はじめる

#諸葛孔明

読んでると、
思わず胸がギュッとしめつけられる、
そんなポエムを集めました。

全12作品・


◇◆ 優しい午後 ◆◇
-諸葛亮、徐庶、桂華-



あの頃
ぼくたちの世界は輝いていたね。

きみがいて ぼくがいて
そして彼女がいて。

二人とひとり。
それぞれが それぞれを支えあい
手をつなぎ
三角形は 世界で一番美しい形だった。

きみと彼女が
時折かわす意味ありげな微笑に
ぼくは ほんの少しだけ
居心地の悪さを感じたりしたけれど

それでも
三人で同じ空を見上げていられる
それだけで幸せだった。


突然―。
きみは そんな世界に終止符を打った。

なぜ?

ぼくを 彼女を 捨てていくのか?
残される者たちの やり場のない思いを
どうしろと言うんだ きみは。

壊れた三角形は 元には戻らない。
つないだ手は ばらばらになり
支えあっていた心は 無残に砕け散る。

たとえそれが
やむを得ない選択だったとしても
やっぱりぼくは きみを許せないよ。

彼女を、桂華を幸せにするのは
きみにしかできないだろう?
ぼくじゃダメなんだ!


空はこんなに青いのに
太陽は あの日と同じように
明るく大地を照らしているのに

ぼくらはもう
美しい三角形じゃない。

ねえ、泣かないで。
お願いだよ…。

これからは
ぼくがあなたを支えるから。
きっと きっと 幸せにするから。

優しい午後の風が
ぼくと彼女の背中をなぜていく。

元直のいない午後―。





***


すみません…突然、訳の分からない詩で。
ここに出てくる三人は、実は拙宅のオリジナル小説設定の諸葛亮(孔明)と桂華(孔明の妻)、徐庶(元直)です。
孔明と徐庶は同門の親友、そして桂華はもともと徐庶の恋人だった、という設定です。

男二人に女ひとり。若い頃にはありがちな、ちょっとあやういバランスの上に成り立つ友情。
一歩間違えば、泥沼の三角関係!みたいな(笑)。
結局、徐庶が曹操の元に奔ったために、桂華は捨てられた、という格好になってしまいます。そんな彼女に求婚したのが、孔明だったというわけ。

わざと言葉遣いなんかも現代風にしてみたのですが、ちょっと青っぽい孔明さんも、なかなかによいかも。…なんて、手前味噌ですね。
すでに、三国志の世界じゃないけど(汗)。

千華・2022-06-10
昔の詩
三国志
諸葛孔明
遥かなあなたへ
再掲

我は深淵に潜む龍

いつの日か風を呼び

天翔る時を待つ

千華・2019-07-31
三国志
諸葛孔明
遥かなあなたへ


「この星(せかい)が美しいのは」



建興十二年秋八月。
満天の星が降る、五丈原。
病に冒されたそのひとは、穏やかに語った。


◇◆◇


戦乱と、天災と、疫病と、貧窮と、飢えと。
この国の人々は、もうずっと長い間、
そんな責め苦に苛まれ続けてきた。

そんな世の中を変えたいと、
あの方は切に願っておられた。

誰もが等しく幸せに、生の歓びを謳歌できる。
それが、あの方の描く理想の王道楽土――。

だが、現実はどうだ。
戦っても戦っても、この世から争いはなくならぬ。
それどころか、泰平のために、という名目で
戦が繰り返される。

戦乱の中で、いつも苦しむのは名もなき民草だ。
虐げられ、略奪され、虫のように殺されても、
声を上げることさえできぬ。

彼らの悲しみや怒りが、
声なき声が、
あの方の心には、いつも届いていた。

あの日、
玄徳さまが白帝城で最期を迎えられたとき。
あの方は、私の手を取っておっしゃられた。



孔明――。
そなたにも、
怨嗟に満ちた民の声が聞こえるであろう。

だが、私には、それと同時に、
彼らの衷心からの願いが聞こえているのだ。

こんな悲惨な世の中で、それでも明日を諦めぬ。
自分を信じ、未来を願う、祈りの声が。

この世界がかけがえもなく美しいのは、
それでも、夢が満ちているからだ――。

その祈りに応えてやりたかった。
その願いを実現したかった。
だが、私にはもう時間がない……。



「この世界が美しいのは、夢が満ちているからだ」
玄徳さまのその言葉を、
ひとときも忘れたことはない。

私が玄徳さまから受け取ったのは、夢。

あの方の夢、
戦場に散った多くの将士の夢、
この国に生きる幾千万の民草の夢、
そして、この諸葛孔明の夢。

その夢を、今度は私がそなたに託そう。
姜維よ――。


◇◆◇


五丈原の空に、私は誓う。

丞相の夢、しかと受け取りました。
姜伯約、夢の実現を目指して戦い抜きましょう。
この命尽きる最期のときまで。



そのひとの魂魄が静かに旅立った夜も、
五丈原の天地には、夢が満ちていた。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今年もこの日が巡ってきました。
旧暦8月23日は、諸葛孔明の忌日
(『三国志演義』による)
姜維が師から大志を受け継いだ日です。

千華・2023-08-22
三国志
諸葛孔明
姜維
秋風五丈原
墓碑銘
遥かなあなたへ

これらの作品は
アプリ『NOTE15』で作られました。

他に12作品あります

アプリでもっとみる


「軍師連盟」という三国志のドラマを
娘と一緒に見ています。(私は2周目)

