小説
彼が彼でなくなる前に、
私は彼を殺めなければならなかった。
音楽。
それは、私にとって唯一の救いだった。
両親に捨てられ、
兄が自殺し、
そんな環境の中で、
音楽は光を与えてくれた。
ジャンルは問わない。
アーティストも誰でもいい。
綺麗事しか歌われない音楽が、
汚い世界の声を掻き消してくれた。
そして、私は彼に出会った。
たまたま、イヤホンから流れた音楽は、
大きく私の心を動かした。
なんて素敵な音楽だろう。
これが、これこそが音楽だと思った。
歌詞、リズム、歌声。
全てが完璧だった。
_染野悠真。
天才、と呼ぶには、
少々オリジナリティに欠けるほど、
当時、既に彼は有名だった。
それから三ヶ月。
奇跡は唐突に訪れる。
その頃、私は彼に憧れて、
自分でも作曲活動に取り組んでいた。
ネットにアップし、
評価ももらっている。
そのコメント欄に、
彼からのコメントが届いていた。
君の音楽は素敵だ。
話してみたい。
本人だと、何故か確証した。
雰囲気だろうか。
言葉の使い方だろうか。
待ち合わせは、
そこそこ有名な公園。
三日後に、
私は彼に出会った。
「初めまして」
私は、かすれた声で言う。
素直に緊張していた。
嗚呼、憧れの人が目の前にいる。
私は浮かれていた。
「初めまして。染野悠真です」
知ってます。貴方の大ファンです。
そんなことは言えず、
私も名乗った。
後から気づいたが、
彼が私の名前を呼んでくれることは、
生涯一度もなかった。
しばらくその公園で、
自分等の音楽を語り合った。
幸せと呼ぶには足りないくらいの、
それはそれは素晴らしい時間だった。
汚い世界が、
彼のとなりにいるときだけ、
宝石のように輝きを放っていた。
一ヶ月も経つと、
彼の家に入ることも少なくなかった。
いや、待ち合わせはほとんど彼の家へとなった。
私たちの間には、
六つの年の差があった。
でも彼は、それを感じさせないくらい、
親切に話してくれた。
次第に、憧れは淡い恋心へと変化していった。
奇跡は唐突に訪れた。
ならば、
地獄へ落ちるのも一瞬なのだ。
染野悠真は、
音楽の世界から消えた。
音楽番組のオファーは全て断り、
ギターも、マイクも。
イヤホンすら見せることがなくなった。
スランプ。
彼にとって初めての挫折。
彼はだんだんと壊れ始めた。
天才だと謳われた。
神の声だと叫ばれた。
それが、彼にとってどれ程のプレッシャーだったのだろうか。
かける言葉が思い付かなかった。
「染野さん、大丈夫です。
必ずまた歌えます。
諦めなければ、必ず歌えます」
そんな言葉は、もう、彼の耳には届かなかった。
少しして、彼はやっと一曲作り上げた。
一番に、私は聴いた。
最悪だった。
染野悠真は、そこにはいなかった。
天才だと謳われた染野悠真は、
何者でもなくなった。
「これを、世に出すわけにはいかないよな」
彼は絶望的な声で言った。
私は何も言えなかった。
無言の肯定だった。
私の憧れた染野悠真はもういない。
では、私の好きな染野悠真は?
その答えは、私には出なかった。
彼は苦しみの中でも、
曲を作っていた。
私は、
それを聴けば聴くほど、
絶望間に晒された。
吐き気がする程だった。
彼はついに、私に言った。
「僕は、もう僕じゃないよ」
私は黙った。
「君の憧れた音楽家は、もういない」
出ていけ。
そういわれた気がした。
彼は音楽をやめるつもりなのだ。
「どうして!まだかけます!
貴方なら、まだ作れます!」
「無理だよ」
「駄目なんです」
「何がだよ」
「貴方が染野悠真でないと、
私は生きていけないんです」
涙が出た。
わがままな言葉だ。
「でも、このまま続けたって、
僕は染野悠真には戻れない」
「まだ、まだ…」
「じゃあ、僕を終わらせれば?」
今、ここで。
何を言ってるのか、理解できなかった。
「まだ今なら、僕は染野悠真だ。
ほら、僕が染野悠真であるうちに、
僕が僕であるうちに」
何を言っているの?
貴方は、私に愛する人を殺めろと言っているの?
「早く」
彼は、ポケットからカッターナイフを取り出した。
そんなものをもっていたのか。
「僕を今終わらせば、
そして、君も終われば、
君はずっと染野悠真と一緒だ」
心中。
そうか。
そうすればいいのか。
彼を殺めて、
私も死ぬ。
私の心は、壊れかけていた。
いや、もう壊れていた。
私はカッターナイフを受け取る。
彼が彼でなくなる前に、
私は彼を殺めなければなかった。
彼を愛した人々のために。
私のために。
彼のために。
気がつけば、彼の白いシャツは赤く染まっていた。
「愛、してるよ」
最期に、彼は言った。
そんな言葉を言うなら、
私の名前を呼んでよ。
私に一瞬、痛みがはしる。
さよなら。
「私も愛してます」
それから一週間後、
染野悠真と、
独りの少女の冷たくなったからだが、
警察によって発見された_。
END