ああ!
神様僕は気づいてしまった。
驚天動地の急転回だ。
たとえば、こんな話だ。
━━━テニスをしているのは誰と誰?
これは、ふつうに考えたら、
プレイヤーAとプレイヤーB、
あなたとわたし、
サトウさんとスズキさん。
こんなふうに、
ふたりの人間、
という答えしか
ふつうは
ありえないのだが、、、、、、
しかし、
とつぜん閃いてしまったのだ。
それは、、、、、、
まったく別の見方、
それは。
打つほうと、打たれるほう!!
え、
意味わかる??
ボールを打つほうと打たれるほうだ。
サーブを打つほうと打たれるほう、
ラリーを打つほうと打たれるほう。
誰と誰、というとき
ふつうは、ふたりの人間、
人間2体という見方しか
考えつかないはずだが。
たったふたりしかいない、
しかし一対のペアでもある
『誰と誰』を、
べつに
人間(の肉体、個体)に紐付けしなくても
記述可能じゃないか!!
つまり、
テニスの試合中、
打つほうと打たれるほうは
目まぐるしく入れ替わるわけだが、
試合が進行しているかぎりは、
それぞれの瞬間において、
どちらかが
かならず
打つほうで、
どちらかが
かならず
打たれるほう。
なわけですよ!!
『打つほう』がいるかぎり、
『打たれるほう』もかならずいる。
そして、
どちらもいないときは
試合も止まっている。
わかるかな??
なんて唐突すぎる発見!!
もう少し抽象的な表現に置き換えると
ふたりのプレイヤーは電極みたいなもので、
それぞれが
プラス極になったり
マイナス極になったり。
いま、どちらの状態にあるかが、
目まぐるしく入れ替わっていく
かのように見えるのは、
電極/プレイヤーに注目しているからで、
しかし、
引いた目線で、客観的に見てみれば、
常に安定して、
『プラス極とマイナス極が存在している』
わけだ。
すなわち、
テニスをしているふたりは、かならず、
『打つほうと打たれるほう』!!
そして、
もちろんこれはテニスでなくても
球技全般、格闘技全般、ゲーム全般。
1対1で競うゲームなら何でも当てはまる。
いやぁね、
わたしとしては、じつは、
ゲームについて語りたいのではなくて。
相互作用が継続的に行われている場所においては、
人間という肉体、個体とは別の位置に、
(それも上位次元、高次元の位置に)
客観性を持った別の存在がたしかに出現する、
ということ。
このことについて
わりと正確に記述できる方法を、
きょう、突然、
発見してしまったので、驚いた。
この考え方(??)は、
いろいろなジャンルに応用が効くし、
とくに、高次元の、いわゆる目に見えない世界について『まるで見えているかのように』記述できるのがとても良い。
※蛇足ながら付け加えると、
被害と加害は、同じものだからね!!
殴るほう(プラス極)と
殴られるほう(マイナス極)は
双方が同時に出現する。
被害者は善、加害者は悪。
という絶対前提に基づく
善悪二元論は、
地球人の幼稚な自作自演だから。
言い換えれば
みんなが善人になりたがるから、
同じだけ悪人が出現するんだよ!!
なので、、
すくなくとも善悪二元論から
脱却できていないと、
この理論は使えないのだが。
しかし、
わたし自身は
善悪二元論どころか
人間である、というこの世の現実からさえ
脱却したいと願っているのだ。
人間である、
個体である、
肉体である、
女体である、
という制約から抜け出すための思考方法を、ついにいま見つけてしまったので、本気で研究に乗り出すつもりだ。
たとぇばね、
恋愛というのは
(低次においては)
ただの性欲だったり寂しさだったりするけど、
同時に
(高次においては)
この世から抜けだす脱出口にも、
なったりするんだぜ!?
たとえば、
こんなふうに━━━━。
相思相愛のふたりがいて、
愛し合っていました。
そのとき、
別の(高次の)客観性においては、
『愛するほう』(プラス極)と
『愛されるほう』(マイナス極)が
たしかに出現していて。
人間としてのふたりは
双方の役割を
目まぐるしく行ったり来たりしながら
両方を演じる。
行ったり来たりする速度が
早ければ早いほど
(人間としての)ふたりともが
『愛するほう』
『愛されるほう』
双方を常時、演じていることになり。
2種類ある『同じ役柄』を
ふたりで同時に演じ続けていれば、
ある意味、
ほとんど同一人物みたいに
なってしまうから。
そしたら、
テレパシーくらいはふつうに使えるだろうね。
だけでなく、
通常、目には見えないものを
ふつうに見えるようにも、なるよ!