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#謳うよ、再生の詩

読んでると、
思わず胸がギュッとしめつけられる、
そんなポエムを集めました。

全7作品・

※長いので無理に読まないでね


      謳うよ、再生の詩

         1章



 幼い内は、居場所を決められ
 大きくなったら居場所を探せと言われる

 学校でも会社でも
 皆、自分の居場所探しに必死だ__

 隣で吊革に掴まってイヤホンで音楽を聴きながら時折大あくびしてるお兄さんだってそうだろう。
 僕の前の髪の綺麗な、OLかな、スーツ姿のお姉さんだってそうだろう。
 その横に座った風采の上がらない初老のおじさんだって。
 今いる居場所を維持しようと必死だったり、こうなりたいと思って目指してる居場所を追い求めてる人だってきっといるんだろうな… 当たり前か。

 僕の居場所は…

 電車と線路の隙間をふと想像してしまい、身震いする。
 轢死だと散らばった遺体をなんでもバケツで拾い集めたりするそうだ、ゾッとしない話だ。
 
「ん、ンガッ」
 少なからずビクッとして、あ、ああ、此処は電車の中で吊り革に掴まってて。僕は見ていた妄想から現実へと引き戻されたのだと知る。お姉さんの横に座った初老のおじさんの、いびき。
 気づけばじんわりとした汗をかいていて、冷静に思う。電車などの公共の乗り物で命を絶つような真似をしたら莫大な損害賠償を請求されるらしい。遺した家族に最期にそんな迷惑はかけれない。
 一回りサイズの大きいダボッとした濃いカーキ色の、もうかなりくたびれたウインドブレーカーのポケットに片手を突っ込み、指でコインを数える。小銭入れにしているサラダボウルから一掴みだけ、家を出る時に握ってきたお金だ。
 僕の全財産は、ここに入っていた。

 横に揺られ電車が停まる。

 ホームに降りて、縁までヨレヨレのくたびれたポケットに両手を突っ込むと、僕は電車の先頭の辺りまで行き、目を細めると、電車と線路の隙間を夢でも見るように、ただ何となく眺め続けていた。

 ___

 次の駅へと向かう発車のベルが鳴る。
 長いようで数分も経ってなかったであろう夢から揺り起こされた僕は、それを合図のようにして、ハッ! と前に一歩踏み出していた。

 その時___

「まぁ、バカな考えは止めとくこったな」
 背後から声を掛けられ片腕を掴まれていた。そのことよりも、考えを見透かされたことに慌て、振り返る。
 電車は遠ざかっていった。

 僕を止めた腕を離すと、片頬をポリポリ人差し指で掻き、手に古びたボストンバッグを携え、ニヤニヤ笑う色の浅黒い労働者風の年輩の男は続けて、
「腹が減ると人間ろくなことを考えないもんさ」
 そう言い終わると、カッカッカッカッと笑う口には前歯が一本申し訳なさそうに欠けている。
「どれ、これも何かの縁だ、どうだい一緒に飯でも食おうじゃないか、なに心配するな、勿論、俺の奢りだ」
「は?… い、いえ、これで失礼します」
 それを聞いた年輩の男は、やがてにんまり微笑むと、「そうか」とだけ言い、少し肩をすくめて僕の顔を見つめた後に
「そうか…  ま、、達者でな、その内良いこともあるだろうよ」
 そう言い残し、改札口の方へと行ってしまった。

「長門きゅ~~~ん」

 背後から気味の悪い声と共に抱きつかれる。
 いや、正確には片腕を僕の首に回して締め付ける形だ。
 いつだってこいつらは3人でつるんでる。
 背後の男はリーダー格の山嵜、取り囲むように立っている奴等は、コバンザメもどきの尾上に乗松。