今、蜀の諸葛孔明が魏に攻めてくる
北伐の真っ最中でして、いよいよ最終決戦
五丈原の戦いなのです。

これって司馬懿が主人公なのですが
孔明や姜維など蜀の皆さんが出てくると
やっぱり私って蜀目線で見てるんだなあ…
って、改めて気づいてしまいました。

上方谷の戦いで、もう一歩のところまで
司馬懿親子を追い詰めるわけですよ。
火攻めで逃げ場を失った司馬懿は
ついに死を覚悟するのですが…。

ところが何と!
まさかの豪雨で火は消えてしまう。
司馬懿は九死に一生を得て、
孔明は司馬懿を倒す千載一遇の機会を
逃がしてしまうのです。

このシーン、思わず悔し涙を流した私は
やっぱり気持ちが孔明(蜀の皆さん)と
同期しているんですよね。
ああ、天は蜀を見放したのか…と。

長年私の中で培われてきたこの気持ちは
今更もう、どうしようもないんでしょう。




千華・2022-02-10
歴史語り
三国志
好きなドラマ★
司馬懿
諸葛孔明


◆星落つ秋風五丈原◆




諸葛亮(孔明)と姜維。
この師弟の交流の美しさ、その生きざまは、数ある三国志の人間関係の中でも、他に例を見ないほど純粋でひたむきなものに思えてなりません。


劉備から託された大いなる夢、その実現のために、文字通り粉骨砕身する孔明。
しかし、現実は容赦なく蜀の未来を塞ぎ、ついには病に倒れた孔明の命の灯火をも吹き消そうとするのでした。

この夢を、大いなる志を、託せる者はそなたしかいない……と、孔明はすべてを姜維にゆだねます。
それが、どれほど険しく困難な道であるか、いかに厳しい犠牲を強いることになるか、分かりすぎるほど分かっている。
それでも、死に臨んだ孔明が、この国の行く末を託すことができるのは、姜維以外にないのでした。
姜維もまた、すべてを承知の上で、まっすぐに孔明の願いを受け止めます。


姜維が孔明とともに過ごしたのは、わずか6年余りにすぎません。
けれどその6年間の交わりが、どれほど深く真摯なものであったか、その後の姜維の生きざまを見ればよく分かります。

人と人の結びつきは、本当に不思議なもの。
もともと魏の国に生まれ、魏に仕えていた姜維が、運命的な縁(えにし)で孔明に降り、敵国であった蜀の人となる。
この一事をとってさえドラマチックなのに、かれは、孔明亡き後の蜀をたった一人で支え続け、劉備から孔明へと受け継がれてきた「大いなる夢」を、最後の最後まで守り抜こうとしたのです。

孔明の遺志を守って戦う――それ以外の道が、姜維には見えなかったのでしょう。
かれには、孔明から託されたものの重さが分かっていたから。
星落つ秋風の五丈原で、今しも孔明の肉体を抜け出た魂魄が、己が身に宿ったかの如く思えたあの日から、姜維はただ「内なる孔明」のためだけに戦い続けるのでした。


やがて蜀は魏によって滅ぼされ、姜維も乱戦の中に斃れます。
けれども、ふたりの進んだ道には、ただ一片の私心もなく、ひたすら国のため、民衆のため、人の拠るべき大義のため……。
ともに最期まで己の信義を貫き通したのでした。
いささか現実離れしているのでは、とさえ思える清冽な生きざまも、この師弟であればこそ、と納得できるのです。




*一日遅れてしまいましたが、旧暦8月23日は諸葛亮の忌日です。

千華・2021-08-24
歴史語り
三国志
姜維
諸葛孔明
秋風五丈原
遥かなあなたへ
墓碑銘
殉志


「夢を継ぐ者」 ー姜維と馬謖ー

〈1〉



◽️◾️◽️◾️◽️◾️◽️

魏の中郎将だった姜維は、諸葛亮に出会い蜀の人となる。
新参の姜維にとって、諸葛亮の信任を一身に受ける馬謖(ばしょく)は、まぶしいと同時にどこかほろ苦い存在でもあった。
やがて、街亭守備の大任を受けた馬謖は、勇躍出陣するが……。
馬謖には心中に深く秘した、姜維に負けられない理由(わけ)があった。
劉備が諸葛亮に託した「大いなる夢」。
その夢を継ぐのは、果たして姜維か、それとも馬謖か?

◽️◾️◽️◾️◽️◾️◽️



その日、突然私のもとを訪れたそのひとは、印象的な澄んだ眼で私に語りかけた。
「姜維どの。私が出陣した後は、丞相のこと、よろしくお願いいたします」
胸に染み込むような声でそれだけを言い、かれは来た時と同様、静かに幕舎を出て行った。
これまでは、互いに顔を合わしても、会釈をする程度で親しく言葉を交わしたこともない。
思いがけない申し出に、返す言葉もすぐには見つからず、私は黙って後ろ姿を見送った。
静かなまなざしの中に、懐かしむような温もりを感じた気がしたのは、私の思い過ごしだったろうか。

馬謖幼常――。
それがかれの名前だ。
蜀漢の丞相 諸葛亮孔明にその才を愛され、常に側にあって数々の難局を乗り越えてきた。自他ともに、諸葛丞相の後継者として認められた逸材だという。
蜀漢に仕えるようになってからまだ日の浅い私にとって、馬謖幼常の名は、まぶしく、またかすかに苦い存在でもあった。
その馬謖が、諸葛丞相と蜀全軍の期待を一身に負って、街亭の守りに赴くことになった。
かれが私のもとを訪れたのは、出陣の前日である。多忙な準備の合間をぬってのことだったにちがいない。


