あの日3・11
俺は当事者だった
被災者だった
地震を体感した
目の前で
津波が起こった
ずっと見られなかった
客観的な映像
ずっと撮りためてきた
録画してきたあの日の映像
今日、見た
偶然
俺の故郷の映像だった
知った風景が変わってく様子が
客観的に記憶に呼びかけた
途中で断念した
苦しくなった
汗が流れた
涙が出た
震えが止まらなかった
今年の3月辺り
俺は俺の記憶について
ひとつずつ書いてた
でも途中でやめてしまった
どうしてだと思う?
ここで、見たから。
あまりに幼稚な
津波を題材にした小説を見たから。
よく調べもしないで
俺たちの悲しみも苦しみも
理解しようともしないで
ただ幼稚な考えで
津波を想像で書いて
人が飲まれていく様も
知らないくせに
調べもしないで書いてた
涙を誘うような
言葉ばかり並べて書いてた
何が「悲しい」だろう
何が「辛い」だろう
何が「涙」なんだろう
そんなもんじゃないんだよ
今も思い出せば涙が流れるし
今も苦しみが押し寄せる
あの凄惨な現場
創作物にするのは構わない
でも最低限のことは
調べて欲しい
それが現実に起こった災害を
題材にする者の義務だと俺は思う
少なくても俺は
その凶器のような「小説」を読んで
すごく傷付いた
今も思い出すと苦しい
悔しかった
あんなに
軽く考えて欲しくなかった
あの津波で
両親共に死に、友人も亡くした
そういう人もいる
創作家の人には考えて欲しい
災害を題材にするなら
現実を描いて欲しい
その悲しみを
風化させない為に
現実を書く力を備えて欲しい