「お小遣いくれる時間でちゅよねぇ」
 僕を締め付ける山嵜がほざく。

 後の2人は薄ら笑いを浮かべ、僕を挟むようにして駅のトイレへと連れ込んだ。
 僕にとっては運が悪いことにトイレには誰もいない。

「さて、と、、さっさと出せやコラァ!」
 右にいた乗松が僕のウインドブレーカーのポケットをまさぐる。

 チャリンチャリンと音を立てて、十円玉だの五円玉だのがいくつか濡れたタイルを転がる。

「え、マジ? こいつ。こんだけしか持ってねぇんだけど」財布が入っていないかカーゴパンツのポケットも乱暴に上から全部叩かれる。
 三百円程はあるかもしれないジャラ銭を握って、乗松が他の2人に見せつける。

「ふぅん、、家から金取ってこいつったよなぁ、んじゃあボコボコだな」
 背後の山嵜の声色が今までの赤子をあやすような言葉から、背筋が凍るような冷ややかなものへと変わる。

「と、言いたいとこだが、今日はこれで勘弁しといてやるよ」

「…え?」、意外な言葉に首を後ろに向けて、僕は図らずも安堵を込めて言ってしまう。

「今日は、その代わり、と言っちゃあなんだが」ククッと含み笑いが聴こえる。
 いきなり、山嵜は僕の右の耳朶を噛み、耳の穴に舌を入れ、レロレロと舐め回す。

「や、やめ!」耳を隠そうと首をそっちの方へ傾けて防ぐ。

「『僕ちゃん』が、どうあがいたところで」

「『身体は女』なんだってことを、な、ククク」

「俺とこいつらが優しく教えてやるよ」

「!」全身が総毛立つ。

 声にならない声で叫び、渾身の力でこの束縛から逃げようともがく。

「い、いや…ウッ」くしゃくしゃに丸めたハンカチを口に押し込められ、反対の手で口が塞がれる。
 山嵜の締め付ける力が更に強くなり、僕の両の腕を背後から閂に決めてしまう。
「やれ」
 2人に命令を下す。

 にやつきながら僕に寄ってくる2人。

 次に起こることを想像し、目を見開く。

「ウウウ…ウウウ」、懸命に僕は抗おうとする。

 ウインドブレーカーのチャックが、ゆっくりと降ろされていくジジ、ジジジッという音と、獲物を前にした獣達の荒い息が狭いトイレに籠る。

 チャックを外し終わると、尾上は舌なめずりしながら、僕のトレーナーとシャツを一気に首の近くまで捲り上げた。

「… プーッ、見ろよ、こいつ」、尾上が僕の胸の辺りを捲り上げた反対の手で指差して

「胸にサラシ巻いてやがるぜ」

 獣達は馬鹿にしたように一斉に嗤う。

 こいつらにだけは見せたくなかった涙が、思わず滴る。

 嗤うだけ嗤うと
「こいつは最初に俺が貰う」

「‼︎」

「お前らは、その後好きにしろ」

「へッ…わかったよ」、尾上が応え、乗松が薄ら笑いで頷く。

 山嵜が密室になる個室トイレまで僕を押していこうとする。

「ウウ…ウウウ…」
「誰にも聞こえやしねぇし、誰も来やしねぇよ、来たところでぶっ飛ばしゃいいだけだしな」、愉しげに嗤い、サラシの上から僕の胸を忙しなくまさぐりながら、それでも懸命に足で突っ張り抗う僕をジリジリと密室へと押しやっていく。

「今から『本物の男』の味ってやつがぁどんなもんなのか『女の僕ちゃん』のこの身体に嫌ってぇ程たっぷりと教えてやるからなぁ、ククク、いくら嫌だっつって泣き叫ぼうが止まんねぇけどな」

「まぁ、バカな考えは止めとくこったな」
 先程聞いた同じ台詞、同じ声に耳を疑い、目を開けた。

「なんだぁ、てめぇは」
 尾上が威嚇の声をあげる。

「…関係ねぇだろ、、、オッサン」
 僕を締め上げる手とまさぐる手を休めないで、首だけ入口の方向に向けた山嵜が低い声で静かに言う。

 山嵜は学校でもかなりの悪で通ってて、裏では何をやってるかわかったもんじゃないと評判のヤツだ。大抵のイキがったそこら辺にごまんといる不良とは一線を画す。喧嘩で負け知らず、キレたら何をするかわからない。親は893で金貸し、乗っ取り、売春、薬物にまで手を染めていると噂されていた。