◇◆◇


蜀漢の先帝劉備玄徳の遺志を継いだ諸葛亮孔明が、何年もかけて周到な計画を練り、準備を重ね、ついに魏討伐の軍を起こしたのは、蜀の建興五年のことである。
蜀漢の命運を賭けた北伐は、当初順調に展開した。
またたく間に南安、天水、安定の三郡を平定した蜀軍は、翌年には祁山に進出し、長安を窺う構えを見せた。
魏の中郎将 姜維伯約は、このとき、太守とともに天水を守っていた。
だが、「蜀軍攻め来る」の報に恐れをなした太守は、あろうことか姜維ら部下を残して城から逃げてしまったのである。

その上姜維には、謀反の疑いまでかけられていた。
進退きわまった姜維は、やむなく蜀の軍門に降る。
自分と行動を共にした部下の命を助けんがため、あえて縄目の恥辱を受けたかれは、やがて丞相諸葛孔明の前に引き出された。
(即刻打首は覚悟の上――)
だが、足元に引き据えられた敗残の将に向かい、意外にも孔明はこう言ったのだ。
「姜維とやら。蜀に降り、私を輔けてはくれぬか」
「何と?」
「私の夢をそなたに語りたい。そなたなら、ともに同じ夢を語れるのではないかと、そう思ったのだ」
おだやかな、それでいて強い意志を秘めた双眸が、じっとこの身に注がれている。
姜維は、思わず頬が熱くなるのを感じた。
「孔明どの……」
それが、姜維と孔明の出会いだった。


◇◆◇


(このお方にお仕えするために、私は生まれてきたのだ――)
確信といっていい。
私はその瞬間、若者らしい感性で、この出会いを運命的なものだと信じた。
二十七歳のこの日のために、今日まで生きてきたのだと。
主を裏切り、祖国を捨てるに至ったのには、それなりの経緯がある。だが、何を言っても言い訳にしかならないだろう。

しかし、私は決して後悔していない。
敗残の将に対して、丞相は自ら縄を解き手を取り、自軍に招いてくださったのだ。自分の後を継いで蜀漢を支えてほしいとまで言ってくださった。
諸葛丞相こそ、この命を捧げるに足るただ一人の人だ。そのためなら、不忠不孝の汚名をも甘んじて受けよう――。
涙をぬぐうことも忘れ、私はまっすぐな瞳をそのひとに向けた。
「姜維伯約、今日よりこの命、孔明どのに捧げまする」
こうして、自分は蜀の人となった。
あの日の心の泡立ち、決意の厳粛さを、私はまだ昨日のことのように覚えている。


街亭は交通の要衝であり、関中深く進入した蜀軍にとって、生命線ともいえる場所だ。
ここをもし魏軍に奪われるようなことになれば、補給路を断たれた蜀軍は撤退せざるを得なくなる。
馬謖が街亭守備の大任を命じられたことは、おおかたの予想を裏切っての大抜擢だといっていい。
羨望と嫉妬。期待と不安。
諸将の視線が、かれの全身に痛いほどにつきささる。
さらに。
「街亭を守り抜けば、そなたの軍功を第一としよう」
軍議の席で馬謖に向けられた丞相の言葉は、皆を驚かせた。

「これは、そなたに与えられた試練じゃ。将の中には、若さゆえにそなたを軽んずる者がいることは、そなたも知っておろう。だが、儂は馬謖幼常こそ、この諸葛亮の後を継ぐに足る唯一の男と思うておる――」
「丞相……。かたじけのうございます。この馬謖、必ず――必ず、丞相のご期待に添い奉ります!」
馬謖は感涙にむせび、勇躍出陣していった。
その後ろ姿が、いつしか自分の幻影に重なる。
あれが、私だったなら。自分が、丞相に選んでもらえたのであれば。
(丞相のためなら、あらゆる困難を排し、命をかけて任務を遂行しよう)
私もきっと、馬謖と同じ顔をしているにちがいない。
ふと、胸がしめつけられるような気がした。
これは、悋気(りんき)だろうか――。


馬謖を送り出して以来、丞相は落ち着かない様子だった。
「伯約――。儂の決断は正しかったと思うか? 幼常は大丈夫だろうか」
「馬謖参軍のことならご心配にはおよびますまい。必ず街亭を守りきられましょう」
出陣の前夜、私の幕舎を訪れた馬謖の双眸には、一点の曇りもなかった。
丞相の選択に誤りはない、この人こそ誰よりも適任だと、あのとき私は確信したのだ。
――街亭は砦もなく、攻めるに易く守るに難い場所じゃ。そなたは街道を守ってじっと動かず、ここを死守することだけを考えよ。
丞相の指示に何度もうなずいていた馬謖の顔が、今も目蓋に残っている。
自負と誇りにあふれた、あの眼。そう、あれは私自身の眼でもあるのだから。

「どれほど完璧な策を立てたとしても、すべてがその通りに運ぶとは限らぬ。まして相手は、魏随一の策士司馬懿仲達ぞ。その時、幼常はどう切り抜けるであろう?」
「………」
「言葉が足りなかったかもしれぬ。すぐに伝令を――。いや、あの者に限ってそのようなことは……。ああ、誤らねばよいが」
まるで幼子を気遣う老親のようだ。
丞相の祈るような思いが否応なしに伝わり、私の心はまたちりちりと痛んだ。


◇◆◇


やがて。
恐れは現実のものとなった。
魏に先んじて街亭に着いた馬謖は、何を思ったか孔明の指示に背き、街道脇の高地に陣を張った。
そして、魏軍に包囲されて水を断たれ、ほとんど戦闘らしい戦いもできぬまま全滅したのである。
街亭からの悲報が届いたとき、孔明はひとり幕舎の中にいたが、取り次いだ者がいぶかるほどに冷静だった。
大事を聞いて続々駆けつけた武将たちの前でも、とくに慌てる様もなく、粛々と漢中撤退の指示を出し続けた。
だが、感情を押し殺した怜悧な顔の下で、孔明の心は、今にも張り裂けんばかりに嘆き、血を流していたのだ。

(幼常よ――)
(そなたほどの者でも、軍令を誤ることがあるというのか)
(――なぜ、儂の命に従わなかったのだ?)

