【Real Me 性別のない人~第十九話 動き始めた運命】
「チーフはぁ休憩ですよっとぉ…うわっ!びっくりしたぁっ」
開いたドアから
呑気に出てきたのは
俺が…今一番会いたかった、
千祐さん、その人だった。
「ち、ひろ、さ」
「想……おま、今日シフト入ってな」
「ち……千祐さ」
恥も外聞も掻き捨てて
迷惑なんて考えられなくて
ただ、ただ
会えた事に安堵して
「わ……っ」
千祐さんに縋り付く。
「ど、どうしたんだよ、想…?」
しどろもどろの千祐さんの手のひらが
俺の髪の毛に優しく触れた途端
千祐さんの温もりに
涙が止まらなくなった。
「う……う……うわぁぁん」
声にならない。
言葉に出来ない。
「も……やだよ…」
ただ、それだけを繰り返し
千祐さんの腕の中で
さんざん、泣きじゃくった。
突然大声をあげて泣いた俺に
戸惑っていた千祐さんも
「どうしたんだよ想……落ち着けよ、なあ」
次第に低く優しい声を響かせて
俺の身体をぎゅ…と抱き締めてくれる。
弱音なんか吐きたくない。
奏斗が味方でいてくれる。
ただ、ひとりでも
俺の人間性が好きになったと
そう言ってくれる人がいる。
それなのに、
クラスメイトの対応に傷付いて
奈々の態度に傷付いて
和田の言葉に傷付いて
母さんの涙に傷付いて……
全部、全部
自分の蒔いた種なのに
被害者面してる自分が
許せない。
でも、心は苦しくて
痛くて消えてしまいたくて
俺はもう、どうしていいのか
わからなくなっていた。
涙となって押し寄せる、
罪悪感や苦痛
焦燥感や孤立感…
そんな時、千祐さんが
小さい子どもを宥めるように
呟いた。
「何か…辛いこと、あったんだな」
とんとんと、
背中でリズムをとる、
千祐さんの指先が優しい。
「ここじゃなんだから、チーフルーム来るか」
その言葉で、ハッとした。
仕事中に
こんな醜態晒して…
抱き留めてもらって…
こんな迷惑なこと、ない。
「ごっ、ごめんなさ……っ、俺、帰りますっ」
そう言って離れようとするも
千祐さんは俺の頭の上に顎を乗せ
俺にまわした腕に
ぎゅっと力を込めた。
「ち、ひろさ」
「あー…顎がくっついちまった」
「な、何言ってんすか、仕事中……」
「じゃあさ、」
そう言うと、千祐さんは
くっついたはずの顎を
いとも簡単に頭から離し
ジーンズのループに
ひっかかったカラビナから
鍵をひとつ、外した。
「想、手、出して」
「え……、はい」
素直に手のひらを出すと
千祐さんの手から、鍵が手渡される…。
「こ、これって…」
「家で待ってて。仕事終えたらすぐ行く。話、聞いてやるよ」
涙目で見上げた千祐さんの
真剣な眼差しに心臓は急いて駆け回った。
悲しみでいっぱいだった心が
現金にも浮かび上がる。
「家、入って……いいんすか」
「想なら、いいよ」
「……はい」
「待っててくれるか」
少しだけ不安げで
切なそうな目。
どうして
そんな顔するんだよ
コウコさんが
好きなくせに。
不思議に思いながらも
俺を気にかけてくれた事が
嬉しくて……
俺は、千祐さんの鍵を握り締め
「ありがとうございます」と呟いた。
***
タクシーで
千祐さんの家に向かう。
タクシーの窓の外を眺めると
煌びやかなネオンが流れていった。
夜の街にはこれだけの人がいるのに
コウコさんの会にだって
あんなに“仲間”はいるのに
どうして俺はこんなにも
理解してもらえないのか。
涙が溢れそうになって
拳の中の中の
千祐さんちの鍵を握り締めると
不思議と微笑む事が出来た。
「……この鍵、魔法の鍵、みたい」
そんな女の子みたいな言葉を使ってる、