「ありゃ、誰かと思えばさっきのボクか」

 その声に怪訝そうに
「お前ら、知り合いか?」
 尾上が少し驚いた表情で言う。

「(知ら…ない…)」
 声にならない声でそれだけ言うと、押し込められたハンカチの味が口一杯に広がる。と、その味が『本物の男』の味と被って想像して気持ち悪くなり、僕は咽せ返って、苦しさの余り涙が溢れ、吐きそうになった。

(3人相手で敵うわけない逃げて…逃げて…早く警察を)

 心の中で叫ぶ。警察が到着する間に、ここでケダモノどもにどんなに穢されようとも、この人を巻き添えにはしたくはなかった。

「捕まえてろ」
 山嵜が僕を乗松に向かって突き飛ばす。
 勢いで乗松と僕は抱き合うようにして膝をついた。僕を突き飛ばしたと同時に、その反動をバネにして山嵜は後ろ蹴りを繰り出していた。

「なッ⁉︎」

 正体不明のオッサンは山嵜の蹴り出した足裏を平然と片手で掴み、難なく蹴りを受け止めていた。

 目を見開く山嵜。
 恐らく今までに何人もの喧嘩相手の鳩尾に決めて屈服させてきた技だったんだろう。
(ざまぁ…)、声が出せないので内心で思う。乗松が気を取られている隙に僕はハンカチを指で摘まんで引っ張り出すと、喉の入り口にまで上がってきていた堪えていた物を一気に床に嘔吐した。

 オッサンは掴んだ足を上に勢いよく引き上げた。堪らず山嵜は軸にしていた右足を掬い取られ、強かに床のタイルに身体を打ちつける。オッサンに近づいた反対の右足で蹴飛ばそうと反撃に出る。が、それを予期していたかのように山嵜よりも早く、山嵜の右足の膝を踵と床のタイルで挟むように瞬時に勢いよく踏みつけた。

「グアッ!」
 膝関節の激痛に叫ぶ山嵜。

 追い討ちをかけるように、急所に瞬く間に蹴りが入った。男の大切な所を押さえたまま山嵜は呻き、動かなくなった。

 時間にして数十秒ほどの出来事と有り様に、尾上と乗松、それに僕を含めた三人は呆気に取られていた。

「こりゃ子孫は遺せないかもなぁ」、首をゆっくり左右に振ってポキポキ言わせながら
「あとのボクちゃん達2人もそうなりたいのかな、ん?」
 立ち上る凄みと怒気に、助けてもらっている筈の僕まで縮み上がる。

 その迫力に我に返った尾上と乗松は、大慌てで
「ひ、、ひぃぃいぃ」
「おおお、お、憶えてろよ」と、言い残し、山嵜の両脇を抱え引き摺ると、小走りで走り去った。

(おいおい、それ完全にやられキャラの、しかもクソ雑魚の台詞じゃん…)吐くだけ吐いてしまうと幾分冷静さを取り戻した僕は、そう言う僕だってやられキャラのクソ雑魚じゃん…と自嘲気味に苦笑いし、慌ててトイレから逃げていく背中を、乱れた衣服を元に戻すのも忘れ、冷たいタイルにへたりこんだまま、その有り様を見つめていた。

         ◆

 どこまでも突き抜けるような空、その高さ。
 そこに彩りを添えるかのような黄の対比に目を奪われ、歩を止めて物思いに耽った。

 凛とした晩秋の冷気の心地好さに、浸った。

 行き交う車や路傍の人達の雑踏が水を打ったように消える。

 色づいて街路のあちらこちらに散り積もった街路樹の銀杏の葉溜まりが、遠くなりかけた記憶を呼び覚ます。

 銀杏に雌雄があると教えてくれたのは父さんだった。
 落ちた実を姉と競うように我先に拾って、僕が一番と家族に自慢し、持ち帰った実を母さんが茶碗蒸しに入れたり、焼いてもらって食べたっけ。銀杏の実は素手で触っちゃダメ、かぶれるからと、拾う時には子供用の小さな軍手を嵌めてもらったっけな…