どれほどの後悔、どれほどの悲嘆を重ねても、こぼれた水はもとには戻らない。
気が遠くなるほどの準備を積み重ねて、ようやくここまできた孔明の悲願は、馬謖の信じがたい失策によって霧のように瓦解してしまった。
街亭に向かった軍は散り散りになり、指揮官である馬謖の生死さえわからぬ有り様だった。





🌌 続く

千華・2021-08-16
三国志
姜維
馬謖
諸葛孔明
遥かなあなたへ
創作文


「夢を継ぐ者」 ー姜維と馬謖ー

〈4〉





斬――。
蜀漢の文武百官が見守る中、馬謖の刑は執行された。
多くの家臣が助命を嘆願したが、丞相は頑として首を縦に振らなかった。
それが、馬謖に手向けられる精一杯の餞(はなむけ)であることを、誰よりも承知していたのだろう。

(刑場では、あれほど毅然としておられたのに……)
自室に戻ってきた丞相の憔悴しきった顔を見たとき、私はかすかな戦慄を覚えた。
「丞相――」
「伯約か。私は今、どんな顔をしておる?」
声が震え、血の気の失せた顔は幽鬼のように蒼白だった。このまま昏倒してしまわれるのではないかと、不安になるほどに。
こんな表情の丞相は見たことがない。
だが、私の口をついて出たのは、かつて馬謖が丞相に言ったのと同じ言葉だった。
「丞相は、常に……、常のごとく、おわさねば……なりません」
「そうか。そうだな。そなたの言うとおり――」
言葉が終わらないうちに、突如、堰を切ったように、滂沱の涙が丞相の目蓋を溢れ出た。

「私が、幼常を、[殺]したのだ!」
肺腑をえぐられるような叫びだった。
「助けようと思えば、助けられた……のに。すべての責を幼常ひとりに押し付けて、私はぬくぬくとこうして生きておる」
「いいえ、丞相。馬謖どのは己で死ぬことを選ばれたのです。それだけが、丞相のために、今の自分にできる唯一のことだと申されていました。その気持ちを分かっておられたからこそのご処断でありましょう。ならば、お泣きになってはなりません。後ろを振り向かれるべきではありません。馬謖どのは、命尽きる最期の瞬間まで、丞相のことを案じておられたのです!」
「幼常……」
「私の先ほどの言葉は、馬謖どのの言葉だとお思いください。馬謖どのは、血を吐くような思いで、私に己の夢を託されました。そしてその夢は、私の中に、今も馬謖どのとともに生きております」
「馬謖の夢、か……。幼常は、そなたにそれを語ったのか?」
「はい。漢中へ戻られた夜に我が家をお訪ねになり、一晩語り明かしました」
「そうであったか」

丞相は私を誘い、庭へと続く回廊に出た。
立ち木の奥、山の端をぼんやりと染めて、遅い月が昇っている。
あの夜、死を覚悟した馬謖が、どんな思いで私の館を訪れたのか、その心中は察するに余りある。
かれは、私にすべてを託したのだ。おそらくは、一番負けたくないと思っていたその相手に。
私が馬謖から託されたもの。
私は包み隠さず丞相に伝えた。
かれが最後まで夢見た、ただ一つの願いを。


◇◆◇


一度だけ、丞相が私に話してくださったことがある。
夷陵の敗戦で兄馬良が戦死し、先帝が崩御なされたすぐ後のことだ。

「馬謖幼常。そなたは、人の夢を笑えるか?」
「は?」
「この孔明がそなたよりまだ若かった頃、私に人の夢の美しさを教えてくれた方がおられた」
「劉備……玄徳さまですね?」
「この世に、今のこの乱世に、これほど純粋な思いを持ち続けている方がいるということに、私は驚き、そして心打たれた。地位も権力も持たぬ男が、天下を憂え、民草を思う。国家の平安とすべてのひとの幸福を願い、己が手でそれを成し遂げんとする。たとえ、どれほど身の程知らずな夢であったとしても、それを信じる者がいる以上、誰にもそれを笑うことなどできぬ。――玄徳さまの語る夢は、瑠璃のように儚く、そして美しかった。その頃何かに飢(かつ)え、何かを求めていた私の心は、その美しい夢に秘められた熱い志に、激しく魅了された」

丞相の語る夢。
それこそが、私にとっては瑠璃の夢だった。
私は憑かれたように丞相の話に引き込まれていった。
「それ以来、私もともに、その夢を追い続けて来たのだ。だが、私に夢を語り、進むべき道を指し示してくださった方は、もう……」
丞相の声は悲痛だったが、その眼は濡れてはいない。
常のごとき顔で、私の心の奥底に語りかけてきた。
「玄徳さま亡き今、その夢を継ぐ者は私しかおらぬ。どれほど険しい道であろうとも、私は進まねばならぬのだ。そして、そなたにも、同じ夢を継いでもらえたら、と思っている」

(たとえ、どれほど身の程知らずな夢であったとしても――)
では、私も信じてよいのですね。
この美しい瑠璃の夢を。丞相に選ばれたのだということを。
そのときの歓喜、震えるような喜びを、私は終生忘れないだろう……。


