、いつもより遅くなった。
正門のところで塀にもたれてる彼の元に走りよった。
“ん、いや大丈夫。”
私に気づいた彼がイヤホンを外す。
“帰るか。” “うん。”
いつものように部活のこと、授業のこと、今日の晩御飯の予想大会、最近のマイブーム。
そんなたわいもない会話で帰る。
お互いいつもより遅いスピードで。
会話に区切りがつき、できるふとした沈黙。
“なぁ。I love youなんて訳す?”
心地良い沈黙を破った気まずい質問。
どうすべきか迷った。
茶化すべきか、真面目に答えるべきか。
真面目に答えれば告白同然。
しかし、茶化せる空気じゃなかった。
静かな住宅街からは家庭の光が洩れる。
まるでスポットライトのように私達を照らしている。
溢れる幸せの音はBGMだろうか。
何故か繋がってる私の右手と彼の左手。
私を見つめる彼の真っ直ぐな目。
今だと思った。
この片想いを別の名に変えられる瞬間だと。
“「…ずっと、一緒にいたい。」”
消え入りそうなほど小さい声。
想像していたのと全然違う。
好きでも、大好きでも、愛してるでもない。
ただ、この幸せな時間が彼の横で続いて欲しい。
それだけだった。
“…待ちくたびれた。”
そう言って彼は私を引き寄せた。
優しい衝撃と温かい温もりが私の涙腺を壊す。
この瞬間、私の片想いは終わった。
泣き止んだ私に彼は照れくさそうに手を出した。
私も照れくさそうにその手をとった。
“ねぇ、I love youなんて訳す?”
同じ質問に彼はにやりと笑った。
“「貴方の心臓を私にください。」”
ロマンよりホラーな訳に少し引いた。
“こわっ。”
彼はいたずらっ子のように笑う。
“返事は?”
彼の笑みで意図が分かり私もつられて笑う。
“「死んでもいいわ。」”
いつもの帰り道が月に照らされ明るく見えた。