「睦月ぃ」
 聞き慣れた声に、どこまでも静かな深い海にゆったりと潜っているところを、いきなり海面に引っ張りあげられたかのように夢心地から醒め、振り返る。

 声の主は、もう僕の手を取り、横に並んで腕を組んでいた。

         ◆

 3LDKのマンションを、広いと思ったことは無かった。数年前までは。

 荷物を自室のベッドに置いてリビングへと向かう。
「あれ? さっきの美味しそうなスイーツの箱は? 私に買ってきてくれたんじゃないの?」

「あ、、あぁ、ごめん、食べちゃった、あれ空箱」

「なぁんだ、つまんないの、、あ、コンビニ寄ったから、睦月も食べよ」

「睦月さぁ、、? なんか顔、青いよね?」

 手を合わせる僕の背後に置いてあるソファーに寝転びながら姉の弥生が言う。父と母はそんな僕達に、いつもと変わらず微笑んでいた。

 預貯金ゼロ
 資産無し
 親戚等からの援助が受けれない
 贅沢品とみなされるものは所有できない

 生活保護を支給してもらうためのハードルは高い。マンションのローン、共益費、固定資産税、駐車場代、食費、光熱費、学費、、etc.、etc.。人間が息をするためには毎日、毎月、毎年、こんなにも沢山の金が要るものなのかと否応なく思い知らされた。父母の遺した預貯金を食い潰すようにして僕たちは何とか生きていた。
 が、それも、もう底をつく。
 ケースワーカーからは、マンションを売り払い、月々の家賃が格安の市営住宅に移ることを勧められていた。

「悩んだってしょうがないし」
 期間限定スイーツを口に運びながら弥生。
 スウェットパンツにパーカー姿で、ソファーに俯せになって脚をパタパタさせ、スプーンを口に咥え、空いた両手で無造作に髪を後ろに束ねながらモゴモゴと「ふぁ、ふぉふぉふぉひふぁ」
 スプーンを口から出すと
「なことよりさ、、またお金盗られた?」

慧兎・22時間前
小説
謳うよ、再生の詩
再掲
ダイジェスト版

※長いので無理に読まないでね


      謳うよ、再生の詩

         最終章
 


 人いきれのする大衆食堂に馴染めない。
 子どもの時からそうだった。

 食べたくもない炒飯を咀嚼し、コップの水で流し込むように喉の奥へと運ぶ。漸く半分食べたところで音をあげた。隣にはズルズルと旨そうに拉麺を啜る音。

「なんだ、お口に合わなかったか、どれ、俺が食うから寄越せ」

 呆れた食欲だ。

「(ムシャムシャ) …なんだな…もっとこう…」
「店が開いてさえすりゃステーキにでもしときゃ… (ムシャムシャ) …よかったな」

 僕は黙って男の方に顔を向け、その猛烈な食欲に少し気分が悪くなって、しげしげと眺めていた顔を前に戻すとコップの水を飲み干した。

 人通りの殆どない寂れ始めた繁華街の、シャッターが降りたブティックの前にベンチがあった。

 僕に腰掛けるように勧めて、ちょっと待ってろとだけ言い残し、どこかにいなくなると、やがて戻ってきた男は、一方に洒落た小箱を持ち、もう片方に持っているテイクアウトの珈琲の一つを僕に差し出した。

「お前、名前は?」
「…睦月…… 長門… 睦月」
「そうか、ハイカラな名前だな」、カッカッカッと男が笑う。
「あの… さっきは… 有難うございました」
「もうちょっと旨いもんにしといたら良かったなぁ」
「あ、いえ、、そっちじゃなくて」