◇◆◇


「瑠璃の夢か――。ひとは夢を見なければ生きてはゆけぬのかもしれぬ。先帝も私も、見果てぬ夢を追い続けてきた。できることなら幼常にも、私と同じ夢を見、私を助けてほしかった……」
丞相の表情は、もはや取り乱してはいなかった。
「だが今となっては、詮無きこと。私にできることは、あの者が命を懸けて守ってくれたものをしっかりと受け止め、前に進むことだけだ」
常のごとく冷徹な眼で、はるか彼方の空を見据える丞相の高潔な姿に、私は思わずその場に拝跪した。
この方は、蜀漢にあって、常に独りそびえる巨人だった。
ことに先帝が崩御されてからは、内治外交のすべてをその双肩に担ってこられたのだ。
その重責、その孤独を、誰が理解しえただろう?

――丞相の重荷の万分の一でも、私に担うことができれば。その孤独をほんの少しでも癒してさしあげることができるのならば。我が身など何で惜しかろう。
「丞相。どうか私に、丞相の夢を継がせてください!」
私は憑かれたように叫んでいた。
「私が蜀に降ったあの日、丞相は、自分の夢を私に語りたいとおっしゃいました。この姜維、どこまで丞相のお力になれるか分かりませぬが、何としても丞相をお助けし、その夢をかなえる手助けをしたいのです。それが、馬謖どののただ一つの願いでもありましたから」
初めて――。
本当に馬謖の心がわかった。
かれに託されたものの大きさ、重さに、胸が震えた。
後から後から、涙があふれて止まらなかった。


私もまた、瑠璃の夢を見ているのだろうか。
先帝が残した見果てぬ夢。
丞相が託された大いなる夢。
その夢を、私が継ぐのだ。
馬謖が最後まで夢見た願い。
その願いを、私は引き受けたのだ。
どれほど身の程知らずな夢であろうと――。
誰にもそれを笑うことなどできぬはず。

私もまた、夢に殉じよう。
かつてこの国の多くの男たちがそうしてきたように。
最後の最後まで、決してあきらめぬ!
たとえ我が命尽きるとも、信ずる心は誰にも砕かせぬ!
私は、夢を継ぐ者なのだから。


長い時間、私は丞相とふたり、黙って夜空を見上げていた。
静寂の中、満天の星が降り注ぐようにまたたいている。
数刻前、天に昇ったあのひとの魂も、どこかで輝いているのだろうか。
馬謖――。
あなたの思いが、天地にしみわたっていくようだ。






🌌 完

千華・2021-08-16
三国志
姜維
馬謖
諸葛孔明
遥かなあなたへ
創作文


◆秋風五丈原◆



明日8月23日は、諸葛孔明の忌日です。蜀の建興12年8月23日(西暦234年10月5日)、享年54。
ただし、これは「三国志演義」によるもので、史実では「秋八月」とあるだけで正確な日は不明です。
もっとも旧暦ですから、とてもこの残暑厳しい現在の8月では、「秋風五丈原」の季節感とはかけ離れてしまっていますが…。
10月だったら、夜になれば風も冷え冷えとしているかもしれませんね。ましてや大陸の奥深く、黄土大地の秋ならば。

孔明さまは、何をおいても私の三国志の原点です。
小学生の時に柴田錬三郎氏のジュニア向け「三国志」を読んで以来、遥かにお慕いまいらせた諸葛孔明さま!! この方無くしては、今の私はなかったわけですから。
その後、姜維とか関羽とか趙雲とか関平とか、好きな人はたくさん増えましたけれど、今でもやっぱり孔明さまは別格(まあ、少々神棚の上の人になってしまわれた感はあるけど…笑)。

ところで、拙サイトでは姜維くんの話ばっかりなので、残念ながら孔明さまが主人公の話というのがありません。
もちろん姜維を語ろうとすると、諸葛孔明は絶対に避けては通れない重要な存在ですから、孔明さま率は決して低くはないのですが…。
なかなか彼を主役に据えて――となると、無駄に緊張してしまうというか;; (^^;)
まあ、それくらい、私にとって孔明さまは特別ということかな。
いつか、きちんとした孔明さまの話を書きたいなあ…と、ずっと思ってはいるのですけれどね。

これまで様々な作品に出会い、日々新しい孔明にめぐり会うたび、その魅力あふれる人物像に共感したり、感動を新たにしたりしつつ、やはり私の中にはしっかりとした「私だけの諸葛亮」がいるのですね。
物書きが好きな人というのは、多かれ少なかれ自分なりの世界を持っているのでしょう。
どんなに魅力的な人物造形だったとしても、やはり既成の小説では飽き足りないから、自分の言葉で、自分の世界を語りたいと思ってしまうのです。
たとえ二次創作であっても、そこには借り物ではない「自分の世界」がちゃんとあるのですから。

…えらそーなことを言ってすみません。
妄想オバサンのたわ言でございますm(__)m



🔸

千華・2020-08-22
歴史語り
三国志
諸葛孔明
秋風五丈原
遥かなあなたへ
千華のトリセツ
万年妄想乙女
墓碑銘


「夢を継ぐ者」 ー姜維と馬謖ー

〈2〉





――なぜだ?