自分がちょっとだけ、嬉しい。
千祐さんのアパートの前で
タクシーを降りた。
疚しいことを
しているわけではないけれど
自分の姿を顧みれば
高校の制服姿。
時刻は22時を回っている。
こんな時間に
男子とはいえ
高校生が鍵を開けて
自宅に来るなんて
周りの人が見たら
どう思うだろう。
不埒と思われないかな。
そんな事を気にして
挙動不審に辺りを見回しながら
千祐さんの家の鍵を
かたん、
と、開けた。
ドアを開くと
家の中の千祐さんの匂いが
お風呂のお湯の様に俺を包み込む。
ときめきが駆け抜けて
心臓が苦しいくらいだ。
家の中を見渡すと
今朝、慌てて家を出たのか
この間、千祐さんを送ってきた時より
物が床や味のあるテーブルの上に
乱雑に放置されていた。
目の前の床に投げ出された、
部屋着のズボンがこどもみたいに
ちぐはぐ脱ぎになっている。
「どれだけ急いでたんだよ」
くすっと、笑いが込み上げて
せめてとそれを拾い上げた。
脱ぎっぱなしのパーカーも
拾い、畳んでベッドの側へ置いておく。
テーブルの上の、お皿は
キッチンの流し台へ。
シンクの上に放られた、
歯ブラシは
歯ブラシ立てに立てておいた。
目に見えるものはとりあえず
どこかへ納め
ようやく、ベッドの前の
サイドテーブルに腰を落ち着けた時
ベッド下から覗く本に
俺の目は釘付けられる。
「こ、こ、これ……」
それは数冊のゲイ雑誌だった。
頭の中に花火が鳴り響く。
「な、なん、なんでっこんなものが」
千祐さんって
コウコさんが好きだよな
身体がまだ男の人だから
こんな雑誌、見てるのか
それとも千祐さんって
実はバイとかそういう……
軽くパニックを起こしながらも
好奇心が湧いてその本に手を伸ばし
表紙を開いた、その時だった。
「おー、綺麗になってる。さすが想。汚かったろ?鍵渡したあと、あー今日寝坊して家ん中すげえことんなってるって気付いてさ、本当ごめんなぁ」
鳴り響きっぱなしの心音に邪魔されて
千祐さんの帰宅に気付かなかった俺は
その声に慌てて振り返る。
「ただい……あ」
「あ………」
俺の手には
千祐さんのゲイ雑誌。
千祐さんの目は当然の事ながら
俺の手元を凝視していた。
「あ、は、あの、すすすすんません、俺、何も、見てませんから!」
「いや、ページ開かれながら言われても」
「あ…これは、その、」
千祐さんは眉を下げて笑うと、
冗談だよ、と俺の頭にぽん、と手を置き
雑誌を取り上げた。
「あ、あの」
「んー?」
千祐さんはキッチンで
湯を沸かしながら
片手間で俺に返事る。
「千祐、さんって」
「なんだよ」
「コウコさんが好きなんすよね…?」
「なんで?」
「だって、あんな雑誌…あったから」
目を丸くして
俺を見下げた千祐さんは
「まあ……趣向の変化っていうか?」
と、苦笑しながら
ミルクティを出してくれた。
趣向の、変化…?
ということは、
コウコさんは諦めたってこと?
別に好きな人が、出来たってこと?
その人が…男性だって、そういう事?
それ以上は、踏み込めない。
境界線をひかれた様な気がした。
無言のまま俯くと
千祐さんはまた俺の頭を撫でて笑う。
「泣き疲れた時には、甘いもんな」
「……うっす、ありがとう、ございます」
真っ白なコーヒーカップを
両手で抱えるように持ち
ミルクティを一口飲んだ。
ミルクティは
ほんのり桜の香りがして
荒んだ心を癒していく。
こういう…センス
好きだな。
そう思いながら
千祐さんを見上げると
目が、合った。
千祐さんは眉を下げて
「それで、何があった?」
いよいよ、核心に触れたのだった。