 男は何も言わず、そして何も言うな、とでも言うように静かに前を見つめ、手にしたホット珈琲を口に運んだ。

 ___
 
 珈琲がすっかり冷めてしまい、長い沈黙に堪えきれなくなった僕が
「あの、、」と、言いかけると
「漁船に乗っていたんだ」
「…え?」
「まぁそれはいい、お前、睦月、だったな、睦月のことを聞かせてくれ」

 今日出会ったばかりなのに随分と不躾な人だな、、と思ったものの、助けてもらった上に食事まで御馳走になった手前もあって、ポツリ、ポツリと、僕は次第に話し始めていた。

 煽り運転の事故で一度に父も母も亡くなったこと、犯人は未だに逮捕されていないこと

 父母が遺してくれた預金と生命保険を食い潰すようにして姉と二人で生活していること

 生活保護を受給しようとしていること

 虐めに遭って不登校気味になっていること

 恐喝でお金を盗られていること…

 そこまで話すと僕は黙り込んでしまった。

 トランスジェンダー、、
 性同一性障害、、
 
 そう言っても分かってもらえないかもしれないし、それが何なのかを最初から説明するのも億劫で、それに何よりその事を話すのが嫌で、気が引けた僕は、言いかけた口を何度か開きかけた後、うつむいて黙り込んでしまった。

 僕の話が一段落したと判断したのか、それとも言いあぐねて思案している僕に助け船を出してくれたのか、男は片足に肘をつくと顎に手を当て口を開いた。

「会社が潰れちまってな」

「…」

「俺には子どもがなくてな、嫁とニ人で何とか切り盛りして小さな町工場をやってたんだ」

「頑張れるだけ頑張った。だが、いくら頑張れども増えていくのは借金だけでな、こりゃ続けたところでジリ貧になっちまうってのは俺みたいな馬鹿でも流石にわかる。それで工場を閉めた」

「この歳になると大抵の職場は雇ってくれないんだよ、あるにはあるが安いとこばかりさ、月々の借金の返済額にも足りやしない、そんな手取りでは自分も家族も食っていけない、どうにもやってけなかった… ってわけさ、、わかりやすい話だろ」

 僕は返事する代わりに冷えた珈琲を一口飲んだ。

 そんな僕を眺め、一息置いてから男は続けた。

「漁で稼いだ仕送りで、食っていく分と月々の返済は何とかなった。鮪は金になるんだ。嫁を置いていくのは忍びなかったが、老母の世話もあって、嫁はこの土地を離れるわけにいかなかった」

 そこまで話すと、ホゥ…… っと、男の口から長い溜息が漏れた。

 それから一呼吸置いて、「5年…」とだけ言うと、今度は男が冷めた珈琲を飲んだ。

「5年かかって、全額返済さ。それに…」
 傍らに置いていたボストンバッグを膝に乗せるとジッパーを開け、僕の方に中身を傾ける。
 見たことのない札束の山が帯封されたまま顔を覗かせていた。
 吃驚した僕が目を見開いたのを合図のように、男はゆっくりとジッパーを閉じた。

「今まで苦労かけた分、残りの人生、楽させてやろうと思ってな。嫁と、母に、、な」

 男と僕の前を学校帰りの小学生が、はしゃぎながら数人駆けていった。
 彼らの雲雀のような嬉しげで高らかな声を聞く限り、世界は平和に思えた。
 雲雀達の声が通りの向こうに遠退いた後を、もっと聴いていたいと僕は無意識の内に目で追っていた。

「もう要らないんだ」
 初めて聞く男の弱々しい声だった。

「え?」、思わず男の方に振り向く。

 男は何も語らず、冷えきった珈琲で両手を温めるようにして俯いている。
「それはどうし…」
「死んじまったよ… 2人とも」
 呟くようにボソッと語った。
 まるで自分に言い聞かせているみたいに。

 _____

『やっと帰れることになった』
『本当に!港まで、港まで迎えに行くわ!』
『駅まででいいよ、そうだ、お前と母さんの好きな、あの店のケーキを買って帰ろう』
『待ち遠しいわ、、あぁ、あなた、本当に本当に…… 今まで………………… お疲れ様でした』