(あなたはあのとき、丞相の言葉にあれほど真剣にうなずいていたではないか。命がけで任務を全うすると誓ったではないか)
全軍があわただしく撤退の準備に追われる中、丞相とふたり、黙々と軍関係の書簡を燃やしながら、私は腹立たしくてならなかった。
馬謖の失態は、丞相に対する裏切りではないか。

黙って炎を見つめていた丞相が、急に私の方を振り向いた。
「私は今、どんな顔をしている?」
「は?」
いつもと変わらぬ冷徹な軍師の顔だ。
唐突な問いに戸惑いながらも、私がそう答えると、丞相は深いため息をつき、寂しげな微笑を浮かべた。
「以前は、幼常によく同じことを聞いたものだ。先帝に諫言したとき、戦に行き詰まったとき、先帝が亡くなられたときも……。
それに対する幼常の答えは、いつも決まって同じだった。――哀しくとも、悩みが深くとも、丞相は常に、常のままでいらせられませ、と。その言葉に支えられて、ここまできた」
炎が揺れ、丞相の顔に刻まれた陰影も静かに揺らめく。
その明暗の中で、丞相の双眸は、澄んだ泉のように静謐だった。

「今はもう、泣きたくても涙が出ぬのだ」
「丞相……」
(このお方は、泣きたいときに泣くこともできないのか――)
私の中に、突然、自分でもどうしようもない激情がせき上げてきた。
「丞相! 私なら……、丞相に好きなだけお泣きくださいと答えまする!」
きっと、少年のような顔をしていたのだろう。
丞相は、温かいまなざしで私を見つめ、やわらかく笑った。
「伯約は、優しいのだな」
「………」
「その気持ちだけを受け取っておこう。わかっておるのだ。私が泣いていては、皆が困るであろう。それに、泣く暇があるのなら、次の手を考えねばならぬ」


◇◆◇


撤退。
将士も兵たちも一言も発せず、重苦しい空気の中、私たちは漢中へ引き上げた。
蜀の桟道と呼ばれる険しい道だ。私にとっては、初めて辿る蜀への道だった。
唯一生き残った五虎大将のひとり趙雲将軍とともに、私は志願して殿軍(しんがり)を務めた。
それが、丞相のために、今自分ができる唯一のことだと思えたのだ。
追撃してくる魏軍を相手に、幾たびか死線をくぐりながら、しかし私はこの戦を楽しんでいた。
皆に軍神とたたえられる趙雲将軍を間近に、ともに戦うことができたのだから。
将軍はもうすでに六十歳を超えていたが、戦場ではまったく老いを感じさせない見事な戦いぶりで、常に敵味方の双方を圧倒した。

「趙将軍――」
秦嶺山脈を越え、ようやく一息ついた夜営でのひととき、隣に座った趙雲将軍に、私はおずおずと声をかけた。
「将軍は、馬謖参軍をよくご存じでしたか?」
「それほど親しかったわけではないが……」
厳しい武人の顔を崩さず、将軍は遠くの稜線へと視線を投げた。
「奇をてらうところがあったやもしれぬな。時にはじけるような才を見せたが、裏付けとなるものが少ないように思われた。しかしそれも、白眉とたたえられた兄馬良どのを越えたい一心だったかもしれぬ」


馬謖には五人の兄弟がおり、皆字(あざな)に常の文字がついていた。
五人とも秀才の誉れ高かったが、中でも馬良の才が一頭地を抜いていたという。
丞相とは荊州以来の刎頚の友であり、その信任も厚かったというが、その馬良はもうこの世にはいない。
先帝が呉に出兵し、大敗を喫した夷陵の戦いに、かれもまた帰らぬ人となっていたのだ。
馬謖は、どうあがいても自分が兄に遠く及ばないことを知っていたのだろう。
それゆえに、奇をてらい、弁舌を巧みにして、自分を大きく見せようとしたのかもしれない。

「馬謖は馬謖で、何とかして丞相の役に立ちたいと願っていたのだろう」
「しかし、私は許せません! 今回のことは……」
焚き火の炎に照らされた趙雲の横顔に、暗い翳がさした。
「姜維どの。ご辺は、人に期待されることのつらさを知っておるか?」

期待されることの、つらさ――?

私には、趙雲将軍の言葉の意味がわからなかった。
期待され、信頼を寄せられることは、誇らしく喜ばしいことではないのか。
今まで、ずっとそう思って戦ってきた。
少しでも、人から期待され、信頼を寄せられる男になりたい、と。

では、私がもし馬謖だったら?
何としても丞相の期待に応えたいと思う。応えなければ、と焦ったかもしれない。
万一その期待を裏切ってしまったとしたら、どれほどわが身を呪い苛むことだろう。
それが、将軍の言う「つらさ」なのか……?


「丞相は、馬良どのの才は高くかっておられたが、気持ちとしては、むしろ兄上よりも馬謖の方を愛しておられたようだ。馬謖とて、むろんそのことはわかっていたはず。それゆえ、期待に応えたいという思いは、人一倍強かったのではあるまいか」
そこまで言ってから、将軍は空を仰いだ。
風もなく、静かな夜だった。中天にかかる銀河が降るようだ。
おそらく趙雲将軍も、これまでずっとその重圧に耐えてきたにちがいない。
先帝の、あるいは諸葛丞相の、さらにはすべての蜀軍将兵の期待と信頼を一身に受けてきたかれには、馬謖の心が手にとるようにわかったのだろう。

「今、誰よりもつらく惨めな思いをしているのは、きっと馬謖だと思う。生きておればの話だが」
いつの間にか、火が小さくなり、消えかけている。私はあわてて薪を継ぎ足した。
「これからは、ご辺がそのつらさに耐えねばならぬ番だ」
「………」
「馬謖に替わって、これからはお主が丞相を支えてさしあげてくれ」
将軍の分厚く大きな手が、私の肩をぽんと叩いた。
その手の温もりが、胸の奥深いところまで沁み込んでいく――。
「はい。姜維伯約、この命にかえて必ず――!」
将軍の顔を真正面から見据えた私は、自分でも驚くほどの声で答えていた。





