闇夜・2023-05-06
小説リハビリ
この世界は残酷らしい
約束
「…こちらマーメイド1ごう、いじょうなしです、どーぞ」
ざざッと入り込むノイズとマイクに近すぎる大声に了解と返事する。
ゆうちゃんは某夢の国が好きで、自らをマーメイドと称している。マーメイド2号はトイザらス出身の青いトリケラトプス。俺はというと、
「もー、ちゃんとおへんじして、どーぞ」
「…セバスチャン、了解」
人語を解するカニである。
ゆうちゃんがほしいとねだるのでトランシーバーのおもちゃを購入したはいいものの、毎日のように公園に行って探偵ごっこをするのにも飽きてきた。
いまごろママは何してるんだろうと考える。腕時計の短針は11と12のあいだで居心地悪そうにしている。空腹で胃が熱い。風とも言えない砂っぽい空気が鼻にまとわる。今日も花粉がやばいらしい。
「セバスチャン!」
無言だったトランシーバーから声が飛び出した。顔をあげるとゆうちゃんがいない。
トランシーバーの向こうに呼びかけるが、ノイズにかき消されてしまったようだった。
公園の外に出ていないことを願いつつ、砂場やブランコのまわりを確認するが見当たらない。もういちどトランシーバーに声をかける。
「もしもしゆうちゃん、どこにいるの?近くになにがある?」
「…常に目で追っててって何度言えばわかるの?馬鹿じゃないの?」
耳を疑った。ママの声だ。
俺は言葉を失って公園の真ん中で棒立ちになってしまった。知らない子どもとばっちり目が合ってしまって気まずい。
「ゆうちゃん、じゃなくってマーメイド1号は自販機の横にいるから。さっさと帰ってきなさい」
公園が遊具ごとぼやけた。その摩訶不思議さになんの驚きもなかったことが、自然のようにさえ思えた。
マーメイド1号はおなかがすいたので自力での帰宅を試みたことを白状した。セバスチャンは置いていかれて悲しいです。泣き真似をしたらマーメイドはなぐさめてくれた。
帰り道、パン屋で食パンとアンパンを買った。家に着くころには両者ともゆうちゃんの強い抱擁によって真っ平らになっているだろう。
ママは去年の春に交通事故に遭って亡くなった。居眠り運転の餌食となってそのまま帰ってこなかった。
助けを求める声で目が覚める夜はあと何回あるだろうと嘆息してしまう。俺の脳は都合の悪いことばかり覚えていやがる。
ゆうちゃんがパンを放り出して手洗いうがいをしている隙に、木枠のなかでぎこちない笑みを見せるママと向かいあう。
もう声は聞けないのかな。
という言葉がのどにつっかえる。
欲深いねと笑われた気がして背中を丸めた。
愛情ってやつがこんな数十センチの四辺に収まるはずがなかった。
ダイニングテーブルに置いたトランシーバーが、ざざ、と唸った。
そういえばママは空気を読むのがうまかったなと思い当たってしまって心臓が主張を増していく。
正座で痺れた足を叱りつつそれをひっつかむと、かすかに声らしきものが耳に届いた。
「…合言葉は?」
なにそれ知らない。
声に感情こそこもっていないが確実にママだ。
困惑する俺の足元でゆうちゃんはちいさな手を日光にかざしながら寝転んでいる。
思いだした。結婚してすぐのころ、帰ったときに玄関前で毎日言ってたやつだ。
無言を貫くトランシーバーを口元に持ち直し、はっきりと声にした。許してくれという期待も込めて。
「…認証。」
今度は俺から尋ねる。
「…こちらセバスチャン。応答願います。どうぞ」
しばしの沈黙は、永遠だったものとなったのだ。
…こちら、マーメイド3号。
約束は果たされた。
仕事帰りは歩道橋を通る。職質を受けるためではなく、いっとき死ぬために。すっかり禿げ上がった笑えないおじさんズのために無糖ヨーグルトのような残業をしたその帰路である。富士山にもハワイにも行ったことがない人間にとって、徒歩で行けるいちばん高いところとは歩道橋のまんなかにほかならない。アスファルトを滑る鉄塊どもを見下ろして、ふと呼吸をやめる瞬間に空は人間を突き放す。自我の捨て方は簡単だ。
口癖カウントを大人になってからするとは思わなかった。その時間があれば、コンビニに涼みに行くことも、昔攻略したゲームの小ネタを思い出すこともできた。「であります。」これで二桁に突入。煙草を吸うようになったのは喫煙室に避難するためで、手が勝手に煙草を持つ形になっているのも仕様だ。退職したらやめよう。煙草も愛想笑いも、緑の変なドリンクも。
いらない、と言われた。前方を歩いていた女性の落としたチケットらしきものを拾い上げ、声をかけた次の1秒だった。はあ、と考えなしに口から漏れた。女性は、いらなくなったから捨てたのと言い捨てて去った。右上の角が折れたそれを裏返すと、どなたかのトークイベントのチケットだった。どっと肩が重くなるのを感じた。捨てるのはもったいないと思う思考回路はきっと、社会が我々に並縫いで縫いつけているのだ。そうにちがいない。
言ってしまうと、トークイベントは苦手だった。いまはっきりわかった。観客は満員御礼とはとても言い難い間隔で座り、知らない芸人がひたすら口を動かすという奇妙な2時間だった。よく話がもったもんだと感心さえした。ウケていないと察した芸人の苦い顔を忘れてはならないと思う。チケットを捨てた女性はこのイベントになにを期待し、そしてなにを諦めたのだろう。トークそっちのけでそんなことばかり考えてしまった。悪い癖だ。自分のことは棚に上げて、誰かの秘密をあばくために生きている。
「でも俺は悪くないはずなんですよ…」
所詮は色恋と思ってはいけない。山崎は窮地に立たされている。崖っぷちであおる酒など味がしないだろうに、山崎は中ジョッキのおかわりと塩辛を注文した。キッスが不足してて口が寂しいのか?とからかうと、山崎は眉間にしわを寄せて「いいですよね先輩は」と最後の餃子を遠慮なく口にほうった。そもそも山崎ほどのいい男を手に入れたカノジョが浮気なんてするはずがないと入店前から再三説いている。
「おれ帰るところないんすよ」
上司ズの命令を適度にかわしつつ、それっぽい完成度の仕事ができる社員は多くない。「でも先輩ん家って布団なさそうだなあ」
しかし我ながら親身に寄り添っている。これこそあるべき先輩の姿だろう。
「あの、終電なくなっちゃいましたよ」
山崎を見やると、へらっと笑って嘘ですよと言った。まだ10時前。いつものまなざしをした彼は、伝票を迷わずこちらに突き出した。
家に帰る。この憂鬱さはとても耐えられたものではない。なにかの法に引っかかっているんじゃないかと思うほど薄い玄関ドアを開け、こちらを冷ややかに射抜くのは暗闇である。シンクの角も光ってはくれない。掃除してないから。正方形に近い居間には正座して食事をするローテーブル。こちらも同様、掃除してない。床にしいているカーペットをめくりたくないという気持ちも、あと一年ほどで断ち切らなければならない。事故物件にしないことがなによりの思いやりだろう、などと思っている節がある。そんなんだから水道を止められるのだ。
家に帰る。なにかを思いだすために。