 _____

「それが… 妻の最期の言葉に… なった」

 __ 居眠り運転のトレーラーが対向していた駅に向かう途中だったと見られる乗用車を巻き込み、運転していた女性と同乗していた女性2人が即死 __

 僅か数日前のその凄惨な記事は、僕の記憶にも留まっていた。

 フーッと紫煙を空に向かって吐き出すと、
 男は
「葬儀と納骨は済ませた」
「…」
「だから、な」
「もう要らないんだ」と、繰り返した。

 煙草を揉み消すと
「金ってやつぁ不思議なもんでな」
 新しい煙草に火を点ける。
「こっちが欲しい欲しいと喉から手が出る程になってる時にゃ、これがどうして、中々近寄って来ちゃあくれねぇんだが」
 煙が目に染みたのかゴシゴシ目を擦って
「いざ要らないとなったら途端に寄ってきやがる、、、事故の賠償金… だとよ」、吐き捨てるように言う。
 心なしか肩が震えている。

 目を擦ったのは煙草のせいではない、それすらも分からなかった自分を情けなく思った。

 僕は何を言ってあげればよかったのだろう。憔悴しきったこの初老の男にかける言葉を、僕の頭のありったけのガラクタ箱をひっくり返して探してみても、何ひとつ見つけられず思い浮かびもしなかった。

「お嬢、あ、いや坊主、、いや、睦月、だったな、これを持っていけ」
「…え??」
「俺の帰るべき場所は、、もう無い」
「う、受け取れるわけないじゃないですか、こんな大金!」
 それを聞くと大きく目を見開いた後で、カッカッカッと愉しげに笑い、
「周りや、お役所が何か言ってこようが、宝くじに当たったとでも言っておけ」

「いいか、これはお前への贈り物だ、生きるべき居場所を失くした爺が、これから生きようとする場所を探している若者への餞だ」

「僕は… 貴方に何も… してあげれていません…」
 それを聞くと男はフッと笑い、
「それもそうだな」と、ちょっと意地悪げに言う。
「じゃあ、今から睦月、お前にお願いが3つある」
「…」
「先ず1つ」
 どんな望みを言われるのかと、どぎまぎする。

「このケーキを一緒に食おう」
「… は?」
 ベンチの傍らに置いていた洒落た小箱を男が開けると、モンブランが2つ入っていた。

「旨いか?」
「… はい、とっても」
「そうか」
「あの…」
「なんだ?」
「これが、その… 奥さ… の」
「…」、男は何も返さなかった。

 僕は少しも残すまいと、銀紙に付いているクリームまで舐めた。それを見た男は嬉しげに微笑んだ。
 食べ終わると男が言った。
「2つ目の願いだ」
「…はい」

「今食ったケーキの箱をお前が捨てるんだ、但し、俺が見てない所で、な」
「え、、」
「それが2つ目の願いだ、どうだ、難しいか?」、悪戯っぽく男は笑う。

 駅まで歩いた。
 助けてもらったあの駅だ。
 2つ目までの願いを言い終えた男は、どこかしら陽気だった。
 ボストンバッグは僕に持たせ、何度返そうとしても頑として受け取らなかった。
「あの…」
「ん?」
「その、、まだ3つ目の願いを…」
 途端にカッカッカッと、いつもの笑いだ。
「もう半分叶えてもらってるがな」
「え?」
「これから港行きの電車に俺は乗る」
「… はい」
「電車が見えなくなるまで見送ること、それが3つ目だ」
「え、、それだけ、ですか」
「それだけだ」
 本当にそれだけ言うと、急に男は真面目な顔になる。
「お前に、、いや、睦月」名前を呼び直す。

「最後になるが、睦月、お前に会えて良かった」

         ◆

 マンションの屋上に上がると、風の冷たさに震えた。ドアを開けた時に驚いた鵯の群れが不満げに鳴いて一斉に飛び立った。僕にしがみついた弥生が言う。
「ねぇ、、今ならまだ引き返せるんだけど… やめない?」
 僕の決心は固かった。