🌌 続く

千華・2021-08-16
三国志
姜維
馬謖
諸葛孔明
遥かなあなたへ
創作文


◇◆風を待つ◆◇





あ、風が変わった――。



頬を撫ぜる風が
ふいに冷気を帯びたように感じられ
私は空を見上げた

雨が降るかもしれませんわ。
早く片付けて、家に戻りましょうか。

畑仕事の手を止めて
妻がつぶやく

屈託のないその笑顔にひきこまれるように
私も明るく微笑み返す



緑したたる初夏の午後
草の匂いのする 少し湿った風は
雨が近いことを告げている

この風のように
いつか 私の世界も変わるのだろうか



遠い昔
無邪気に思い描いた夢は
いつしか現実の理不尽さに打ちのめされ

それでも
いつかはと 胸の奥深くたたみ込んだ大志

その焔は熱く激しく
今も我が身のうちにくすぶっている



いつまでも
この隆中の片田舎で 愛する妻とふたり
穏やかに 静かに暮らしていたい

そう願う心のどこかで
何かを待ちこがれる気持ちが動く



それは風なのか
あるいは嵐なのか

いっそ この身を滅ぼす嵐をこそ
私は望んでいるのかもしれない



道は、まだ見えぬ――。



私はひとり
時を待つ臥龍







◇◆◇


未だ劉備に見出される前の、隆中に晴耕雨読していた頃の諸葛孔明の心境が、何となく新緑の今の時期に似合うかも…と思って書いた詩です。
劉備に出会うまでの孔明は、どんな思いで毎日を送っていたのでしょうか。
胸の中にあふれるほどのたぎり立つ「思い」を抱えながら、じっと風を待つ臥龍。
そんな夫を、温かく見守る妻。
やがて訪れる天の時が、二人の運命を大きく変えていくことになるのですが…。
このときはまだ、ちょっと青くて優しい時間が、ゆっくりと過ぎていたのだと思いたいですね。


🐉

千華・2021-05-11
三国志
諸葛孔明
遥かなあなたへ
昔の詩
雲が竜っぽいな…って


「夢を継ぐ者」 ー姜維と馬謖ー

〈3〉





蜀軍が漢中へ撤退してから半月ばかりたったある日。
夜も更けた頃、人目をはばかるように姜維の館の門をほとほとと叩く男の影があった。
「あなたは!」
「姜維どの、笑ってくれ。私は死ぬために、ここに戻ってきたのだ」
乞食のような身なりで、すっかり面変わりしていたが、それはまさしく馬謖幼常そのひとだった。
「生きて……おられたのですね」
「死ぬ前に、どうしてもお主と話がしたかった」
「馬謖どの――」
姜維は穏やかな眼で微笑した。
「それがどのような話であれ、私を相手に選んでくださったことをうれしく思います」

姜維は、急いで馬謖を邸内に招き入れると、家人に命じて湯をわかし、何よりもまず、逃避行に疲れきった馬謖の身体を癒させた。
馬謖を抱えるようにして湯殿に入ったかれは自ら垢と埃に汚れた体躯を洗い清めた。
「姜維どの、何を――?」
「遠慮はいりません。ご自分の家だと思ってください」
痩せた身体のあちこちに、生々しい傷痕が残っている。
主も客も、何も問わず、何も答えず……。
そのひとつひとつをなぞるように拭いながら、いつしか姜維は声を殺して泣いていた。

「――お主は、泣いてくれるのか? この愚かな男のために」
「私は悔しくてなりません。なぜあなたが、あのような誤りを犯したのか。丞相の志を、またその思いを、誰よりもよく承知しているはずのあなたが……」
「俺にも分からぬ。気がついたら、すべて終わっていたのだ」
あの戦場からどうやって逃げることができたのか。それすら馬謖は、さだかには覚えていない。
自分を逃がすために、何人の部下が犠牲になったのだろう?
混乱した意識の中で、ただひとつ、はっきりと分かっていることがあった。
何としても生きて漢中に、孔明のもとに帰ること。
そして、己の死をもって敗戦の責を償わねばならぬということ。
それだけだった。


◇◆◇


「今宵は、お主と語り明かしたい」
馬謖は、立っていることもできないほどに疲労困憊していたが、決して眠るとは言わなかった。
かつて、しばしば丞相と夜を徹して議論したという昔日のままに、その夜のかれは饒舌だった。
兄馬良のこと、家族のこと、先帝の思い出、丞相と過ごした日々。そして、今はもう砕け散ってしまった遠い夢――。

「私はうぬぼれていたのだな。丞相の描く夢を、私もともに見ることができると思っていた。先帝から託された大いなる志を現実のものとする、私もその一助になれるかと。だがそれは、とんでもない思い上がりだった。……私は兄にはなれぬ」
「馬良どのですか?」
「どれほど努力しても、私は兄には及ばない。どんな難しい役目でも、兄は軽々とこなしたものだ。丞相の期待にいつも見事に応えてみせた。私もそうなりたかった。いつかなれると思っていた……。だが、私は兄とは違う。違うのだ!」
馬謖の眼に涙がにじんだ。