         ◆

 港行きの電車が3番線ホームに入るアナウンスが流れた。
「睦月、、お前の手を握ったことが無かったな」
 温かく大きな手だった。握った手に大きな豆が並んでるのが分かった。生半可な労働では出来ない豆だ。僕を見つめ、優しい目をした男は握り締めていた手をゆっくりと離すと、僕に背を向けた。

 ホームに電車が入ってくる

 その時だった

 一瞬の事だ

 男は、線路に ______ 落ちた

 パァァァァァン突然の警笛、鉄と鉄の擦れ合う急ブレーキの音を連れ、電車はホームに入った。

 ボストンバッグとケーキの空箱を胸に抱き抱え、呆然自失になって立ちすくむ背後から、耳元に囁く声を聴いた。

 ( 次は、、お前の番だ )

 騒然となる駅。
 駅員「下がって! 退いてください!」
 客「誰か轢かれたの?」
 客「あ~ぁ」
 客「まぁた自殺かよ、電車が遅れる迷惑考えろっつーの」
 ……………
 …………
 ………
 ……
 …
 ··
 ·

 防犯カメラの映像から、その日の内に山嵜は逮捕された。

         ◆

「ねぇ、やめようよ、ねぇったら」
 帯封を解くと新札は面白いように宙に舞った。舞い落ちる見下ろした14階先に箱庭の世界があった。そこにある筈の人の夢や欲望が、今ではこんなにもちっぽけに見えた。
「お葬式なんだ、、僕にとっての」
 憤懣やる方ない弥生にそう説明した。
 全然納得してくれなかったけれど。

 呆けたように数百万円、空に蒔いた後、頬を思いっきり叩かれた。何もかも全部撒いてしまうつもりだった僕はやっと手を止めた。
「こんなことをして!」弥生は肩を震わせ、
「あんたに何故託してくれたのか、そんなこともわからないわけ!」
 あの駅で泣くことのできなかった僕の目からようやく堰を切ったように止めどなく涙が溢れた。僕から紡ぎ出される嗚咽は、周りのビル群に反射して響鳴し、行き着く先など知らぬまま、何処へともなく吸い込まれていった。
 そっと僕を抱き寄せ、弥生は「降りよ…」とだけ言うと、泣くことをやめない僕の手を取り、部屋へと連れ帰った。
 階段を降りる時に立てる乾いた足音が、どこかレクイエムを刻んでいるかのようだった。

 弥生とよくよく話し合って、交通事故で親を亡くした身寄りの無い交通遺児達に、撒いてしまった残りを全額、僕達は寄付することにした。
 数えても無かった総金額は、僕達にとっては天文学的数字だった。
 ケーキの箱は今でも僕の部屋に大切に飾ってある。
 あ、勿論ボストンバッグも。

 学校で僕は相変わらず虐められている。けれど。

 何をされても、言われても、嫌だと感じたらハッキリと「やめて」と毅然とした態度で言えるようになった以前と明らかに変わった僕を気味悪がってか、最近は虐められることが少なくなった。

 学校を休むことは無くなった。

         ◆

 マンションの買い手が見つかった。
 僕と弥生は、2つ離れた町の市営住宅へと引っ越すことになった。

 マンションを明け渡す前の日、帰宅すると芳ばしい香りが、荷造りが殆ど出来た家の中に漂っていた。
「何か焼いてるの?」
「銀杏をね、拾ってきたの」
 少し塩を振り、焼けた実を齧る。
「あれ、ダメよ、ちゃんとお供えが先」
「あ、ごめん」

 そんなやり取りを微笑み返すように見てる父さんと母さんに、今ではすっかり習慣になった挨拶を今日も告げた。

 僕は ____ 此処にいるよ、、って。

         ◆

 街路樹の銀杏並木が連なる枝に、
 山から来たのか羽根を休めた瑠璃鶲一羽
 一頻り囀ずると小首を傾げ、
 直に飛び立ち、
 勢いよく空の青に溶け込んでいった。

慧兎・22時間前
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謳うよ、再生の詩
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