後悔と、慙愧と、怒り、悲しみ――。
抑えきれない感情が次々にあふれ出て、やつれた頬を濡らしていく。
「兄上の替わりとしてではなく、馬謖幼常としての自分を丞相に見てもらいたいと、私はいつもそう願ってきたような気がする――」
馬謖が兄に対してどのような感情を抱いていたか、他人である私にわかるはずもない。
だが、かれはおそらくずっと、魂の奥底に隠すようにして抱え続けてきたのだろう。言葉にできない葛藤、憧憬と嫉妬、挫折や痛みといったものを。


「お主を初めて見たとき、私は兄が戻ってきたのかと思ったぞ」
「どういうことです?」
「お主のその眼、兄上にそっくりだった」
蜀軍の司令部で初めて会ったとき、馬謖は一瞬絶句し、いぶかしげに私の顔を見つめていた。あのときは、なぜかれがそんな表情をしたのかわからなかったが。
「お主の眼を見て、私は納得したよ。なぜ丞相が、我が後継者を得たと言われたのか。やっと丞相は見つけられたのだ。兄に替わって、同じ夢、同じ志を語れる人物を。姜維伯約という男をな」
「馬謖どの……」
「これからは、お主が丞相を支えてくれればいい。それで、私は心置きなく死ぬことができる」

兄に替わって、と馬謖は言った。
なぜ、自分に替わって、と言わないのか?
兄馬良とは、そして私という存在は、かれにとってそれほど大きなものだったのか?
その時初めて、私は馬謖の中の深い闇を見たような気がした。
「もしや、あなたが街亭で策を誤ったのは、私のせいではありませんか?」
「………」


◇◆◇


あのとき。
確かに俺は、自分でもわからなかった。
なぜ、丞相の指示通り、街道に陣を張らなかったのか?
なぜ、一気に敵を殲滅しようなどと、大それたことを考えたのか?

――勝ちたかった、丞相のために。
はたして、それだけか?
見事な勝利をおさめて、丞相の賛辞を得たかったのではないのか。
やはり私の後継者はお前しかいないと、そう言ってもらいたかったのだ。

怯えていたのか、俺は――?
丞相の関心が、姜維伯約という若い武将に移ることを。
新参者のかれに、兄と同じ眼をしたあの男に、負けるわけにはいかなかった。
だから……?


◇◆◇


「――いや。お主のせいなどではない。それに、たとえお主の存在が私の心に何らかの影響を与えていたとしても、それは、私自身の問題だ」
馬謖は、口元に自嘲めいた笑みを浮かべると、遠い眼をした。
何のよどみもない、哀しいくらい静かなまなざしだった。
「だからこそ、私自身の手で、その始末をつけねばならん」
馬謖の笑顔は透き通るようだった。
「あなたは、死ぬためにここに戻ってこられたのですね」
「それが、丞相のために、今の私にできる唯一のことだと思っている」

国家の命運を賭けた戦に失敗したのだ。
宮廷はもとより家臣から民衆に至るまで、負担が大きかっただけに、敗戦による落胆もまた計り知れない。
今ここで、誰かがすべての責を負わなければ、いずれその不満は諸葛丞相に向けられるだろう。

――だから、あなたがその贄(にえ)になるというのか!

「何を言っても、言い訳にしかならぬ。私はもう、誰にも何も語るつもりはない。ただ、お主にだけは聞いておいてほしかったのだ。私のわがままだと笑ってくれていい」

馬謖の言葉を耳にしたとき、私の中で震えるものがあった。
――何を言っても……。
(それは、あの日の私の思いだ。諸葛孔明という運命のひとに出会い、魏を捨てて蜀に降ると決意したあのときの)
ああ、そうなのだ。
(あなたは、一言の申し開きをすることなく、逝かれるのですね。運命がどのように過酷なものであろうと、黙ってそれを受け入れられるのですね。……それでは、もう、私にできることは何もない――)




🌌 続く

千華・2021-08-16
三国志
姜維
馬謖
諸葛孔明
遥かなあなたへ
創作文


◆「出師表」 ちょこっと解説◆



「出師表」(すいしのひょう)とは、臣下が出陣する際に君主に奉る文書のことで、歴史上、三国時代蜀の丞相だった諸葛亮が、皇帝劉禅に奏上したものがよく知られています。
特に、最初の北伐に際して出された「前出師表」は名文中の名文とされ、古来、「諸葛亮の出師表を読んで涙を堕さない者は、その人必ず不忠である」と言われるほどでした。

ところで、私が「姜維と香蓮」の中で書いた「後出師表」は、これとは別の、二度目の北伐の際に出されたものだとされているのですが…。🤔
実は、この「後出師表」については、古くから諸葛亮の作ではない偽書とする説があり、現在でもはっきりとした結論は出ていません。

表の中で述べられていることが、歴史上の事実と異なっていたり、この表自体が正史三国志に出てこないことなども、偽書説の根拠とされてきました。
確かに、その内容を見ても、出陣に際して味方を鼓舞するにはあまりに悲壮に過ぎる感じがして、後世の人がその後の経緯を知った上で創作したものと考えた方が納得がいきますね。

そんな点を踏まえて、拙作の中では、「後出師表」は正式に劉禅に奉られたのではなく、あくまでも諸葛亮の胸の内で、先帝劉備に捧げられたものと解釈させていただきました。
まあ、実際のところは分かりませんが(笑)

でも、私としては「臣は鞠躬尽力(きっきゅうじんりょく)し、死して後に已(や)む」という最後のくだりが大好きなのですよね。
「死ぬまで全力を尽くして、蜀という国家に仕える」
これこそが諸葛亮、そしてその後を継いだ姜維の凄絶な生き様を、如実に語っていると思えてならないのです。




千華・2020-10-15
歴史語り
姜維と香蓮
三国志
諸葛孔明
遥かなあなたへ

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